黒川家
昼休み、冬真は芽瑠萌の向かいでパンの袋を畳みながら言った。
「黒川って、敷香にも住んでたんだよな」
「うん。小学校の途中から」
「奥端の話は結構聞いたけど、敷香の話ってあんまり聞いてない気がする」
芽瑠萌は少し考えた。
「そうだっけ」
「奥端は熊とかダーチャとか、いろいろ聞いた」
「熊はお父さんだけど」
「敷香では何してた?」
「普通に学校行ってたよ。友達と遊んだり、自転車乗ったり」
「自転車?」
「うん。結構いろんなところ行った」
冬真は敷香へ行ったことがなかった。
北樺太県の県庁所在地で、豊原の次に大きな街。
地図では、島の東へ大きくせり出した北知床半島の付け根にある。
街の近くには多来加湖という大きな湖があって、冬になるとシベリアから白鳥がたくさん来るらしい。正月のテレビで、水面いっぱいに白い鳥が浮かんでいるのを見たことがあった。
豊原駅では敷香行きの列車を普通に見かける。遠いけれど、知らない街というほどでもない。
ただ、そこを小学生の芽瑠萌が自転車で走っていたということは、今までほとんど考えたことがなかった。
「写真とかないの?」
「あるよ。小学校のときの」
「見てみたい」
「アルバム、うちにある」
芽瑠萌は冬真を見た。
「来る?」
「え」
「うち」
冬真は手に持っていたパンを置いた。
「黒川んちに?」
「うん」
芽瑠萌も、言ってから少し意識したらしい。目が合うと、先にパンの袋へ視線を戻した。
冬真は何と答えるか考えた。
行きたい。
それは間違いなかった。
ただ、黒川家というのは、豊北高原や大泊へ行くのとは何かが違った。
「俺、行っていいの?」
「いいよ」
「親は?」
「いると思う。土曜日なら」
芽瑠萌の父親のことを思い出した。
大きな電機会社で働いている。奥端にいたころは北部の工場や設備を回っていた。
熊が出れば仕事仲間と撃ちに行った。
家には今も銃がある。
「お父さんも?」
「いると思うよ」
冬真は少し黙ってから言った。
「じゃあ、土曜」
「うん」
芽瑠萌は笑った。
その笑顔を見たときは、行けることの方が嬉しかった。
*
土曜日、冬真は豊原駅地下の吹き抜けにある銀の鈴の前で待っていた。
東京駅の待ち合わせ場所を真似して作った、と聞いたことがある。
本当かどうかは知らないが、鈴の下には、冬真と同じように誰かを待っている人が十人ほどいた。
待ち合わせの時間が近づいたころ、芽瑠萌が人の間から歩いてきた。今日は髪に琥珀がついていない。
「待った?」
「今来た」
実際には十分前からいた。
冬真の手には焼き菓子が入った紙袋もあった。地下街を二十分くらい歩いて選んだものだった。
「それどうしたの?」
「一応、お菓子」
「そんなのいいのに」
「初めて行くし」
芽瑠萌は紙袋を見て、「そっか」と小さく頷いた。
地下鉄の駅の方に歩いていく途中で、芽瑠萌が急に足を止めた。
「佐々木くん」
声が低かった。
冬真は芽瑠萌の視線を追った。
人通りの向こう、ワインバーの前あたりに、見覚えのある横顔があった。
その顔に気づいた瞬間、冬真も足を止めた。
アレクセイ・ヴォローニン。
旭ヶ丘で双眼鏡を覗いていた男だった。
胸の奥が冷えた。
ヴォローニンは一人ではなかった。誰かと向かい合い、人あたりの良さそうな笑顔を浮かべてロシア語で何かを話している。
相手は女だった。肩までの明るい茶色の髪が見える。
その女がこちらを向いた。
その瞬間、冬真は息を止めた。
「……ナタリヤ先生?」
芽瑠萌も目を見開いたまま固まっていた。
どうして。
最初に浮かんだのは、それだった。
知り合いなのか。
ただの知り合いなら、それでいい。
けれど冬真の頭には、旭ヶ丘で見た双眼鏡が浮かんだ。
防衛年鑑。
川上の山道。
携帯電話が通じない場所。
八月のロシア軍機。
冬真は横の芽瑠萌を見た。
芽瑠萌はヴォローニンたちから目を離していなかった。
───ナタリヤ先生も関係があるのだろうか。
芽瑠萌は一瞬、本気でそう思った。
ナタリヤ先生と初めて話したのは、去年の四月だった。
一年の最初のロシア語の授業で、先生は教卓に名簿を置いて、一人ずつ名前を呼んだ。
そして芽瑠萌のところで少し止まった。
「くろかわ……めるも?」
「はい」
「ミーラエ・イーミャ、かわいい名前ですね」
そう言って笑った。
授業のあとに芽瑠萌が質問に行くと、まだほとんど話したこともないのに、「黒川さん、発音がきれいです」と褒めてくれた。
その先生が、今、ヴォローニンと話している。
もしあの男が、本当に自分たちが考えているような人だったら。
ナタリヤ先生は。
芽瑠萌はそこから先を考えたくなかった。
向こうでヴォローニンが何かを言い、ナタリヤ先生が楽しそうに笑った。
その笑顔を見ているうちに、別の記憶も出てきた。
博多明太子を熱いご飯に乗せて食べるのが好き。
健康診断の前だけは菓子を我慢する。
飼っている猫が太って、獣医に叱られた。
どれも、どうでもいい話だった。
でも芽瑠萌が知っているナタリヤ先生は、そういう話をする人だった。
疑いが消えたわけではなかった。
目の前の二人が知り合いだという事実も変わらない。
ただ、さっき一瞬だけ頭に浮かんだ「知らないナタリヤ先生」の方が、本当にいるのか分からなくなった。
考えているうちに、会話は終わったようだった。
ヴォローニンが何か短く言うと、ナタリヤ先生もロシア語で返した。二人は軽く手を上げて別れ、ヴォローニンは地下鉄とは反対の回廊へ歩いていった。
冬真と芽瑠萌はその背中を目で追った。
「あら」
ナタリヤ先生の声がした。
振り向くと、先生がこちらを見ていた。
「黒川さん。それから、ええと……」
「佐々木です。三組の」
冬真は少し硬い声で返した。
ナタリヤ先生は気にした様子もなく、笑顔になった。
「今日は、二人でお出かけ?」
「はい」
芽瑠萌が答える。それから、意を決したような声で聞いた。
「さっきの人、知り合いなんですか?」
「さっきの人?」
ナタリヤ先生は一瞬考えるような顔をしてから、頷いた。
「アレクセイのこと? 知ってますよ。よく豊原に来るし、前にも……」
「何話していたんですか?」
「天気とか。最近、朝寒くなりましたね、とか」
ナタリヤ先生はそう答えてから、少し怪訝そうな顔をした。
「二人とも、アレクセイを知っているの?」
「はい、アルバイト先で……」
「あら、いいわね。彼、話すと面白いし、いろいろ勉強になると思うよ」
そこでナタリヤ先生は「あ」と声を上げて、腕時計を見た。
「私、買い物の途中だった。丸井の地下に九州の物産展が来てるから、明太子買わなきゃ。じゃ、また学校でね」
先生は手を振って、デパートの方へ歩いていった。
冬真が言った。
「──天気だって」
「──それで、明太子」
芽瑠萌も言った。
「普通だな」
「普通だね」
ヴォローニンの話は、黒川家が近づくころには途切れていた。
*
マンションのエレベーターが静かに上がっていく。
冬真は手に持った紙袋の紐を持ち直した。
さっきまでヴォローニンのことを考えていたのに、今はそれどころではなかった。
芽瑠萌が階数表示を見ている。
「緊張してる?」
「ちょっと」
「お父さん、怖くないよ」
「知ってる」
知らない。
知っているのは熊を撃ったことだけだ。
廊下に出て、芽瑠萌が玄関の鍵を開けた。
「ただいま」
「おかえり」
女性の声が返ってきた。
冬真もあとに続いて靴を脱いだ。
「お邪魔します」
母親が奥から出てきた。
「佐々木君? いらっしゃい」
小柄な人だった。肩までの髪は芽瑠萌より少し明るく、灰色がかった目がよく似ていた。
「これ、よかったら」
紙袋を渡すと、母親は少し驚いてから受け取った。
「ありがとう。気を遣わなくてよかったのに」
その後ろで、居間から大柄な男が出てきた。
冬真は反射的に背筋を伸ばした。
写真で見たこともないので、顔を知っていたわけではない。それでもすぐに父親だと分かった。芽瑠萌よりずっと背が高く、眼鏡の奥の目元は静かだった。
「佐々木君?」
「はい。佐々木冬真です」
「どうも。芽瑠萌の父です」
頭を下げられ、冬真も慌てて頭を下げた。
「お邪魔します」
「どうぞ」
父親はそれ以上何も言わず、居間へ戻った。
冬真は芽瑠萌を見た。
芽瑠萌は慣れた様子で、もう靴を脱いでいた。
居間に通されて、ソファに座った。
母親がお茶の支度をしている間、冬真は父親と向かい合った。
テレビはついていない。時計の秒針の音が聞こえた。
「陸上やってるんだって?」
父親が聞いた。
「はい。四百です」
「四百か」
「はい」
「きついな」
冬真は少し意外だった。
「走ったことあるんですか?」
「いや、ない。でも四百メートル走るのは疲れるでしょ」
父親はひとりで軽く笑った。
母親がお茶を運んできた。
「この人、全然喋らないから緊張するでしょ」
「いや、そんな」
冬真が答えると、父親が母親を見た。
「喋ってるよ」
「今日はね」
芽瑠萌が隣で笑った。冬真も笑って、肩に入っていた力が少し抜けた。
冬真は居間の隅に、見慣れない大きな器が置いてあるのに気づいた。
黒ずんだ胴に赤い色がまだらに残り、縁や蓋にはくすんだ金色がのぞいている。あちこち塗装が剥げているが、昔はもっと派手なものだったのかもしれない。上には小さなポットが載っていた。
母親がそのポットから濃い紅茶を注ぎ、器から湯を足した。
冬真はその手元を見て、ようやく正体が分かった。
「これ、もしかしてサモワールですか」
「そう。古いけど、まだ使えるから」
「初めて見ました」
「私のおばあちゃんの家から来たの。もっと前からあったけど」
「へえ」
「ご先祖さまがニジニ・ノヴゴロドだったか、カザンだったか、そのへんで商売をしていたらしくてね。革命のときに白軍と一緒にこっちに逃げてきて」
芽瑠萌は慣れた手つきで自分の紅茶を作った。冬真も真似をしたが、最初の一口は濃すぎた。
「お湯、もう少し入れていいよ」
芽瑠萌が言った。
小皿に載った木苺のジャムも出た。
芽瑠萌は小さなスプーンで少しすくって口に入れ、紅茶を飲んだ。
「それ、そうやって食べるの?」
「うん。うちはね」
冬真も真似してみた。
甘酸っぱさのあとに紅茶を飲むと、さっきより苦みが柔らかく感じた。
テーブルには菓子の皿と一緒にザワークラウトが置かれていた。
ザワークラウトなら樺太では珍しくない。ただ、黒川家では本当に漬物だった。大きめの器から芽瑠萌も父親も普通に取っている。
「これ、おいしい」
「お母さんが作ったやつ」
「家で作るんだ」
「うん。北樺太にいた頃は、秋にいっぱい漬けて、冬に食べてた」
観光案内所の話になり、先週、留多加まで水田を見に行ったことを話した。
「山の方?」
父親が聞いた。
「はい。農協の人に話を聞いて」
場所を説明すると、父親はすぐに分かったらしい。
「あの辺か。昔行ったことあるな」
「観光で?」
「仕事。近くに受電設備があって」
母親が紅茶を飲みながら笑った。
「この人、町の話すると大体それなの。工場とか変電所とか」
「仕事で島じゅう行ったから」
「敷香にいたときも?」
冬真が聞いた。
「行ったよ。敷香から北はよく回った」
「奥端より北も?」
「うん。現場によっては」
冬真は、北へ延びていく地図を思い浮かべた。
自分には地名でしかない場所を、父親は仕事で何度も走ったのだろう。
熊の話を知ったときに想像した父親とは、少しずつ形が変わってきた。
「アルバム持ってくるね」
芽瑠萌が立った。
冬真も何となく立つ。
「部屋にあるから」
「俺も行っていい?」
「いいよ」
その返事を聞いてから、冬真はまた少し緊張した。
廊下の途中に書斎があった。
扉が開いていて、壁一面の本棚が見える。
『受変電設備の保守』
『保護継電器』
『電験二種』
『エネルギー管理士』
『シーケンス制御』
『寒冷地における電気設備』
背表紙だけで難しそうだった。
その端に、『猟銃等取扱読本』という本もあった。冬真は歩きながら、それを目で追った。
父親の話を聞いたあとでは、さっきほど怖くは見えなかった。
芽瑠萌が自分の部屋の扉を開けた。
「どうぞ」
冬真は初めて入った。
妹の部屋なら毎日見ている。けれど、芽瑠萌の部屋に入るのは妙に落ち着かなかった。
机の上には教科書とノートが重なり、ロシア語の単語帳が開いたまま置かれている。椅子にはパーカーが掛かり、棚にはゲーム機とコントローラー、箱にまとめられたケーブルがあった。ベッドの端には小さなクッションが二つ並んでいる。
摩央の部屋なら、まず床に何か落ちている。
冬真は足元を見た。
何もなかった。
「どうしたの?」
「いや。摩央の部屋と全然違うなと思って」
「散らかってるの?」
「昨日はベッドの上に通学鞄とドライヤーと靴下があった」
芽瑠萌が笑った。
「靴下?」
「片方だけ」
「もう片方は?」
「知らない」
棚の奥に、少しくたびれたトナカイのぬいぐるみがあった。
「これ、奥端のやつ?」
「そう。たぶん五歳くらいのとき」
芽瑠萌が手に取った。
角の片方が少し曲がっている。
「ずっと持ってるんだ」
「引っ越すたびに持ってきた」
トナカイを戻した横には、小さな金属皿があった。
冬真はそこで足を止めた。
あの、飴色の髪飾りが載っている。
「ここに置いてるんだ」
芽瑠萌もそちらを見た。
「学校にはつけていかないよ。なくしたら嫌だから」
それだけ言って、棚の下から古いアルバムを引き出した。
冬真はもう一度、琥珀を見た。
部屋にあるのは、知らないものばかりだった。でもその中に一つだけ、自分が渡したものがあった。
二人で床に座ってアルバムを開いた。
最初の何ページかは奥端だった。
今よりずっと小さな芽瑠萌が、雪の中で毛糸の帽子をかぶっている。父親に抱かれている写真もあった。別の写真ではトナカイの前で泣いている。
「泣いてるじゃん」
「最初は怖かったの」
「これが前言ってたやつ?」
「違う。このあと乗った」
ダーチャの前で、知らない大人たちと一緒に写っている写真もあった。
冬真が聞いた話が、写真になって並んでいた。
ページを進めると、芽瑠萌が少し大きくなった。景色も変わった。
「ここから敷香?」
「うん」
校舎の前でランドセルを背負っている。
運動会。
雪の積もった歩道。
夏祭り。
川沿いで友達と並んでいる写真。
冬真はそのうちの一枚をじっと見た。
「これ何年?」
「五年生かな」
「黒川だ」
「私だよ」
「いや、ちゃんと今の顔がある」
芽瑠萌も写真を覗き込んだ。
今より幼いけれど、笑った目元は同じだった。
知らない街で、知らない子たちの間にいる。冬真が豊原で陸上を始めるより前の、芽瑠萌だった。
「この子たち、今も敷香?」
「分かんない。何人かは島外に行ったと思う」
「連絡取ってる?」
「今はほとんど」
芽瑠萌が次のページをめくると、人の写っていない写真が何枚もあった。
背の高い草の向こうに水が見える。
その先には低い丘と空しかない。
次の写真も同じ場所だった。光の向きが違う。
その次は秋で、草が黄色くなっている。
「これ、同じところ?」
「うん」
芽瑠萌が少し笑った。
「よく行ってた」
「どこ?」
「敷香の外れ。自転車で行けたとこ」
「何があるの?」
「何もない」
芽瑠萌は写真を一枚抜いた。
「だから好きだったのかも」
家や道路が途切れ、湿った草地の向こうに水が広がっている。街からそれほど離れていないのに、写真には建物がほとんど写っていなかった。
「秘密基地にしてた」
「基地あったの?」
「ないよ。私が勝手にそう呼んでただけ」
芽瑠萌は写真の端を指で押さえた。
「学校から帰って、天気いい日に行ってた。ここに自転車置いて、向こうまで歩いて」
冬真は何枚か並べて見た。
同じ場所なのに、全部少しずつ違った。
雲が低い日。
水面が青い日。
夕方で、草の先だけが明るい日。
芽瑠萌が何度もここへ来たことが分かった。
「エトピリカも見たことある」
「ここで?」
「うん。一回だけ」
芽瑠萌は窓の方を見た。
「たぶんだけど」
「たぶん?」
「遠かったから。水の方に鳥がいて、鳴いてた。あとで図鑑を見て、エトピリカだったと思った」
「違ったかもしれない?」
「うん」
芽瑠萌は笑った。
「でも私はエトピリカだったことにしてる」
冬真は写真へ目を戻した。
鳥はどこにも写っていなかった。草と、水と、空だけだった。
けれど芽瑠萌は、この景色を何度も見に来た。
自分の知らないころに。
「行ってみたいな」
芽瑠萌が顔を上げた。
「敷香?」
「ここ」
冬真は写真を指した。
「まだあるかな」
「あると思う。何もないところだから」
「じゃあ行こうよ」
芽瑠萌は冬真を見た。
「エトピリカはいないと思うよ」
「いなくてもいい」
「何もないよ」
「それも聞いた」
冬真は写真を見た。
「黒川が見てた景色、俺も見たい」
芽瑠萌は何も言わずに写真を見た。
窓の外を車が一台通った。
しばらくして、芽瑠萌が写真をアルバムへ戻した。
「じゃあ、行こう」
「うん」
「雪が降り出す前に」
アルバムを居間へ持って戻ると、父親も昔の写真を見始めた。
「ここ、まだ道あるかな」
芽瑠萌が秘密基地の写真を見せた。
父親はしばらく見て、写真の端を指した。
「この鉄塔が残ってれば分かる」
冬真には、遠くに小さく写った鉄塔しか見えなかった。
「覚えてるの?」
「この先に変電所があったから」
母親が笑った。
「やっぱり変電所なのね」
父親は写真をもう一度見た。
「道はあると思うよ」
芽瑠萌が冬真を見た。
「じゃあ、行けそう」
冬真は頷いた。
帰るころには、外が暗くなりはじめていた。
玄関で冬真は靴を履き、両親に頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
「また来てね」
母親が言った。
父親も居間から出てきた。
「またおいで」
「はい」
来たときには父親の姿を見るだけで背筋が伸びた。
今は、次に来ることを想像してもそれほど怖くなかった。
マンションを出ると、風が少し冷たかった。
芽瑠萌と並んで駅へ向かう。
しばらくして、芽瑠萌が言った。
「今日、ずっと黒川さんだったね」
「親の前で芽瑠萌って呼べるわけないだろ」
「そう?」
「そうだよ」
芽瑠萌は笑った。冬真も笑った。
歩きながら、さっきの写真を思い出した。
五年生の芽瑠萌。
知らない友達。
知らない学校。
自転車で通った、何もない場所。
行ってみたい、と、また思った。




