月夜の策
会議が終わるころには、すでに夜も更けていた。
集会所を出ると、月が港の上にぼんやりと浮かんでいた。波頭が白く光り、涼しい潮風が会議の熱気を少しずつ冷ましていく。
「トニーさん、家まで送ります」
グリフが声をかけると、トニーは眼鏡の奥で微笑んだ。
「悪いね。夜道は昔より苦手になった。歳を取ると、暗い道と小さい字には勝てなくなる」
2人は並んで歩き始めた。
トニーの家までは、港を抜け、緩い坂を上った先にある。夜のルンザットに人影はなく、潮騒と草むらの虫の声だけがついてきた。
しばらく歩いたところで、グリフが口を開いた。
「トニーさんは、昔は政府でけっこう偉い人だったって、父から聞きました」
トニーが苦笑する。
「ディオは話を大きくするからね。『偉い人』なんてものじゃない。中堅の官僚だよ」
「でも、首都に知り合いはいるんですよね?」
「昔の同僚の何人かは、それなりの地位まで上がった。私だけ島の校長になってしまったが」
自嘲するような言い方だったが、その表情は穏やかだった。
「今回も、その人脈を使うんですか?」
「使えるものは使うさ」
トニーは前を向いたまま答えた。
「大きな支援じゃなくていい。誰かに会って、『ルンザットへの支援を検討してくれ』と頼む。そして向こうから『検討する』という言葉を引き出す」
「それだけで?」
「それだけでいいんだよ」
トニーは笑った。
「島に戻って、『政府が支援を検討してくれている』と報告できる。それだけでも、しばらくは島民の政府を見る目が変わる」
「なるほど……」
「政治っていうのはね、何かを実現することだけが仕事じゃない。実現しそうだと思わせることにも意味がある」
グリフは少し考えながらうなずいた。
「お金は必要ですか?」
「必要ならヘルマンが出すそうだ」
「やっぱり、そういうものなんですね」
「勘違いするなよ」
トニーが横目で見る。
「賄賂をばら撒くつもりはない。誰に会うか、どこへ行くか、それだけでも金はかかる」
「はい」
「もっとも、ヘルマンにも利益が出るようにはするつもりだ」
「利益?」
「持ちつ持たれつだよ。島のためだからといって、誰か1人だけが損をし続ける仕組みは長続きしない」
グリフは黙ってその言葉を聞いた。
「この島がゲリラの候補地になっていることも話すんですか?」
「必要ならね」
トニーの声が少し低くなった。
「アリは内密にしてほしいと言ったそうだが、こちらも命がかかっている。すべて言いなりにはなれない」
少し間を置く。
「それに、ホジャンにゲリラの施設があること自体は、政府上層もおそらく把握している。ルンザットが候補に挙がっているところまでは知らないだろうが」
グリフはしばらく黙っていた。
やがて、少し声を落とす。
「そのアリのことで……気になることがあります」
「何だい?」
「ホジャンで、彼の存在を確認できませんでした」
トニーが足を緩めた。
「どういう意味だ?」
「もちろん、大っぴらに探したわけじゃありません。アリが情報を漏らしたことを、ホジャンの人間に知られたくなかったので」
グリフは歩きながら話を続けた。
「ただ、ひとつ引っかかったことがあって」
「何だ?」
「腕の傷です」
トニーがグリフを見る。
「アリの?」
「はい。船で送り出すときに聞いたんです。シラットでついた傷かって」
「彼は何と?」
「師匠との稽古でできた傷だと言いました。かなり新しい傷でした」
グリフは一度言葉を切った。
「だから、ホジャンの道場で習っていたのかと思って調べた。でも……ホジャンには、シラットの道場がなかった」
「なるほど」
トニーの表情から笑みが消えた。
「もちろん、家族や知り合いから習っていた可能性はあります。この辺りでは道場じゃなく、個人的に教えることもありますから」
「そうだね」
「でも、アリはゲリラの訓練所にシラットの指導者がいるとも話していた」
グリフはトニーを見る。
「だから……アリ自身が、ゲリラの訓練所に関わっている可能性もあるんじゃないかと思っています」
トニーは少し考えた。
「ゲリラ側の人間が、何らかの意図でこちらへ来た、と?」
「はい」
「ずいぶん疑うね」
責める口調ではなかった。
グリフは苦笑した。
「自分でも考えすぎだと思います」
「その可能性はあるな」
トニーはあっさり言った。
「ホジャンは人の出入りも多い。身内に習ったのかもしれないし、別の島で習ったことだって考えられる」
「はい」
「ただ――」
トニーはグリフを見た。
「気になったこと自体は、覚えておいた方がいい」
グリフが少し意外そうな顔をした。
「否定しないんですか?」
「否定する材料もないからね」
トニーは再び歩き始めた。
「大事なのは、『怪しいから敵だ』と決めつけないことだ。それと同時に、『いい人そうだから大丈夫だ』とも思わないこと」
「……はい」
「で、どうして会議では言わなかった?」
グリフは少し言いよどんだ。
「皆さん、この島でずっと暮らしてきた人たちでしょう」
「うん」
「こういう疑いを出すと、それだけで議論が止まりそうな気がしたんです」
「アリを信用するか、信用しないか、という話になってしまう?」
「そうです」
グリフは小さくうなずいた。
「でも、トニーさんなら……ひとつの可能性として扱ってくれると思った」
トニーはしばらく黙った。
やがて、穏やかに笑う。
「それは、ずいぶん信用されたものだ」
「迷惑でしたか?」
「いや」
トニーは首を振った。
「嬉しいよ」
2人の足音が、木橋の上で乾いた音に変わった。
「私も政府筋から聞いた限りでは、アリの話の大筋は事実だと思っている」
「はい」
「ただ、もし彼が何か別の意図を持っているなら、それも頭の隅に置いておこう」
トニーはこめかみを指で軽く叩いた。
「ここだ。隅っこでいい」
「隅っこ?」
「真ん中に置くと、それしか見えなくなる」
グリフは少し笑った。
「覚えておきます」
川を越えると、遠くにトニーの家の灯りが見えてきた。
そこでグリフが、再び口を開いた。
「トニーさん」
「ん?」
「もう一つ、お願いがあります」
先ほどまでと声が違った。
トニーはそれに気づいたのか、歩みを緩めた。
「聞こう」
「政府の人を、1人紹介してもらえませんか」
「何のために?」
「頼みたいことがあります」
グリフは一度息を吸った。
「お金なら……日本円で50万円くらい貯金があります」
トニーが立ち止まった。
潮風が白髪を揺らす。
「50万?」
「はい」
「君の歳では、かなりの金だろう」
「ほとんど全部です」
トニーの目が鋭くなった。
「それを使って、何を頼むつもりだ?」
グリフは目を伏せた。
口にすること自体をためらっているようだった。
「……ルンザットが、ゲリラの候補地から外れるように皆で動いていますよね」
「ああ」
「だったら逆に――」
グリフは顔を上げた。
「他の島が候補に選ばれやすくなるよう、少し誘導できないかと思っています」
トニーの表情が止まった。
夜の虫の声だけが聞こえた。
「……もう一度言ってくれるか」
「別の島を、ゲリラにとって魅力的な候補に見せるんです」
トニーはしばらくグリフを見つめた。
「それはつまり」
声が低くなる。
「他の島へ危険を押しつけて、自分たちだけ助かろうということか?」
グリフは答えなかった。
「私は、その手伝いはできない」
「……はい」
「君もやめた方がいい」
トニーの声は静かだった。
「そんなことは、善人のすることじゃない」
グリフの顔がわずかに強張った。
「聞かなかったことにしておこう」
そのままトニーは歩き出した。
グリフも後を追った。
しかし、それからしばらく、2人の間に会話はなかった。
港の方角から、犬の遠吠えが一度だけ聞こえた。
***
坂を上るにつれて潮騒が遠ざかっていく。
トニーの家までは、もう数百メートルほどだった。
石畳の上を、2人の靴音だけが続いている。
やがてグリフが立ち止まった。
「トニーさん」
トニーも足を止める。
「……それでも、ゲリラが来たら、人が死にます」
先ほどまでの理屈を並べる声とは違っていた。
「島の人が死ぬ。父も、死ぬかもしれない」
トニーは黙って聞いている。
「ある意味、もう戦争なんだと思うんです」
グリフは月明かりの中で拳を握った。
「俺がアニメの主人公みたいに強かったら、自分でゲリラを全部倒します」
「グリフ君」
「でも、そんな力はない」
声に熱が混じる。
「政治力もない。軍も動かせない。もし俺に力があれば、ホジャンに大部隊を送り込んで、訓練所なんか一気に潰してやりたい」
一息に言ったあと、グリフは唇を噛んだ。
「でも現実は違う」
声が少し震えていた。
「軍が来ても、俺たちを守るためじゃない。政府にとっては、ホジャンのゲリラを潰せればそれでいい。ルンザットで何人死のうが、作戦全体から見れば小さな数字でしょう」
トニーの表情が変わった。
「俺たちは、自分で守るしかない」
グリフは続けた。
「だったら、できることは全部やりたい」
「全部、か」
「はい」
「他人の島を危険にさらしてでも?」
グリフは答えに詰まった。
それでも、やがて言った。
「……父が死ぬよりは」
短い言葉だった。
トニーは何も言わなかった。
グリフも視線を落とす。
「すみません」
「謝る必要はない」
トニーの声は、先ほどよりずっと柔らかかった。
「いや……あります」
グリフは首を振った。
「今のは、たぶん正しいことじゃない」
「そうだね」
トニーは否定しなかった。
そして、少し間を置いた。
「でも、それでようやく君が何を怖がっているのか分かった」
グリフが顔を上げる。
「さっきまでの君は、ずいぶん冷静だった。候補地だの、確率だの、政府の動きだの。まるで盤の上の駒を動かしているように話していた」
トニーは静かに続けた。
「でも、その盤の上には君の父親がいるんだな」
「……はい」
「それなら、冷静ではいられないさ」
トニーは小さく息を吐いた。
「私にも息子がいる」
グリフが少し驚いた。
「首都に?」
「ああ。もういい歳だがね」
夜空を見上げる。
「もし誰かが、『あなたの息子が死ぬ確率を下げるために、他人の息子を危険にさらします』と言ったら、私は怒るだろう」
「……そうですよね」
「でも逆に、息子を助ける方法がそれしかないと言われたら」
トニーは苦い笑みを浮かべた。
「自分が何をするか、正直なところ自信はない」
グリフは黙った。
「だから、君を軽蔑はしない」
トニーはそう言って、再び歩き始めた。
「ただし、止めるときは止める。それが年長者の役目だ」
グリフも隣に並んだ。
「ありがとうございます」
「まだ礼を言うところじゃないよ」
少しだけ、トニーのいつもの穏やかな調子が戻った。
「それで? 君が考えた『悪いこと』とやらを、最後まで聞いてみよう」
グリフが顔を上げた。
「聞いてくれるんですか?」
「聞くだけだ」
「……はい」
しばらく考えてから、グリフは話し始めた。
「他の島へ武器を送るとか、ゲリラに直接情報を渡すとか、そういうことを考えているわけじゃありません」
「それをやったら、ここで君を殴ってるよ」
「トニーさんが?」
「教育者を甘く見るな」
グリフはほんの少し笑った。
すぐに真顔へ戻る。
「考えているのは、港湾施設の利用料です」
「利用料?」
「政府の支援で整備された港に、新しい利用税をかけるかもしれない――という噂を流します」
トニーが眉を寄せた。
「存在しない税を?」
「『検討されているらしい』というだけです」
「十分に嘘だよ」
「はい」
グリフは否定しなかった。
「でも、それを聞いた島では政府への不満が出る」
「それだけか?」
「それだけじゃありません」
グリフは少し前のめりになった。
「誰が負担するのかで、島の中でも揉めます」
トニーは黙って先を促した。
「港をよく使うのは漁民だから、農民は『漁民が多く払え』と言うかもしれない。漁民は『農家だって港を使って作物を売ってる』と返す」
「なるほど」
「金持ちは貧しい人間にも負担させろと言うかもしれないし、貧しい側は金持ちが払えと言うでしょう」
「つまり、政府への反感と、島内の対立を同時に作る」
「はい」
トニーは深く息を吐いた。
「君は本当に、嫌なことをよく思いつくね」
「褒められてはいませんよね?」
「当たり前だ」
しかし先ほどの拒絶する口調ではなかった。
「でも、必ず揉めるわけじゃありません」
グリフは続ける。
「同じ噂を今のルンザットに流しても、たぶん大きな問題にはならない」
「なぜ?」
「ヘルマンさんなら、『なら俺が多めに払う』と言うでしょう」
「言いそうだ」
「トニーさんは政府に交渉する」
「たぶんね」
「父とアンダルさんは、不満が出ないように双方をまとめる」
グリフは前を見ながら言った。
「だから、乗り越えられる島なら乗り越えるんです」
「……そして、乗り越えられない島だけが揉める」
「はい」
トニーが苦笑した。
「『私は崖から突き落としてない。少し背中を押しただけです』という理屈か」
グリフは答えなかった。
「大人には通用しないぞ」
「分かっています」
「本当に?」
「たぶん」
その答えに、トニーは少し笑った。
だがグリフは真顔のままだった。
「でも、ルンザットが候補から外れるということは、結局どこか別の島が候補になるということです」
トニーの笑みが消えた。
「そこなんです」
グリフは続けた。
「俺たちが何もしなくても、誰かが選ばれる。だったら、父が――」
一度言葉が詰まった。
「父が死ぬ可能性を少しでも下げるために、できることを考えたい」
トニーはグリフを見た。
その顔は先ほどまでの策士の顔ではなかった。
まだ23歳の、父親を失いたくない息子の顔だった。
「……具体的な方法まで考えているのか?」
「はい」
グリフは答えた。
「政府の担当者に会ったら、まず俺から聞きます」
少し声を整える。
「『港湾施設への利用料を検討しているという噂を聞いたんですが、本当ですか』と」
「当然、知らないと言うな」
「はい」
「そのあと?」
「こう頼みます」
グリフは言葉を選びながら続けた。
「『まだ決まっていないが、政府の一部で利用料を検討しているらしい。もし本当に導入されるなら、ルンザットには便宜を図ってほしい。減額でも先送りでもいい。難しければ、せめて情報だけ早めに知らせてほしい』と」
トニーが顔をしかめる。
「そこで金を渡す?」
「はい」
「それは駄目だ」
即答だった。
グリフが目を瞬かせた。
「でも――」
「そこは私に任せなさい」
トニーの声はきっぱりしていた。
「役人に金を渡すとなれば、それだけで話が別になる。君にはまだ、その線引きが分からない」
「……はい」
「噂をどう扱うかとは別問題だ。金は引っ込めておけ」
グリフは少し不満そうだったが、うなずいた。
「分かりました」
「それで、その噂をどう広げる?」
「州都の市場です」
「ほう」
「漁師たちに、『政府が港湾利用税を検討しているらしい』と話す」
グリフは続けた。
「そうすれば、その話を聞いた島の幹部が州政府に問い合わせると思います」
「そこで役人が『そんな話はない』と言えば終わりだ」
「だから、その前に政府の人に話しておくんです」
トニーが目を細める。
「『検討されているらしいが、まだ詳細は来ていない』くらいの返事をさせる?」
「はい」
「……なるほど」
トニーはしばらく考え込んだ。
「狙っている島があるな?」
グリフは一瞬黙り、それから答えた。
「オランジャック島です」
「やはり」
「ルンザットよりフィリピンに近い。ゲリラが逃げるにも便利です。それに政府援助で港が整備されている」
「利用料の噂にも現実味がある」
「はい」
「人口は2,000人ほどだったな」
「ルンザットより大きい。利害も複雑なはずです」
グリフは淡々と並べていく。
「政府への不満。漁民と農民の対立。港を使う者と使わない者。負担を巡る金持ちと貧しい人たちの争い――」
「グリフ君」
トニーが遮った。
「はい?」
「そこまでにしなさい」
グリフが黙る。
「君の悪いところが出ている」
「悪いところ?」
「数字と条件を並べていくと、人間まで条件の一つに見えてくる」
グリフは何も言わなかった。
「オランジャックにも父親がいる。息子がいる。君と同じように、家族を守りたい人間がいる」
トニーは静かに言った。
「そこを忘れたら、君はたぶん、とても危険な人間になる」
その言葉は、夜気の中に重く残った。
グリフはしばらく地面を見つめた。
「……はい」
「でも」
トニーが続ける。
「君の考えを全部捨てろとも言わない」
グリフが顔を上げた。
「私は君より長く生きてきた。官僚もやった。人がきれいごとだけで動かないことも知っている」
トニーは小さく笑った。
「だから困っているんだよ」
「困ってる?」
「君の案に、一定の合理性があるからだ」
グリフの目がわずかに動いた。
「ただし、合理的だから正しいとは限らない」
「……はい」
「そこを一緒に考えよう」
トニーはそう言って歩き始めた。
グリフは数歩遅れてから、その隣に並んだ。
「じゃあ……首都に?」
「まだ返事はしない」
「はい」
「でも、真剣に考える」
トニーは前を向いたまま言った。
「もし私が首都へ行くまでに、この案を捨てるべきだと思えば、そう言う。そのときは聞きなさい」
「分かりました」
「逆に、使える部分があると思えば――」
少しだけグリフを見る。
「君も連れていく」
グリフは一瞬言葉を失った。
「……信用してくれるんですか?」
「違う」
トニーは微笑んだ。
「これから信用できる人間かどうか、見ているところだ」
グリフも、わずかに笑った。
「厳しいですね」
「教師だからね」
家の灯りが、もうすぐそこまで近づいていた。
「ただ、一つだけ今夜分かった」
「何ですか?」
「君は冷たい人間じゃない」
グリフの足が一瞬止まりかけた。
トニーは振り返らずに続ける。
「むしろ逆だ。大切なものを失うのが怖すぎて、頭で全部片づけようとしている」
グリフは答えなかった。
「若いうちは、それでもいい」
トニーの声は穏やかだった。
「ただ、自分の頭だけを信用しすぎるな。怖いときほど、人の話を聞きなさい」
「……はい」
今度の返事は、素直だった。
2人は再び黙って歩いた。
月は薄雲の向こうから、静かに光を取り戻していた。




