海の向こう
汽笛の音がもう一度聞こえた。
「そろそろお昼だね」
芽瑠萌がスマホの時計を見る。冬真も頷いた。
「港に戻って、何か食べよう」
戦争記念館から、さっきとは別の道を通って港の方へ歩いていくと、白い壁と切妻屋根の大きな建物が見えてきた。
広い駐車場に何台もの観光バスが停まり、入口からは人が絶えず出入りしている。
ロシア人らしい団体客がガイドの旗について入っていき、その横から紙袋をいくつも提げた家族連れが出てくる。
駐車場の入口の所には『真岡国際観光センター プリモーリエ』という大きな看板があった。
「ここ、気になる」
芽瑠萌が言った。
冬真もガイドブックで見た覚えがあった。
中に入ると、一階には真岡や西海岸各地の海産物、菓子、乳製品、酒、加工品が並び、その向こうにロシアから輸入されたチョコレート、紅茶、蜂蜜、ジャム、缶詰、雑貨の売場が続いていた。
樺太最大といわれるミルカラ豊原の土産物屋に近いくらいの広さがある。
買い物籠を持った観光客の間を、キャリーケースを引いたロシア人が通り、ときどき英語や中国語、韓国語らしい言葉も聞こえる。
エスカレーターの脇には、ウラジオストク、ハバロフスク、沿海地方の観光ポスターが並び、フェリーの乗船案内やロシア旅行の相談カウンター、両替所もある。
二階に上がると航路や港の歴史を紹介する展示と、いろいろな体験コーナーがあった。
「これ、やってみない?」
芽瑠萌が指したのは、ウラジオストク行きフェリーの模擬乗船券を作る機械だった。
「名前を入れるんだ」
「行き先も選べるみたい」
画面を操作すると、二人の名前がロシア文字で印刷されたカードが出てきた。
行き先はウラジオストク、出発地は真岡。裏面にはロシア語の案内が並んでいる。
「本物だったら、このまま乗れるのにね」
「パスポートはいるでしょ」
「それはそうだけど」
芽瑠萌はカードを二枚並べて写真を撮った。
別のコーナーには、ロシアのお菓子を量り売りする店があった。色とりどりの包み紙が大きな容器に積まれ、熊やリスの絵が描かれている。
「これ、敷香でも見たことある」
「ロシアのお菓子?」
「うん。小さい頃、たまに買ってもらった」
芽瑠萌は熊の絵がついたチョコレートを一つ手に取った。
「これだったかな。もうちょっと青かった気もする」
「買ってみれば?」
「そうしようかな」
二人で何種類か選び、紙袋に入れてもらった。
プリモーリエの建物を出てしばらく行くと、港の入口のところで黄色と黒の看板が見えた。
『ラーメン二郎真岡店』
冬真はそれを見て、足を止めた。
「あれか」
独特の匂いが道に漂い、店の前には長い列ができている。入口脇にはラムと行者ニンニクの文字もある。
「江口の言ってたやつ」
芽瑠萌も見た。
「ラムもあるんだね」
冬真はスマートフォンを出した。
「写真撮って送るか」
「食べてく?」
「こんなとこまで来て二郎はないだろ」
二人はその先の市場食堂へ入った。
冬真は焼き魚の定食、芽瑠萌は海鮮丼を注文し、タラとじゃがいもの三平汁も頼んだ。
店内には日本語とロシア語のメニューがあり、隣の席ではロシア人らしい家族が食事をしていた。
「真岡って、ほんとにロシアの人多いね」
「豊原にもいるけど、ここは港があるからかな」
「敷香とも違う感じ」
「そうなの?」
「敷香は、ロシア語の看板はあるけど、こんなに船で来た人が歩いてる感じじゃないから」
冬真は窓の外を見た。市場の前を、旅行鞄を引いた男女が通り過ぎていった。
食事のあと、港の近くの石段を上って大きな神社に出た。参道の脇にある案内板には、樺太最古の神社と書いてある。
石段の上からは真岡港がよく見えた。倉庫の屋根が連なり、その向こうにはフェリーターミナルと岸壁のクレーンが並んでいる。
「ここ、いいね」
芽瑠萌が言った。
境内には港で働く人が奉納した船の模型があり、ロシア語の絵馬も混じっていた。
参拝を済ませ、二人は住宅地の方へ下りる坂道を選んだ。
古い木造家屋の間に新しいマンションが建ち、道の先には海が見え隠れしていた。途中の倉庫を改装した店では、ロシア製の缶詰やチョコレートが売られていた。
「また熊がいる」
芽瑠萌が店先を見て笑った。
「さっき買ったでしょ」
「今度は見るだけ」
*
坂を下りながら、冬真は何気なく前方の歩道橋を見上げた。
足が止まった。
「……え?」
芽瑠萌も二歩先で止まった。
「どうしたの?」
冬真は答えず、歩道橋の上を指した。
芽瑠萌がそちらを見た。
「……なんでまた?」
歩道橋の上に、アレクセイ・ヴォローニンが立っていた。
ヴォローニンはこちらに背を向けて、カメラを持っていた。
最初は港の方へ向けていた。だが、角度がおかしい。ヴォローニンが撮ったのは港の景色でも、海でも船でもなかった。目の前の道路だった。
交差点。道路の横の貨物線。線路と道路が並ぶところ。
スマートフォンを取り出し、画面を確認して少し歩く。
歩道橋の端まで行って立ち止まる。
少し角度を変えて、山の方を向く。
首から下げたカメラを慎重そうに持ち上げる。
ヴォローニンが顔を向けている先には、青い標識に「宝台・熊笹峠」とあった。
冬真はさっきの記念館で見た展示を思い出した。
昭和二十年八月二十三日。
宝台。熊笹峠。
真岡反攻部隊。
峯木中将。山沢大佐。仲川少佐。
昭和の鵯越。高倉健の映画のポスター。
日本軍の進撃路。
芽瑠萌が冬真の袖を軽くつかんだ。
「あそこ」
冬真は芽瑠萌の視線を追う。
ヴォローニンがカメラを向けている先に、小さく緑の標識があるのに気付いた。
「陸上自衛隊真岡駐屯地 1.6キロ」
ヴォローニンはカメラを下げ、またメモ帳を取り出して手早く何かを書き留めた。
「何してるんだ、あの人」
芽瑠萌も見ている。
「……港を撮ってるだけじゃないよね」
「うん」
ヴォローニンが顔を上げた。
二人は反射的に視線を外した。
「見つかった?」
芽瑠萌が小声で言った。
「分かんない」
冬真は数秒待ってから、もう一度見た。
歩道橋の上に、ヴォローニンの姿はもうなかった。
「……やっぱり怪しくない?」
「うん」
芽瑠萌は小さな声で言った。
「ナタリヤ先生の知り合いなんだよね」
「そうなんだけど」
「天気の話する人なんだよね」
「そうなんだけどな」
観光バスが横を通り過ぎた。地元の住民らしい年配の男性が自転車を押しながら、二人の脇を通って行った。
「──次のバイトのとき、富樫さんに話してみない?」
芽瑠萌が言った。
「そうだね」
「前に会ったときのことも」
「うん。相談してみよう」
冬真は息を吐いた。
「……じゃあ、戻るか」
「うん」
*
駐車場へ戻ったときには、まだ日は少し高かった。
車に乗り、冬真がエンジンをかける。
「このまま帰る?」
芽瑠萌が聞いた。
冬真は少し考えた。
「せっかくだから二鷲崎、行ってみようか」
「二鷲崎?」
前に二人で見つけた展望台だった。
あのときは、小能登呂岬へ行けなかった。
帰りに寄った二鷲崎で、芽瑠萌が言った。
ここでも、夕日見てみたい。
冬真は、また来ればいいじゃん、と答えた。
「行きたい」
芽瑠萌が言った。
冬真は車を出し、真岡の市街地を北へ抜けた。製紙工場の煙突が後ろへ遠ざかり、建物が少なくなっていった。
右には山、左に日本海が続く。
太陽が少しずつ海へ近づく。窓から入る西日に芽瑠萌が目を細めた。
「そういえば、大学のことなんだけど」
しばらく走ったところで、冬真は口を開いた。
「うん?」
「この前、父さんに言われた。豊原の大学だけじゃなくて、ほかも調べてみろって」
「ほかって?」
「札幌とか、東京とか」
芽瑠萌が冬真を見た。
「東京?」
「うん。父さん、東京の大学出てるから」
「そうなんだ」
「関東の出身で、若い頃は東京の本社にいたんだ。だから、東京には樺太よりもっといろんな大学があるって。その気があるなら学費と生活費は出すから、外を見てこいって」
冬真は前方に目を向けたまま続けた。
「最初は豊原の大学でいいかなって思ってたんだけど。調べてみたら、札幌とか東京にも面白そうなところがあって」
「そっか」
芽瑠萌は少し黙った。
「佐々木くんは、島の外に行きたいの?」
「まだ分かんない。大学も決めてないし」
「うん」
「でも、考えてみてもいいかなって思ってる」
車は海沿いの緩いカーブに入った。
「黒川は、豊原の大学だよね」
「うん。今のところは」
「札幌とかは考えてない?」
「考えたことはあるけど……」
芽瑠萌は膝の上の鞄を少し動かした。
「お父さんもお母さんも、できれば島内の大学がいいって言ってるし。私も、豊原でいいかなって」
「そっか」
冬真は頷いた。
「でも、佐々木くんのお父さんは東京の大学なんだね」
「うん」
「うちとは違うね」
「そうかも」
少し間が空いた。
「東京に行ったら、遠いね」
芽瑠萌が言った。
「……うん」
「札幌でも、今みたいには会えないし」
「そうだね」
冬真はハンドルを握り直した。
父親に大学の話をされたとき、最初に考えたのは学部や入試のことだった。豊原以外にも選択肢があると言われ、少し興味を持った。
芽瑠萌と離れることは、考えていなかったわけではない。
けれど、こうして二人で話してみると、思っていたよりもずっと具体的だった。
「佐々木くんは、佐々木くんが行きたいところに行った方がいいと思う」
芽瑠萌が言った。
「うん」
「私が豊原にいるからって、樺太に残るって決めなくていいよ」
冬真はすぐには答えなかった。
「でも、黒川のことも考えるよ」
「……うん」
芽瑠萌は窓の外を見た。
「私、豊原に引っ越してきたときも、けっこう大変だったから」
「うん」
「敷香からだから、そんなに遠くないんだけどね。学校も変わったし、知ってる人もいなかったし」
「うん」
「だから、大学はあんまり遠くに行かなくてもいいかなって」
冬真は頷いた。
「東京とか、どんな感じなんだろうね」
「俺もよく知らない」
「行ったことないんだよね」
「ない。父さんの話だけ。お祖父さんもお祖母さんも俺が生まれる前に亡くなってるから、埼玉も行ったことない」
芽瑠萌が少し笑った。
「二人とも知らないんだね」
「そうだね」
それから、また静かになった。
ラジオはつけていなかった。
道路の左側では、波が低い岩場に打ち寄せていた。海沿いの集落を抜けると家並みが途切れ、山の斜面が道路の近くまで迫ってきた。
「……ごめん」
冬真が言った。
「何が?」
「急に大学の話して」
「別に謝らなくていいよ」
芽瑠萌は少し考えてから続けた。
「私も、ちゃんと考えなきゃね」
「うん」
「まだ二年生だし」
「そうだね」
二人はしばらく黙っていた。
やがて、二鷲崎展望台の案内標識が現れた。
「あ、もうすぐだ」
冬真が言った。
「ほんとだ。間に合うかな」
「たぶん」
坂の上の小さな駐車場には、車が数台停まっていた。前に来たときより少し多い。
二人が車を降りると、海から冷たい風が吹いてきた。
「寒っ」
芽瑠萌が肩をすくめて、薄いマフラーを首に巻いた。冬真もジャンパーを羽織った。
「もう、すっかり秋だね」
「うん。でも、晴れててよかった」
展望台へ続く道を歩く。
前に来たときと同じ手すり、同じ案内板があった。
けれど、海の色はまるで違っていた。
西の空は橙色に染まり、水平線の少し上に太陽が浮かんでいた。海面には光の道が長く伸びている。
「わあ……」
芽瑠萌が足を速めた。
冬真もその後を追った。
「すごいね」
「うん」
二人は手すりの前に並んだ。
沖には小さな船が見えた。太陽の光を横切るように、ゆっくり南へ進んでいる。
「前に来たとき、ここで夕日見たいって言ったの、覚えてくれてたんだね」
芽瑠萌が言った。
「うん」
「ありがとう」
「今日はちょうどよかったから」
「それでも」
芽瑠萌は冬真の方を見て、笑った。
「嬉しい」
冬真も笑った。
少しして、芽瑠萌が手を伸ばしてきた。
冬真はその手を握った。
「真岡、面白かったね」
芽瑠萌が言った。
「うん。思ってたより見るところ多かった」
「プリモーリエも楽しかった」
「乗船券、ちゃんと持ってる?」
「持ってるよ。佐々木くんは?」
「鞄に入れた」
「なくさないでね」
「なくさないよ」
芽瑠萌は笑った。
太陽の下端が水平線に触れた。
二人は並んだまま、その光を見つめた。
太陽が海へ沈み、空の橙色が少しずつ薄くなっていく。
「そろそろ戻ろうか」
冬真が言った。
「うん。暗くなる前に」
二人は手をつないだまま、駐車場へ向かって歩き始めた。




