エトピリカの鳴くところ
朝の敷香では、道路脇の草に白い霜が残っていた。冬真は車の暖房を少し強くした。
「寒くない?」
「大丈夫」
芽瑠萌は助手席でシートベルトを直した。
「冬真くんは?」
「俺も大丈夫」
それきり、しばらく会話が途切れた。
信号で停まると、冬真は前方の横断歩道を見た。
誰もいない。
隣で芽瑠萌も黙って窓の外を見ていた。
「──痛い?」
「もう大丈夫」
芽瑠萌が少しだけ顔を赤くしてから、小さな声で付け足した。
「全然、嫌じゃなかったよ」
冬真は視線を逸らして、ハンドルに置いた手を少し動かした。信号が青になった。
「高速、もう通れるみたい」
芽瑠萌が言った。
「よかった」
「昨日の事故、結構大きかったんだね」
「うん」
今朝は霧はなかった。空には薄い雲が流れている。
車内がまた静かになった。
暖房の風の音だけがしている。
しばらく走ったところで、芽瑠萌が口を開いた。
「ねえ」
「うん?」
「帰る前に、多来加湖、見ていかない?」
冬真は前を見たまま答えた。
「ああ、白鳥が来るところ?」
「うん。ここからそんなに遠くないと思う」
「行ったことあるの?」
「一回か二回。あんまり覚えてない」
芽瑠萌は窓の外を見た。
「せっかく敷香まで来たし」
「いいよ」
「時間、大丈夫だよね」
「高速も開いたし。夕方までに豊原に着けばいいだろ」
「うん」
冬真はナビの目的地を変更した。
「多来加湖、広いな」
「大きいよ。海みたいに」
「そんなに大きいんだ」
「行けば分かるよ」
芽瑠萌が小さく笑顔を見せた。
*
街を離れると、建物は急に少なくなった。
道路の両側には草地と低い林がどこまでも広がっていた。ところどころに牧草を丸めたロールが並び、遠くには送電鉄塔が見える。
空は雲が増え、薄い灰色に変わっていた。道路脇の水たまりには氷が張っているところもあった。
「もう凍ってる。十月の初めなのに」
冬真が言った。
「朝は氷点下だったんじゃないかな」
「豊原じゃ、まだだな」
「敷香は早いよ」
しばらくして、道路の向こうに広い水面が現れた。
最初は海かと思った。しかし、ナビには多来加湖と表示されている。
湖は低い草地の向こうに広がり、対岸は遠く霞んでいた。水面のところどころに細長い陸地が突き出し、浅い場所には枯れた葦が群生している。
「ほんとに広い」
冬真が言った。
「でしょ」
「これ、ほんとに湖?」
「湖だよ」
「海みたいだな」
「うん」
湖岸の近くに小さな駐車場があった。車は一台も停まっていない。
冬真は車を停めて、エンジンを切った。
急に静かになった。
外へ出ると、冷たい風が吹きつけた。
「寒っ」
冬真はジャンパーの襟を立てた。
芽瑠萌もマフラーを巻き直した。
「やっぱり豊原より寒いね」
「うん」
駐車場の隅には、木製の案内板が二つあった。
《世界自然遺産 多来加湖・ポロナイ湿原》
《ラムサール条約登録湿地》
「ここも世界遺産なんだ」
「そうだね」
「博物館のところにも、こういうのあったな」
「うん」
芽瑠萌が手を上げて、琥珀の髪飾りに軽く触れた。
二人はそのまま、湖へ続く道を歩き始めた。
足元には短い木道が敷かれていた。ところどころに霜が残り、その下には黒っぽい湿った土が見える。
木道を進んでいくと、急に景色が開けた。
前にあるのは水だった。
見渡す限り、低い草と水が続いていた。
遠くには薄い霧が残っている。空と湖の境目は曖昧で、対岸の低い丘が灰色の帯のように見えた。
水面には白い点がいくつも浮かんでいた。
「白鳥」
冬真が言った。
芽瑠萌が目を細めた。
「ほんとだ。いっぱいいる」
白鳥は何十羽もいた。
少し離れたところには灰色や茶色の鳥の群れもあり、浅瀬を歩いているものもいた。
突然、遠くで大きな鳴き声が上がり、白鳥の群れが動き始めた。
水面を蹴って走り、羽を広げる。何羽も続けて飛び立ち、低い空へ上がっていく。
「わあ」
芽瑠萌が声を上げた。
「すごいな」
「うん」
二人はしばらくそこに立っていた。
人の声は聞こえなかった。
遠くの鳥の鳴き声と、草を揺らす風の音だけが続いていた。
「こんなところがあるんだな」
冬真が言った。
「南にも湿地はあるけど、こんなに広くはないな」
「うん」
芽瑠萌は湖を見渡した。
「小さい頃は、もっと大きく見えた気がする」
「今でも十分大きいよ」
「そうだね」
二人は木道の先にある低い展望台まで歩いた。
展望台といっても、木の床が少し高くなっているだけだった。手すりの向こうには葦原が続き、その先に広い水面がある。
冬真は手すりに肘を置いた。
「昨日のところとは全然違うな」
「秘密基地?」
「うん。あっちはもっと小さかった」
「そうだね」
「でも、似てるところもある」
「鳥はいっぱいいるよ」
「そうだけど」
冬真も笑った。
しばらく並んで鳥を見ているうちに、ふと芽瑠萌が言った。
「そういえば、大学のこと、また考えた?」
冬真は湖から目を離した。
「ちょっとだけ」
「東京?」
「うん。札幌も」
「どう?」
「まだよく分かんない。大学のホームページとか見てるけど」
「そっか」
冬真は手すりに置いた手を組んだ。
「学部によっても全然違うし。父さんにも、何を勉強したいのか、ちゃんと考えろって言われた」
「うん」
「でも、東京の大学って数が多いな」
「そうなんだ」
「樺太の大学、全部合わせても全然足りないくらいある」
芽瑠萌が少し笑った。
「東京ってすごいね」
「人も多いらしいし」
「地下鉄も?」
「地下鉄も」
「俺たち豊原の地下でも迷ったじゃん」
芽瑠萌が笑った。
「あれは冬真くんがどんどん歩いていくから」
「俺は芽瑠萌が歩いていくのについて行った気がする」
「そうだっけ」
「どうだっけ」
二人は笑った。
遠くでまた鳥が鳴いた。冬真は水面へ目を戻した。
「東京って、冬はあんまり雪降らないんだって」
「でも、雪がない冬って、どんな感じなんだろうね」
「俺も分かんない」
「変な感じしそう」
「うん」
芽瑠萌はしばらく黙った。
「……もし東京に行ったら、冬真くん、樺太に帰ってくる?」
冬真は少し考えた。
「分かんない。大学に行くかどうかも、まだ決めてないし」
「うん」
「でも、帰ってこないって決めてるわけでもない」
芽瑠萌は頷いた。
「うん」
二人はまた、しばらく黙って湖を見た。
風が出てきた。
芽瑠萌が小さく肩をすくめる。冬真はその後ろに立ち、そっと腕を回した。
「……暖かい」
「うん」
芽瑠萌は冬真の腕に手を重ねた
「──この前、真岡に行った時」
「うん」
「ロシアに来たみたいだと思った」
「そうだね」
「それで、ちょっと思った。もし樺太がロシアだったら、どんな感じになるんだろうな、って」
冬真は少し考えた。
「もしあのとき、もっと負けていたら?」
「とか。もっと前からロシアの土地だったらとか」
冬真は遠くの湖岸を見た。
「じゃあ、ここもロシア」
「うん」
「さっきの案内板はロシア語で書いてある」
芽瑠萌が笑った。
「まずそこから?」
「豊原も、豊原って名前じゃなさそう」
芽瑠萌が少し考える。
「たとえば、ユジノサハリンスクとか?」
「ああ」
六月に案内所の仕事で芽瑠萌と初めて街を歩いた日に、そんな名前のロシア料理の店に入ったことを思い出した。
「懐かしいな」
「南樺太市なんて名前は安直?」
「さあ」
「でも」
芽瑠萌が冬真の腕の中で、少し首を傾げた。黒に近い茶色の髪から、昨日の夜のシャンプーの香りが少しした。
「もし樺太がロシアだったら、私たち、きっとここにいなかったね」
「生まれてなかったかも」
「じゃあ、日本でよかった」
「そうだな」
そのまま、二人はしばらく黙った。
そのあと二人は展望台を離れ、木道をもう少し先まで歩いた。
風が強くなっていた。湖面に細かな波が立ち、葦の穂が一斉に揺れている。
遠くにまた白鳥の群れが見えた。その向こうには、黒っぽい水鳥が何羽も浮かんでいる。
「そろそろ戻ろうか」
冬真が言った。
「うん」
芽瑠萌はもう一度、湖を見渡した。
「来てよかったね」
「うん」
そのとき水の方から、低い、少し変わった声が聞こえた。
二人は足を止めた。
「何の鳥かな?」
芽瑠萌が言った。
「変な声」
「うん」
もう一度、声がした。
白鳥の声とは違う。芽瑠萌は水面を見た。
「どこだろう」
冬真も目を凝らす。
すると、少し離れたところに、黒っぽい鳥が一羽浮かんでいるのに気づいた。
ほかの鳥より小さく、頭が大きく見える。
「あれ?」
芽瑠萌が指した。
冬真も見た。
「どれ?」
「ほら、あそこ。葦の向こう」
「ああ」
鳥が横を向いた。
大きな橙色の嘴が見えた。
目の後ろから、淡い黄色の羽が細く伸びている。
芽瑠萌が小さく息を吸った。
「……あれ、もしかしてエトピリカ?」
冬真はもう一度見た。
「え?」
「エトピリカじゃない?」
「ほんとに?」
「ほら、あのぬいぐるみに似てる」
「六千六百円の」
芽瑠萌は鞄からスマートフォンを取り出し、カメラを向けて拡大した。
画面の中で、鳥がゆっくり首を動かした。
橙色の嘴と、黄色い飾り羽。
「……やっぱり」
芽瑠萌が言った。
「エトピリカだ」
冬真も画面を覗いた。
「ほんとだ」
鳥は水面に浮かんだまま、少し首を上げた。
また、低い声が聞こえた。
二人は顔を上げた。
鳥は一度、水面に嘴をつけた。
それから羽を広げ、短く羽ばたいた。
「こんなところにいるんだ」
冬真が言った。
「珍しいと思う」
「もう十月だもんな」
「仲間からはぐれたのかな」
鳥はしばらく水面を漂っていた。
やがて少し離れたところへ泳いでいき、葦の陰に入った。
二人はそのあたりを見ていたが、もう姿は現れなかった。
*
駐車場へ戻る道を、二人は並んで歩いた。
芽瑠萌が手を伸ばしてきた。
冬真はその手を握った。
冷たい風が草地を吹き抜けていく。
「手、冷たいね」
芽瑠萌が言った。
「芽瑠萌も」
「うん」
木道の終わりが見えてきたころ、冬真の目の前を白いものが横切った。
最初は鳥の羽かと思った。
もう一つ、白いものが落ちてきた。
芽瑠萌が空を見上げた。
「あ」
冬真も見上げた。
灰色の空から、小さな雪がちらちらと舞っていた。
「雪だ」
芽瑠萌が言った。
冬真は手のひらを上に向けた。
小さな雪片が一つ落ち、すぐに溶けた。
「初雪かな」
「たぶん」
芽瑠萌は空を見上げたまま笑った。
「もうすぐ冬だね」
「うん」
二人はそのまま手をつないで、車の方へ歩いていった。
遠くで季節外れのエトピリカが鳴く声が、もう一度聞こえた。




