海の男たちの役目
しばらくして、宿の広間。
テーブルの上には、今朝獲れたばかりの魚が並べられていた。桶の中で、銀色の鱗がまだぴくぴくと動いている。
ヘルマンは1匹ずつ確かめ、最後に顎へ手を当てた。
「ふむ……悪くない」
「悪くない、じゃない。上物だ」
ファジャルが胸を張った。
「5匹で十五万ルピアだな」
「は?」
ファジャルの眉が跳ね上がった。
「二十万だ」
「15万」
「20万」
「15万」
「18万」
「値下げしてるじゃないか」
「うるさい。今のは譲歩だ」
ヘルマンが吹き出した。
「相変わらず強気だな」
「魚を見ろ。こんなの、そうそう獲れないぞ」
「分かってる」
「じゃあ20万」
「15万」
また戻った。
ファジャルは睨みつけた。
「お前、最初から買う気あるのか?」
「あるから話してる」
窓の外から、宿泊客の笑い声が聞こえてくる。
広い宿。自前の発電機。きれいに整えられた庭。
汗と潮にまみれた自分とは、まるで別の世界だ。
ファジャルの胸に、先ほどガランが口にした言葉が蘇った。
――あいつらばかりが恵まれてる。
そんなファジャルの顔を見ていたヘルマンが、ふと声を落とした。
「そういえば、昨夜の会議だが」
ファジャルは視線を戻した。
「なんだ?」
「結局、具体策までは決まらなかったな」
「ああ」
ファジャルは肩をすくめた。
「ゲリラの調査団をどう追い返すかなんて、急に言われても思いつかん。各自で考えて、今夜また持ち寄ることになった」
「そのことなんだ」
ヘルマンは椅子を引き、腰を下ろした。
「さっきまでディオと話していた」
「朝から?」
「お前が魚を獲ってる間にな」
「嫌味か?」
「事実だ」
ファジャルが鼻を鳴らした。
ヘルマンは笑って続ける。
「時間がない。全員で議論して、全員が納得して、それから動く――では遅すぎる」
「それは分かる」
「だから3つの課題に分けて、担当を決めることにした」
ファジャルの眉が寄った。
「決めた?」
「ああ」
「誰が?」
「村長と副村長」
ヘルマンは自分を指差した。
「つまりディオと俺だ」
「勝手にか?」
「勝手にだ」
あまりにも堂々と言うので、ファジャルが一瞬言葉を失った。
ヘルマンは両手を広げる。
「不服ならディオに言え。今夜の会議でひっくり返しても構わん」
「お前、意外と雑だな」
「こういうときは、雑なくらいでちょうどいい」
ファジャルは思わず笑いそうになった。
「で、どう分けた?」
「まず『島民の融和』。これはアンダルとディオに任せる」
「農民と漁民か」
「そういうことだ。両方の顔役が一緒に動けば、それだけでも意味がある」
ファジャルは黙ってうなずいた。
「次に『政府寄りの住民意識』。これは俺とトニー」
「いかにもだな」
「どういう意味だ?」
「お前は役人と仲がいい」
ヘルマンが苦笑した。
「仲がいいんじゃない。付き合わざるを得ないだけだ」
「同じだろ」
「全然違う」
少し間を置いて、ヘルマンは続けた。
「せっかく役人と付き合ってきたんだ。こういうときくらい使わせてもらう」
「使う?」
「ああ。州政府から何か支援を引っ張ってくる」
ファジャルが目を細めた。
「そんな簡単に出すか?」
「出させるんだよ」
ヘルマンはさらりと言った。
「小さな発電機でも、漁具でも、学校用品でもいい。『政府がこの島を気にかけている』と分かるものを持ってこさせる」
ファジャルは少し驚いた。
「それを島民に見せるわけか」
「そうだ。ゲリラの調査員にもな」
なるほど、とファジャルは思った。
役人と付き合っているのは、自分たちだけ得をするためだとばかり思っていた。
「それで?」
ファジャルは腕を組む。
「俺は何をやらされる?」
ヘルマンがにやりと笑った。
「君とグリフには、『ゲリラへの抵抗体制』を任せたい」
「俺とグリフ?」
「ああ」
ヘルマンは少し身を乗り出した。
「君は毎年、祭りで若い連中をまとめている。言うことを聞かない奴らまで、最後にはちゃんと動かしてるだろう」
「酒を飲ませてるだけだ」
「それでまとまるなら立派な統率力だ」
「褒めてるのか、それ」
「もちろん」
ファジャルは疑わしそうに見る。
ヘルマンは構わず続けた。
「グリフは武道を知っている。実際の戦いをする必要はない。だが、『この島の若者は簡単には脅せない』と思わせる程度の訓練はできる」
「なるほど……」
「君なら若い連中を集められる。グリフなら教えられる」
ヘルマンは真顔になった。
「2人なら、かなりいい形にできると思っている」
ファジャルは黙った。
自分がこの男を嫌っていることくらい、ヘルマンも知っているはずだ。
それでも仕事を任せ、しかも能力を評価している。
「……悪くないな」
やがてファジャルが言った。
「グリフの強さは俺も認めてる。あいつなら頼りになる」
「そう言ってもらえると助かる」
ヘルマンは満足そうにうなずいた。
「君にも期待しているよ」
その言葉に、ファジャルは少し居心地が悪くなった。
「気持ち悪いな」
「何がだ?」
「お前に褒められると」
ヘルマンが大きく笑った。
「じゃあ取り消そうか」
「いや、それはそれで腹が立つ」
「面倒な男だな」
「お前にだけは言われたくない」
2人とも笑った。
そこでヘルマンが、テーブルの魚へ目を落とした。
「さて」
「なんだ?」
「魚の値段だが」
ファジャルの顔が再び商売人のものになる。
「20万」
「話が戻ったな」
「当然だ」
ヘルマンは少し考える素振りを見せた。
「……いいだろう。二十万で買おう」
「本当か?」
「ああ」
ところが、今度はファジャルが口を閉じた。
「いや」
「なんだ?」
「十五万でいい」
ヘルマンが怪訝そうに目を細めた。
「……君が?」
「悪いか」
「熱でもあるんじゃないか?」
「ぶん殴るぞ」
ヘルマンは声を上げて笑った。
「弟が怒るんじゃないか?」
「文句は言わせない」
「さっきまで二十万って騒いでいたのに?」
「気が変わったんだ」
ファジャルはぶっきらぼうに答えた。
ヘルマンはしばらくその顔を見たあと、ふっと笑った。
「分かった。では今回は十五万だ」
「そうしろ」
「その代わり、次にいい魚が獲れたら真っ先に持ってきてくれ」
「値段次第だな」
「商売人め」
「お前が言うな」
また2人とも笑った。
宿を出ると、朝の光が海面いっぱいに広がっていた。
ファジャルは歩きながら、振り返って宿を見た。
金持ちで、役人とつるみ、自分たちを見下している男。
ずっと、そう思っていた。
もちろん、気に食わないところがなくなったわけではない。
だが――
「……案外、話は分かるじゃねえか」
小さく呟く。
その声は、潮風にさらわれていった。
***
夕暮れどき。
港へ戻った漁船の甲板で、ガランとユディが漁具を片づけていた。
網を広げて干し、桶に海水を張り直す。西へ傾いた陽が、濡れた甲板を赤く染めていた。
そこへ、浜辺の方からファジャルが歩いてきた。
「おい」
ガランが顔を上げる。
「遅かったな。どこ行ってたんだ?」
「……ヘルマンの宿だ」
その名前を聞いた途端、ガランの顔が露骨に曇った。
「またあいつに魚を売ったのか?」
「ああ」
「どうせ買い叩かれたんだろ」
ファジャルは桶の縁に腰を下ろした。
「最初は十五万だった」
「ほら見ろ!」
ガランが勝ち誇ったようにユディを見る。
「だから言ったろ。あいつはケチなんだ」
「俺は二十万と言った」
「それで?」
「最後は、あいつが二十万でいいと言った」
ガランが口を閉じた。
ユディがにこりと笑う。
「じゃあ、よかったじゃないですか」
「いや。十五万で売った」
2人の手が同時に止まった。
「……は?」
ガランが聞き返した。
ユディも目を丸くしている。
「十五万で売った」
「なんでだよ!」
ガランの声が港に響いた。
「せっかく二十万まで上がったのに、自分から下げたのか?」
「ああ」
「兄貴、熱でもあるんじゃないか?」
「ない」
「海に頭から落ちたとか?」
「落ちてない」
ユディが心配そうに覗き込む。
「本当に大丈夫ですか?」
「お前まで心配するな!」
ファジャルは苦笑した。
「ちゃんと理由があるんだ」
ガランはまだ納得していない顔で腕を組んだ。
「五万ルピア分の理由が?」
「ある」
「かなり立派な理由じゃないと許さねえぞ」
「なんでお前の許可がいるんだ」
ユディが吹き出した。
ファジャルも笑いながら、話を続けた。
「魚より大事な話をしてきたんだ。昨夜の会議の続きだよ」
ガランの表情が少し真面目になる。
「会議じゃ、結局何も決まらなかったんだろ?」
「あの場ではな」
ファジャルはうなずいた。
「だが今日、ディオとヘルマンが話し合ったらしい。それで、やることを3つに分けて担当を決めた」
「また勝手にか?」
ガランが眉をしかめる。
「まあ、勝手にだな」
「ほらな。やっぱりヘルマンは――」
「ただし、嫌なら今夜の会議で変えていいそうだ」
ガランが止まった。
「……それなら、まあ」
「お前、意外と簡単だな」
「筋が通ってりゃ文句は言わねえよ」
「さっきまでケチだの悪人だの言ってたじゃないですか」
ユディに言われ、ガランが睨む。
「お前はどっちの味方なんだ」
「魚を高く買ってくれる方です」
「お前が一番現金だな」
3人が笑った。
ファジャルは指を1本立てる。
「まず、『島民の融和』はアンダルとディオ」
「農民と漁師のまとめ役か」
「そういうことだ」
2本目。
「『政府寄りの住民意識』はヘルマンとトニー」
ガランが鼻を鳴らした。
「ヘルマンは役人と仲良しだからな」
「本人は『仲がいいんじゃなく、付き合わされてるだけだ』と言ってたぞ」
「同じだろ」
「俺もそう言った」
ユディが笑う。
「で?」
ガランが続きを促した。
ファジャルは3本目の指を立てた。
「『ゲリラへの抵抗体制』は――俺とグリフだ」
しばらく沈黙した。
ガランがゆっくり顔をしかめる。
「……あのグリフと?」
「ああ」
「村長の息子だからって、ちょっと偉そうなあいつ?」
「お前、本人の前では言うなよ」
「兄貴だって前に言ってただろ」
「昔の話だ」
「昨日までじゃねえか」
ファジャルは返す言葉に詰まった。
ユディがにやにやしている。
「ファジャルさん、ヘルマンさんだけじゃなく、グリフのことまで見直したんですか?」
「うるさいな」
「今日はずいぶん人を見直す日ですね」
「明日はお前を見直さなくなるかもしれんぞ」
「それは困ります」
また笑いが起きた。
ファジャルは少し照れくさそうに頭をかいた。
「まあ……グリフのことは、正直ずっと生意気な坊主だと思ってた」
「ほら」
「でも昨夜の会議では違った」
ファジャルの声が少し真面目になる。
「ちゃんと筋道を立てて話してた。それに、この島がどうなれば一番危ないのか、本気で考えてる」
ガランは網を束ねながら聞いていた。
「強いらしいな」
「ああ。それもある」
ファジャルは海へ目を向けた。
「だが、『抵抗体制』ってのは、ただ殴り合いの練習をすればいいって話じゃない」
「違うのか?」
「ゲリラは、島民同士の仲が悪ければ、そこにつけ込んでくる」
ファジャルは先ほどまでより低い声で続けた。
「農民の中から何人かでも協力する者が出れば、奴らはそれを利用する。『農民はゲリラ側だ』と俺たち漁師に思わせ、逆に農民には『漁師がお前たちを敵扱いしている』と吹き込む」
ユディの笑みが消えた。
「……それは嫌ですね」
「ああ」
「そうやって、引くに引けなくするわけか」
ガランも真顔になった。
「そうだ」
ファジャルはうなずいた。
「だから、島を守るってのは武器を持つことだけじゃない。簡単に仲間割れしないようにすることも大事なんだ」
ガランはしばらく黙っていた。
網を束ね終えると、ぽつりと言った。
「……兄貴がそんな立派なこと言うと、ちょっと気持ち悪いな」
「おい」
ユディが吹き出した。
「でも、俺もそう思いました」
「お前らな!」
「冗談だよ」
ガランは笑った。
「兄貴がそこまで考えてるなら、俺も従う」
ユディもうなずく。
「俺も協力します」
ファジャルは2人を見た。
そして、少し得意そうに胸を張る。
「よし。今夜また会議がある。正式に話が出るだろう」
ガランが嫌な予感でもしたように目を細めた。
「まさか俺たちも訓練するのか?」
「当然だ」
「朝から漁して、そのあと訓練?」
「島を守るためだ」
「給料は?」
「出ない」
「やっぱりゲリラより兄貴の方が怖いな」
「何か言ったか?」
「何も」
ユディが声を上げて笑った。
ファジャルもつられて笑う。
「まあ、とにかくだ」
腰を上げ、2人の肩を順番に叩いた。
「俺たち漁師の力、見せてやろうじゃないか」
「その前に」
ガランが手を差し出した。
「何だ?」
「魚の五万ルピア分、兄貴の取り分から引いとけよ」
「まだ言うか!」
3人の笑い声が、夕暮れの港に響いた。
沖では夕陽が海へ沈みかけていた。
この島に本当の危機が近づいていることを、彼らは知っている。
それでも今はまだ、こうして冗談を言い合う余裕があった。




