ローサの胸に灯ったもの
広場の空気が少しずつ変わっていくのを、ローサは息をひそめるように感じていた。
祭りで使ういつもの広場が、今夜はまるで別の場所に見える。
焚き火から火の粉が舞い、煙の匂いが服に染みつく。周囲の森は真っ暗で、そこだけが島から切り取られたように明るかった。
――自警団。
その言葉が、ローサの頭の中で何度も繰り返されていた。
いったい、どのくらいの人が残るのだろう。
周囲の大人たちは顔を見合わせ、何かを決めかねているようだった。
なのにローサの胸は、妙に高鳴っていた。
怖くないわけではない。
ゲリラが本当に来れば、大変なことになる。それくらいは分かっている。
それでも、胸の奥のどこかがわくわくしていた。
――こんなことを思ったら、いけないんだろうけど。
毎朝、川から水を運ぶ。
母の手伝いをする。
畑へ行けば泥だらけになり、夕方になればまた家へ戻る。
そんな変わり映えのしない毎日の向こうで、突然、何かが動き始めたような気がした。
知らない世界への扉が、ほんの少し開いた。
ローサは昔から、男の子たちと遊ぶことのほうが多かった。
石投げでも、追いかけっこでも、負けるのが嫌だった。
だが、大きくなるにつれて言われるようになった。
「女の子なんだから」
母を手伝って、炊事や洗濯をする。
やがて嫁いで、家を守る。
それが当然のように語られた。
――そんなの、つまらない。
口には出さなかったが、ずっとそう思っていた。
母の仕事より、父の畑仕事を手伝うほうが好きだった。
本当は、海にも出てみたかった。
漁師になりたいと言ったこともある。
そのたびに笑われた。
「女には無理だ」
そう言われると、余計にやりたくなった。
だから、自警団という言葉に心が引っかかったのかもしれない。
戦えなくてもいい。
自分にも、何かできるかもしれない。
小さな希望が、胸の奥で光っていた。
――私でも、役に立てるかな。
年齢も性別も問われてはいなかった。
腕力には自信がない。
でも、足なら速い。
森の抜け道も、畑の近道もよく知っている。
連絡役ならできるかもしれない。
演台では、ファジャルとグリフが話をしていた。
ファジャルは島の人気者だった。
祭りの進行役も、若者をまとめるのも、いつも彼だ。
一方のグリフは、村長ディオの息子。
日本人の血が入っている。
日本で暮らしていた。
喧嘩が強いらしい。
そんな噂ばかりが先に広まっていて、ローサはまともに話を聞いたことがなかった。
*
「よし、じゃあ、今から自警団の説明をはじめる」
ファジャルが宣言した。
「じゃあ、グリフから、ゲリラについて分かっていることを話してもらう」
グリフが、落ち着いた声で説明していた。
「俺が州都や日本の知り合いに頼んで調べた限りでは、ゲリラはいきなり武器を持って島へ押しかけてくるとは限らないそうです」
広場が静かになる。
「まず、島の中に協力してくれる人間を探す。最初は自分たちがゲリラだとは言わない」
グリフは一度、人々を見回した。
「政府に強い不満を持っている人。ゲリラの考え方に同情している人。そういう人間に近づいて、少しずつ仲間にする」
後ろの方で、誰かが小さく舌打ちした。
「でも、それで協力者が見つからなかったら?」
ファジャルが横から尋ねる。
グリフの表情が少し険しくなった。
「その場合は、脅すこともあるそうです」
「脅す?」
「暴力を使ったり、家族を人質にしたりして、無理やり従わせる」
広場の空気が重くなった。
ローサはじっとグリフを見た。
――どうして、こんなことまで知ってるんだろう。
不思議だった。
だが、彼の言葉には妙な現実味があった。
大げさに怖がらせようとしているようには見えない。
だからこそ、余計に怖かった。
周囲の大人たちも小声で話し始めた。
「銃を持った相手だぞ」
「こっちは何で戦うんだ?」
「竹槍か?」
「勝てるわけないだろ」
そんな声が聞こえてくる。
ローサはだんだん苛立ってきた。
――気になるなら、本人に聞けばいいのに。
そう思った瞬間には、もう声が出ていた。
「あのっ!」
グリフが話を止めた。
広場が急に静かになる。
焚き火が、ぱちぱちと音を立てていた。
皆の視線が、一斉にローサへ向く。
胸がどきんと鳴った。
――しまった。
だが、もう遅い。
ファジャルが嬉しそうに笑った。
「お、質問か!」
ローサを見て、少し考える。
「チャンドラさんの娘だな?」
「はい。ローサです」
「いいぞ。何でも聞け」
ローサは一度唾を飲み込んだ。
「この島が……ゲリラと戦って、本当に大丈夫なんですか?」
広場が再び静かになる。
「相手は銃を持ってるんですよね。こっちはそんなもの、ほとんどないし……」
ファジャルはすぐには笑わなかった。
少し考え、それから穏やかに答えた。
「その心配は当然だ」
ローサを見る。
「俺だって怖いよ」
「ファジャルさんでも?」
「当たり前だ」
広場のあちこちから小さな笑いが漏れた。
「でもな、俺たちはゲリラを全部倒す必要はない」
ローサが首を傾げる。
「勝たなくていいんですか?」
「勝ち方はいろいろある」
ファジャルはそう言って、周囲を見回した。
「こっちの目的は、政府や警察が来るまで島を持たせることだ」
海の方角を指す。
「まず、この島を知ってるのは俺たちだ」
「島を?」
「ああ。岩礁がどこにあるか。潮がいつ速くなるか。森のどこを通れば近い。どの道が雨でぬかるむ」
ファジャルは笑った。
「外から来た奴より、俺たちの方がずっとよく知ってる」
何人かの漁師がうなずいた。
「それに、ここは島だ」
今度は海を見た。
「ゲリラは町や山の中で訓練してるらしい。だが、海の上じゃ俺たちの方が慣れてる」
「船なら負けねえぞ」
漁師の1人が声を上げた。
「そういうことだ」
ファジャルが笑う。
「それから――」
今度は、広場いっぱいに集まった人々を見回した。
「向こうは、いきなり何百人も連れて来られるわけじゃない」
ざわめきが小さくなる。
「俺たちの予想じゃ、多くても50人くらいだ」
「五十……」
ローサが呟く。
「今、この広場には何人いる?」
ファジャルの問いに、誰かが答えた。
「三百くらいじゃないか?」
「そうだ」
ファジャルがうなずく。
「もちろん、人数が多ければ勝てるって単純な話じゃない。相手には銃がある」
少し声を落とす。
「でも、俺たちにも何もないわけじゃない。場所を知ってる。船を動かせる。数もいる」
ローサは少し考えた。
そして、また手を上げた。
「じゃあ……地の利を使うって、落とし穴を掘ったりするんですか?」
「落とし穴?」
「ゲリラがそこに落ちたら、みんなで囲むとか」
一瞬、沈黙した。
ファジャルが破顔した。
「そう!」
広場に笑いが起きる。
「例えば、そういうことだ!」
「本当に?」
「いや、実際にどこに掘るかはこれから考える!」
さらに笑いが広がった。
グリフが横から小声で言う。
「道に落とし穴は、味方も落ちるんじゃないですか」
「だから考えるんだよ」
「先にそこ考えた方が……」
「細かいな、お前は」
笑い声がまた起こる。
ファジャルはそのまま、広場の人々へ向き直った。
「俺もグリフも、この島の全部を知ってるわけじゃない」
農民たちを見る。
「畑の道なら、農家の方が詳しい」
漁師へ目を向ける。
「岩礁や潮なら、漁師の方が詳しい」
今度は子どもたちを見る。
「森の抜け道なら……案外、子どもの方が知ってるかもしれない」
子どもたちから笑い声が上がった。
「だから、何でもいい。アイデアを出してくれ」
ファジャルは手を広げた。
「馬鹿みたいな案でもいいぞ」
「お前が言うと説得力あるな!」
「誰だ、今言ったの!」
広場が笑いに包まれる。
ファジャルは笑いながらグリフを見る。
「グリフ、ゲリラがどう動くか、その辺も説明してくれ」
急に振られ、グリフが少し姿勢を正した。
「えっと……まず調査に来る人間への対応として、いくつか考えていることがあって――」
「いや、それは後!」
ファジャルが笑って遮った。
「今は罠の話の方がみんな食いついてる」
グリフが呆れた顔をする。
「会議ですよね、これ」
「会議だよ」
「本当に?」
「楽しい方が意見は出る」
ファジャルが肩をすくめる。
グリフはまだ何か言いたそうだったが、諦めたように口を閉じた。
ローサは、そのやり取りを見ながら少し笑った。
そして、思い切ってもう一度声を上げる。
「あの!」
「お、ローサ。今度は何だ?」
「連絡する人が必要なんですよね?」
ファジャルの顔が真面目になる。
「ああ」
「だったら、足の速い子どもを集めて、連絡隊を作ったらどうですか?」
周囲の子どもたちがざわついた。
「森の近道も知ってるし、誰が足が速いかも分かります」
ファジャルが目を丸くした。
「それだ」
「いいんですか?」
「むしろ、それがほしかった」
ファジャルは思わず手を叩いた。
「俺は戦うことばっかり考えてた」
グリフもローサを見た。
「確かに、合図を出したあとに各場所へ知らせる人が必要だ」
「子どもに危険なことをさせるのか?」
母親の1人が心配そうに声を上げた。
グリフがすぐに首を振る。
「危険な場所へ行かせる必要はありません」
ローサを見る。
「例えば、見張り台から村へ伝えるとか、広場から家々へ知らせるとか。安全な範囲でも十分役に立つと思います」
「じゃあ、私やります」
ローサは即答した。
「早いな」
ファジャルが笑う。
「まだ作るって決めただけだぞ」
「でも、私、足は速いです」
「それは頼もしい」
ファジャルは広場を見回した。
「ほら、こういうのだ。みんなも何か思いついたら言ってくれ!」
それをきっかけに、広場の空気が一気に動き始めた。
「崖の上から石を落とせるんじゃないか?」
「漁網を道に張ったらどうだ?」
「それ、俺たちも引っかかるだろ」
「じゃあ目印つけとけ!」
「目印があったらゲリラにも分かるだろ!」
あちこちで笑いが起きる。
農民は農民で集まり、森の道について話し始めた。
漁師たちは海岸の上陸地点を挙げている。
子どもたちの間では、すでに誰が一番足が速いかで言い争いが始まっていた。
会議というより、いつもの村の寄り合いに近くなっていた。
グリフは、その様子を少し困った顔で見ていた。
「これでいいんですか?」
小声でファジャルに尋ねる。
「何が?」
「まとまってない」
「今はそれでいい」
ファジャルは即答した。
「まず、自分たちで考え始めることが大事だ」
グリフは広場を見る。
確かに、さっきまで黙って聞いているだけだった人たちが、今は自分から話している。
「……なるほど」
「お前は全部、最初からきれいに決めたがるんだな」
「悪いですか?」
「悪くはない」
ファジャルは笑った。
「でも人間は、計画表どおりには動かん」
グリフは何も返さなかった。
少し考えるように、広場を見つめた。
その頃、ローサの隣では友人の少女が袖を引いていた。
「ねえ。連絡隊、本当に作るの?」
「作るよ」
「私も入れて」
「走るの遅いじゃない」
「ひどい!」
ローサが笑った。
つられて、友人も笑う。
その瞬間、ふと不安がよぎった。
――こんなに笑ってて、本当に大丈夫なのかな。
相手はゲリラだ。
銃を持っている。
もし本当に来たら、今みたいに笑ってはいられない。
けれど。
目の前では、大人も子どもも同じ場所に集まり、自分たちに何ができるかを話していた。
ローサは、その光景を見つめた。
火の粉が舞い、夜空へ小さく弾けて消えていく。
いつもの広場。
いつもの人たち。
なのに、何かが少しだけ違って見えた。
――私にも、できることがある。
その気持ちだけは、さっきよりずっと確かなものになっていた。
ローサは友人の手を取った。
「じゃあ、一緒にやろう」
「うん」
2人は笑った。
その夜、ローサの中で何かが確かに動き始めていた。




