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エトピリカの鳴くところ ──樺太・豊原駅前観光案内所──  作者: 灰神楽ねこ


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25/28

霧の北側

豊原駅前のナナカマドが、赤い実をつけていた。

もう十月だった。その最初の土曜日、冬真《ふゆま》は駅の近くで芽瑠萌《めるも》を乗せた。


「おはよう」

「おはよう。寒いね」

芽瑠萌は紺色の上着を着て、首に薄いマフラーを巻いていた。

「敷香《しすか》、もっと寒いかな」

「たぶん。朝は霜が降りてるかも」

「もう?」

「十月だもん」

冬真は車を発進させた。


「そういえば、お父さんに敷香行くって言ったら、懐かしがってた」

「へえ」

「高速で行くんでしょって聞かれて、そうだよって言ったら、今なら日帰りでも余裕だって」

「昔はそんなにかかったの?」

「うん。仕事でよく走ってたけど、今とは全然違ったって」

「そっか」

「あと、霧には気をつけろって」

「霧?」

「うん。あっちの方、よく出るから」


豊原北ICから樺太縦貫道に入った。

しばらくは見慣れた郊外の景色だった。住宅地が途切れ、畑と物流倉庫が増える。山の斜面には黄色くなった木々が混じり、道路の脇を長い貨物列車が走っている。


休日の朝で交通量は少なかった。

乗用車より大型トラックの方が目についた。

木材を積んだ車、コンテナを載せた車、石油会社の名前が入ったタンクローリー。北へ向かう車も、南へ向かう車もある。


「こういうトラック、多いね」

芽瑠萌が言った。

「敷香までずっとこんな感じなのかな」

「途中から少なくなると思う」

「覚えてる?」

「ちょっとだけ」

芽瑠萌は窓の外を見た。

「昔、豊原に引っ越すとき、車で来たんだけど。長かったのは覚えてる」

「何時間くらい?」

「分かんない。途中で寝ちゃったし」

「そりゃ覚えてないな」

「うん」

冬真は笑った。


     *


一時間ほど走ると、道路の右側に海が見え始めた。

朝の光を受けて、海面が鈍い銀色に光っている。海岸沿いには低い草地が続き、その向こうに細い波が白く砕けていた。

道路と海の間を鉄道が走っている。小さな駅を通り過ぎると、線路はしばらく道路と並び、やがて林の向こうへ消えた。

左側には丘陵が迫っていた。斜面の落葉樹は黄色や赤茶色に変わり、ところどころに濃い緑色の針葉樹が残っている。


「紅葉、もう結構進んでるね」

「豊原より早いね」

「うん」


しばらくして、前方の空が白くなってきた。

最初は低い雲だと思った。

山の斜面に薄いものがかかっている。海の方も霞んでいた。遠くの水平線がぼやけ、空と海の境目が分からなくなっている。


「曇ってきた?」

冬真が言った。

芽瑠萌は前を見た。

「霧かも」

「これ?」

「うん。海から来てるんじゃないかな」


道路の先に、白い帯のようなものが横たわっていた。

近づくにつれて、それが道路の上にも広がっているのが分かった。


電光掲示板が現れた。

《この先濃霧 速度規制80km/h》


冬真はアクセルを緩めた。

道路の両側にあった景色が、少しずつ薄くなっていく。

まず、遠くの山が見えなくなった。

次に海が消えた。

すぐ脇を走っていた鉄道も、いつの間にか見えなくなっていた。

白いものがフロントガラスの向こうに広がり、道路標識が近づいてくるまで読めなくなった。


「すごいな」

冬真が言った。

「うん」

芽瑠萌は前を見ていた。

「昔もこんな霧あった?」

「うん。敷香の方でもよくあったよ」

「街の中も?」

「朝とか。学校行くとき、向こうの建物が見えないこともあった」

「へえ」

「でも、こんなに濃いのは久しぶり」


冬真はライトを確認した。

前を走っていたトラックの赤いテールランプが、白い霧の中に二つ浮かんでいる。

その赤い光を追っていると、トラックの輪郭が見え始めた。灰色のコンテナが現れ、後輪が見える。

少し距離が開くと、また輪郭が薄くなった。

道路の白線は見えていた。ガードレールも、近くのものなら分かる。

ただ、その先に何があるのかは見えなかった。


冬真はハンドルを握り直した。

「八十キロでも結構速く感じるな」

「無理しなくていいよ」

「うん」

速度を少し落とした。


ワイパーを動かすと、ガラスについた細かな水滴が横へ流れた。

対向車線を大型トラックが通り過ぎた。

最初にヘッドライトが見え、次に大きな車体が白い霧の中から現れた。低い走行音が近づき、中央分離帯の向こうを通り過ぎる。

数秒後には、もう何も見えなくなった。


「なんか、変な感じ」

芽瑠萌が言った。

「何が?」

「さっきまで海が見えてたのに」

「うん」

「今、どこ走ってるのか全然分かんない」

冬真はナビを見た。

青い線が北へ延びている。現在地の周囲には道路と鉄道と、いくつかの地名が表示されていた。

「地図だと海のすぐ横なんだけどな」

「そうなんだ」

「全然そんな感じしない」


しばらく会話が途切れた。

タイヤが舗装を踏む音と、エンジンの低い音が続いている。

前のトラックが緩いカーブを曲がり、赤いランプが右へ動いた。

冬真もカーブに入った。

霧の向こうから、緑の標識が現れた。

地名が読めるようになったころには、もうかなり近づいていた。

標識を通り過ぎると、また白い景色に戻った。


「この先、ずっとこんななのかな」

冬真が言った。

「分かんない。急に晴れることもあるよ」

「そうなの?」

「うん。霧があるところと、ないところが結構はっきりしてることもある」


その言葉どおりだった。

十分ほど走ったころ、前方が少し明るくなった。

白い霧の中に、薄い黄色の光が混じり始めた。

まず道路脇の木が見えた。

次に、左側の斜面が現れた。黄色くなった白樺が何本も立ち、その奥には濃い緑色の森が続いている。

右側の霧も薄くなり、低い草地が見えてきた。

その向こうに、水面があった。


「海だ」

冬真が言った。

芽瑠萌も窓の外を見た。

「ほんとだ」


海は灰色だった。

水平線はまだ見えなかったが、岸の近くの浅いところに波が立っているのが分かった。

海岸には流木が何本も横たわり、草地の向こうに小さな漁船が引き上げられていた。

やがて、道路の右側に広い湿地が現れた。

枯れ始めた草が一面に広がり、その間を細い水路が曲がりくねっている。

水たまりには空の白さが映り、遠くに鳥の群れが飛んでいた。


「なんか、北って感じするな」

冬真が言った。

「まだまだ北は長いよ」

芽瑠萌が笑った。

「分かってるけど」

「奥端《おは》なんて、ここからもっとずっと先だし」

「そうだな」


冬真は道路の先を見た。

左には森、右には湿地と海。道路はその間をまっすぐ北へ延びている。

後ろを振り返ると、さっきまで走っていた場所がまだ白い霧に覆われている。

その霧の中から、乗用車が一台、ライトをつけて出てきた。


「敷香まで、あとどれくらい?」

芽瑠萌が聞いた。

「一時間ちょっと」

「もうそんなところまで来たんだ」

「うん」

芽瑠萌は窓の外を見た。

「懐かしいな」

「この辺も覚えてる?」

「景色はね。どこがどこかは分かんないけど」

「そっか」

「でも、こういう平らなところとか、霧とか」

芽瑠萌は少し考えた。

「敷香に帰ってきた感じがする」


     *


敷香ICを降りたのは、午前十時半を少し回ったころだった。空は薄曇りだったが、霧はほとんど消えていた。


「着いた」

芽瑠萌が言った。

「おお、初敷香」

「うん」

芽瑠萌は前方の街並みを見た。

「ただいま、かな」

冬真は笑った。

「黒川はそうだな」


高速道路を降りると、片側二車線の広い道路が市街地へ続いていた。

道の両側には物流倉庫や整備工場、住宅団地が続く。街路樹は豊原より低く、建物の屋根は傾斜が急なものが多かった。

街の中心部に入ると、駅前に大きな商業ビルが並び、バスやタクシーが行き交っていた。

ロシア語の看板もあったが、真岡のように旅行鞄を引いた人々が目立つわけではない。

買い物袋を提げた家族連れや、自転車に乗った学生たちが歩道を通っている。


「ここ、昔よく来た」

芽瑠萌が駅前の建物を指した。

「この辺?」

「うん。お母さんと買い物に来たり」

「変わった?」

「結構変わってる。あのビル、なかったと思う」


駅前の駐車場に車を停め、二人は歩き始めた。

北樺太県庁の大きな建物を遠くから眺め、中心街の商店街を通った。

途中、芽瑠萌が一軒の本屋の前で立ち止まった。


「あ、ここ」

「知ってる店?」

「小学校のとき、よく来てた」

「何買ってたの?」

「漫画とか。あと、動物の図鑑」


昼食は駅から少し離れた食堂に入った。

冬真は豚肉の生姜焼き定食、芽瑠萌は北樺太風のペリメニを注文した。

「ここも昔来たことある?」

「ないよ」

「ないのか」

「全部知ってるわけじゃないもん」

「そりゃそうだ」

芽瑠萌はペリメニを一つすくって食べた。

「でも、なんか懐かしい」

「味?」

「うん。敷香にいたとき、こういうのよく食べてたから」


     *


午後は、芽瑠萌が昔暮らしていた住宅地へ向かった。

中心街から車で十五分ほど走ると、建物が低くなり、道路沿いに公園や学校が増えた。

「あ、ここ曲がって」

芽瑠萌が言った。

冬真はウインカーを出した。

「この先が小学校」

「どれ?」

「ほら、あの赤い屋根」

校舎は三階建てで、広い校庭の向こうに体育館が見えた。休日なので人影は少ない。

「ここに通ってたんだ」

「うん。四年生から」

「運動会の写真、ここ?」

「そうそう。あの校庭」

冬真は車をゆっくり走らせた。

「なんか変な感じだな」

「何が?」

「黒川がここに通ってたって」

「私だって小学生だったんだよ」

「知ってるけど」

「佐々木くんもでしょ」

「まあな」


少し先には、芽瑠萌が住んでいたマンションがあった。

外壁は塗り直されていたが、建物の形は昔のままだった。

「三階だった」

芽瑠萌が窓を指した。

「どの辺?」

「あそこ。角から二つ目」

「へえ」

「冬は窓が凍ることもあったよ」

「中側?」

「うん」

「すごいな」

芽瑠萌はしばらく建物を見ていた。


     *


住宅地を抜けると、道路は次第に細くなった。

両側に草地が広がり、遠くに送電鉄塔が見えた。

芽瑠萌はスマートフォンに保存した昔の写真を見ながら、窓の外を確かめている。

「あの鉄塔かな」

「お父さんが言ってたやつ?」

「たぶん」

舗装道路が終わる手前に、小さな空き地があった。

冬真はそこに車を停めた。

「ここから歩く?」

「うん。昔は自転車で来てたけど」


二人は草の生えた道を進んだ。

風が吹くたびに、背の高い草が揺れる。足元には湿った土があり、小さな水たまりもあった。


「こんなところ、一人で来てたの?」

「友達と来ることもあったよ」

「遠くない?」

「自転車ならそんなでもない」


少し歩くと視界が開け、広い草地の向こうに水が見えた。

水面は空の色を映して灰色がかり、その先には低い丘が続いている。遠くに一本、送電鉄塔が立っていた。

芽瑠萌が足を止めた。

「あった」

冬真も立ち止まった。

「ここ?」

「うん。たぶん、ここ」

芽瑠萌はスマートフォンの写真を開いた。

アルバムで見た景色だった。

草の高さも、水辺の形も少し違っている。それでも、遠くの丘と鉄塔の位置は同じだった。

「ほんとだ」

冬真が言った。

「写真と一緒だ」

「うん」


芽瑠萌は少し先まで歩いて、草の間に立った。

「この辺に自転車置いてた」

「ここまで乗ってきたの?」

「うん。もっと道があった気がするけど」

「草に埋まったのかな」

「そうかも」


二人は水辺の近くまで歩いた。

遠くで鳥が鳴いた。

芽瑠萌が顔を上げる。

「エトピリカ?」

冬真が聞いた。

「分かんない」

「見える?」

「ううん」

しばらく水面を見ていたが、鳥の姿は見つからなかった。

「やっぱりいないね」

芽瑠萌が言った。

「まあ、そうだろ」

「残念?」

「別に」

冬真は周囲を見回した。

「来られてよかったよ」

「何もないでしょ」

「うん」

「ほんとに何もない」

「でも、黒川がここに来てたんだなって思うと、面白い」

芽瑠萌は冬真を見て、それから笑った。

「変なの」

「そう?」

「うん」


二人は写真を何枚か撮った。

芽瑠萌が昔の写真と同じ位置に立ち、冬真がスマートフォンを構えた。

「もうちょっと右」

「こう?」

「うん。そこ」

シャッターを押した。

帰り道、芽瑠萌は何度か振り返った。


     *


車へ戻ったときには、時刻は午後四時を少し過ぎていた。

「そろそろ帰ろうか」

冬真が言った。

「うん。ちょうどいい時間だね」

エンジンをかけ、ナビに豊原の自宅を設定した。すると、画面に赤い線が表示された。


《樺太縦貫道 事故通行止め》


「え?」

冬真は画面を拡大した。

敷香から南へ向かう高速道路の一部が、赤く表示されている。

「事故?」

芽瑠萌が覗き込んだ。

「そうみたい。濃霧で多重事故だって」

「朝、霧すごかったところ?」

「たぶん」

交通情報には、解除見込みが午後六時と表示されていた。

「二時間待ちか」

冬真は時計を見た。

「六時に出られれば、九時前には着くかな」

「速度規制は?」

「それ次第だな」

二人は中心街へ戻り、喫茶店で時間をつぶすことにした。



五時半になっても通行止めは解除されなかった。

《解除見込み未定》

「未定になった」

冬真が言った。

芽瑠萌もスマートフォンを見た。

「一般道は?」

「混んでる。ナビだと五時間以上」

「それじゃ、九時過ぎちゃうね」

「うん」

冬真は画面を閉じた。

樺太特例の免許では、十八歳未満は午後九時から翌朝まで運転できない。

二人とも十七歳だった。

「……今日は帰れないかも」

冬真が言った。

「……そうだね」


しばらく沈黙が落ちた。

芽瑠萌が視線を逸らす。


少ししてから、スマートフォンを取り出した。

「……お母さんに電話する」

電話は繋がらなかった。

「お母さん、たぶんまだ仕事中だ。お父さんに掛けてみる」

繋がった。

電話の向こうで何か聞かれ、何度か「うん」と答える。

「……大丈夫」

「……うん、わかった」

「……え?」

少し芽瑠萌が黙る。電話の向こうも静かになった。

「分かった。決まったら連絡する」

最後にひと言だけ言って、伏せる。


「どうだった?」

「北樺太では絶対無理するな。泊まれるところを早めに探せって」

「うん」

「お母さんには伝えておくって」

「うん」

「あと、佐々木くんなら安心だって」

「え?」

芽瑠萌は小さく首を傾げた。


冬真も父親に電話した。

高速道路の通行止めと免許の時間制限を説明すると、父親は無理に帰ろうとしなくていいと言った。

電話を切り、二人は顔を見合わせた。

「じゃあ、ホテル探そうか」

「うん」


最初に調べた駅前のビジネスホテルは満室だった。

次のホテルも満室。

少し離れたシティホテルにも電話したが、空きはなかった。

「今日、何かあるのかな」

芽瑠萌が言った。

「分かんない」

検索してみると、北樺太のエネルギー関連企業が集まる展示会が開催されていた。

市内のホテルは関係者の宿泊で混み合っているらしい。

「よりによって今日か」

冬真が言った。

「どうしよう」

「もうちょっと探してみよう」


郊外のホテルも調べた。

空室なし。

電話をかけても、当日の宿泊は受け付けていないと言われた。

時刻は七時を回った。


「……一軒だけ、空いてるとこ出てきた」

芽瑠萌がスマートフォンを見た。

「ほんと?」

「うん。すぐ近く」

冬真が隣から画面を覗き込んだ。


ホテルの名前の下に、赤いハートのマークがあった。「カップル様ご休憩歓迎」ともある。

写真には、大きなお風呂と綺麗な洗面台、天蓋付きの白いダブルベッドが一つだけある部屋が写っていた。


冬真は画面を見たまま黙った。

芽瑠萌も黙った。


「……ここは、やめようか」

冬真が言うと、芽瑠萌がいったん窓の外に視線を向けた。

外はもうすっかり暗い。

「でも、他にないよ」

「そうだけど」

「いいじゃん」

「でも」

芽瑠萌が冬真にまっすぐ視線を向けた。頬が少し赤い。

「私、佐々木くんとなら、ここでいいから」

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