最北の水田
九月の初め、冬真が返却されたパンフレットを棚に戻していると、菅原がカウンターの奥から声をかけた。
「佐々木君、黒川さん。今日、留多加行ってきてもらえる?」
芽瑠萌が隣へ来た。
「留多加ですか?」
「留多加の山の方にある日本最北の水田。サイトの記事、現地確認が必要だって話になってて」
菅原はパソコンの画面を二人へ向けた。
黄色くなった水田と、道路脇に立つ黒い標柱が映っている。写真の下には短い紹介文があった。
「北海道の遠別から、うちの観光協会の上の方にいくつかクレームが来た。こっちで作った案内パンフレットの表現が気に入らないとか、不正確だとか」
「遠別」
聞いたことのない地名だった。
「昔、日本最北だったところ。留萌の北、天塩のあたりかな。向こうでは今も米作ってるのに、うちの記事だと昔の話みたいに読めるとか。そもそも本当に今でも樺太で米作ってるのかとか」
「作ってるんですよね?」
「作ってる。だから、向こうに反論ってわけでもないけど、もっと客観的で分かりやすい資料を作り直そうってことになった」
菅原はページを少し下へ送った。
「四年前の写真しかないから、今の標柱と案内板、見学できる場所、それから今年も作付けされてるのが分かる写真。できれば稲刈り前のやつが欲しい」
「分かりました」
「現地に連絡も入れてある。話聞ける人も来てくれるから、分からないところは確認してきて」
芽瑠萌がメモを取った。
「戻りは?」
「四時くらいで大丈夫。昼も向こうで適当に」
菅原は車の鍵を机に置いた。
案内所を出て駐車場へ向かう途中、芽瑠萌が鍵を手に取った。
「今日、私運転する」
「いいよ」
「帰り、眠くなったら代わって」
「分かった」
芽瑠萌が運転席へ乗り、冬真は助手席で行き先を設定した。
豊原の市街地を抜け、樺太縦貫道へ入る。
今日も南へ向かう車が多かった。左をコンテナを積んだ大型トラックが走り、冬真たちの右を乗用車が一台抜いていく。そのさらに右にも車の列が流れていた。中央分離帯の向こうでは、何列もの車が豊原へ向かってくる。
豊北JCTの案内が見え始めると、芽瑠萌はすぐに車線を移った。
冬真はナビを見た。
「相変わらず早いな」
「あとで入る方が面倒だから」
前の車との間隔が少し詰まると、芽瑠萌はアクセルを戻した。
大泊へ行ったときに直進したところを、今日は西へ入る。高架が大きく曲がり、本線から離れた。
しばらく走ると、左手に亜庭湾が見えてきた。
海岸沿いには巨大なタンクが並んでいた。銀色の配管がその間を渡り、煙突の向こうで白い煙が風に流れている。岸壁には何本ものクレーンが立っていた。
コンテナを積んだ長い貨物列車が、高速道路のすぐ横をゆっくり西へ進んでいる。
「ずっと工場だね」
芽瑠萌が言った。
「向こうもまだある」
海の方を見ると、煙突の間から、大きな船の上部だけが見えた。
留多加の市街地へ入って高速を降りても、景色はあまり変わらなかった。
広い道路をタンクローリーが走り、倉庫の向こうにまたクレーンが見えた。
昼には少し早かったが、水田へ向かう前に食事を取ることにした。
駅から少し離れた蕎麦屋に入り、二人で奥のテーブルへ座る。
壁に掛かった木札には、《喜美内産そば粉使用》と書いてあった。
冬真は鮭の天ぷらがついた冷たい蕎麦を頼んだ。芽瑠萌は茸蕎麦にした。
「朝、何食べた?」
「黒パン。チーズと卵」
「俺は米だった」
「じゃあ今日二回目だね」
「二回目?」
「お米に会うのが」
「会うものなのか」
芽瑠萌が水を飲んだ。
「私、田んぼ見るの、初めて」
「俺も」
「稲の実物も分かんないかも」
「写真で見たことしかないな」
蕎麦が運ばれてきた。
芽瑠萌の丼から湯気が上がった。
しばらく黙って蕎麦をすすってから、芽瑠萌が言った。
「菜月、十月に札幌行くんだって」
「オープンキャンパス?」
「うん」
「江口も札幌の大学見てるって言ってた」
「先生も、島の中だけで決めないで一回は外も見ろって」
冬真は鮭の天ぷらを蕎麦つゆにつけた。
「黒川は?」
「まだわかんない」
「俺もまだ決めてない」
「東京も見る?」
「候補には入れるかも。母さんには、大学だけじゃなくて家賃も見ろって言われた」
「高そう」
「たぶん」
芽瑠萌は茸を箸で取った。
「私、島の外に出たことないから、札幌も東京も、あんまり想像つかない」
「そうだよな」
「お父さんもお母さんも樺太から出たことない」
「二人とも?」
「うん。だから、豊原にあるならわざわざ遠くに行かなくてもいいんじゃないかって」
芽瑠萌は蕎麦をすすった。
「そうかもな」
冬真は頷いた。
食事のあと、海岸から離れて内陸へ向かう。
工場の塀が途切れると、その向こうに平たい草地が現れた。水の溜まった場所がところどころ光っている。
さらに進むと牧草地が広がり、ジャガイモ畑の向こうに低い林が続いた。さっきまで見えていた煙突は、いつの間にかなくなっていた。
「あと二キロ」
冬真が言った。
芽瑠萌が速度を落とした。
道の両側には畑と林しかない。いつの間にか、北と東西を低い丘に囲まれていた。南だけが開けていて、来た道の向こうに平地が続いている。
「どれだろう」
「まだ先」
ナビの表示が五百メートルを切った。
冬真は窓の外を見た。
「これ?」
道路の左側に、黄色い畑が広がっていた。
「違うかな」
「分かんない」
少し先に黒い標柱が見えた。
芽瑠萌がウインカーを出して、路肩に車を停めた。
標柱には縦に白い字で《日本最北の水田》と書かれていた。その横に小さな案内板がある。
観光客は誰もいない。
二人はしばらく水田を見た。
黄色い稲が低く広がっている。田の向こうには雑木林の覆う低い丘が迫り、左右にも緩い斜面が続いていた。来た道の方だけが開けている。
細い電気柵が田の縁を囲み、ところどころに色の褪せたテープが結ばれている。
「水田って、こういう感じなんだ」
芽瑠萌が言った。
「普通に畑だと思った」
「私も。水田っていうのに水はないんだね」
冬真は稲に近づいた。穂が重そうに垂れている。
「これが米か」
芽瑠萌も横から覗いた。
「白くないね」
「茶色い」
後ろから車の音がした。
赤い軽トラックが停まり、作業着姿の男が降りてきた。五十代くらいだった。日に焼けた四角い顔で、眉が太く、目元がはっきりしている。短い髪には白いものが混じっていた。
「豊原の観光案内所の方?」
「はい」
「留多加農協の違星です。連絡もらってます」
「佐々木です」
「黒川です。よろしくお願いします」
「このあたりで営農指導をしています。この辺の水稲も担当してますんで、何か聞きたいことあったらどうぞ」
芽瑠萌が確認票を出した。
「まず、案内板と見学場所を確認したいんですけど」
「案内板はそれだけです。去年替えたやつ。車は今停めてるところまでですね。とくに駐車場とかないんで、田んぼの中には入れないように書いてもらえると助かります」
冬真は案内板を撮った。
芽瑠萌は記載内容を確認し、見学できる範囲と駐車場所を書き込んでいく。
「稲刈りはいつからですか?」
「隣はもう始めてます。こっちの田んぼは明日か明後日かな。来週にはだいぶなくなりますよ」
「観光協会のサイトだと、九月中旬まで見られると書いてあります」
「年によりますね。今年はそこまで残らないと思います。早霜が怖いから、穫れるなら早めに穫ります」
冬真は水田の全景が入る位置まで道路を戻った。
標柱と案内板、小さな黄色い水田、その後ろの林まで画面に入れる。
何枚か撮ってから、違星のところへ戻った。
「遠別とは、前からこういうことがあるんですか?」
「ありますよ。昔から」
違星は水田の方を見た。
「こっちで米が穫れるようになった頃からだから、もう四十年近いかな」
「そんな前から?」
芽瑠萌が言った。
「最初は、こっちも日本最北になるなんて思ってなかったんですよ。樺太じゃ米はできないって言われてましたからね」
違星は水田へ歩き出した。二人もその後を歩いた。
「戦前から何度もやってるんです。夏は短いし、水は冷たい。秋になるとすぐ霜が来る。育っても実が入らなかったり、穫る前に駄目になったりね」
「ずっと失敗してたんですか?」
冬真が聞いた。
「いや、穫れた年もありますよ。ただ、穫れた年があるのと、毎年作って商売になるのは別なんです」
違星は稲の穂を一つ持ち上げた。
「八十年代に入って、寒さに強くて早く穫れる品種を使うようになった。苗の育て方も変えたし、水が冷たすぎないようにする工夫もした。それでようやく、この辺で毎年作れるようになりました」
芽瑠萌が黄色い水田を見た。
「それで、日本最北になったんですね」
「そう。遠別より北ですからね」
違星は頷いた。
「あの頃は新聞にもずいぶん出ましたよ。『日本最北の水田、樺太へ』って。こっちは、できなかった米ができたって喜んでた。でも遠別は、それまでずっと日本最北だったからね」
「それが今も続いてるんですか?」
「毎年喧嘩してるわけじゃないですよ」
違星は笑った。
「でも、最北っていうのは一つしかないから」
遠くでエンジン音がした。
水田の端からコンバインが動き始めていた。黄色い稲が機械の前へ吸い込まれ、その後ろに短い株だけが残っていく。
「撮っていいですか?」
芽瑠萌が聞いた。
「いいですよ。農家さんの顔が大きく入らなければ」
二人は道路側へ戻った。冬真が写真を撮り、芽瑠萌は短い動画を撮った。
「これ、使えそう」
芽瑠萌が画面を見せた。
コンバインの後ろで稲の列が一本ずつ消えていく。
「菅原さんに送ろう」
作業が一段落すると、違星が小さな建物へ二人を案内した。
「去年のだけど、食べてみます?」
炊飯器から、小さな茶碗に米をよそってくれた。
「これが『るうたか』」
冬真は一口食べた。
少し粒が小さく、普段食べている米より硬い。甘みも弱かった。
芽瑠萌も食べる。
「結構、しっかりしてますね」
「冷めるともっと硬くなる」
違星は言った。
「今の北海道の米の方がうまいですよ」
冬真は茶碗を見た。
「それでも作り続けるんですね」
「まあね」
違星は窓の外を見た。
「ここじゃ米はできないって、ずっと言われてましたから。何回失敗しても試した人がいて、ようやく毎年穫れるようになった。北海道から買った方がうまいからやめます、っていうのも寂しいでしょう」
「作ってる量は少ないんですか?」
「少ないですよ。樺太を米どころにしようなんて、誰も思ってません」
違星は茶碗を持った。
「これくらいでいいんです」
帰り道、芽瑠萌が運転し、冬真は助手席で写真を選んだ。
「標柱入ってるの、これが一番いいかも」
信号待ちで芽瑠萌が画面を見た。
「後ろの田んぼも分かるね」
「稲刈りのも送る」
「動画も」
「うん」
また、大きな工場が見え始めた。
煙突、タンク、貨物線。その向こうに亜庭湾。
芽瑠萌は前のトラックとの間を少し開けた。
冬真は写真をもう一度見た。黄色い水田の端に、日本最北の黒い標柱がひっそりと立っていた。




