戦いのあとに残ったもの
病室の窓から、白い光が差し込んでいた。
潮の匂いはしない。
代わりに、消毒液の匂いがわずかに鼻につく。
アンダルはベッドの上で、ぼんやりと天井を見ていた。
視線を落とすと――
そこにあるはずのものが、ない。
両足。
毛布の下で途切れている感覚には、まだ慣れなかった。
ノックもなく、ドアが開く。
「よう、アンダル。生きてるか!」
いつもの調子の声。
ディオだった。
「やっと来れたよ。ずっと警察に捕まっててな、取り調べだの何だので大変だった」
アンダルはゆっくり顔を向けた。
そして、口の端を上げた。
「ディオか……なんとか生き延びたよ」
少し間を置いて。
「……あんたの仲間入りだな。よろしく、先輩」
ディオの視線が、毛布の下へ落ちる。
一瞬だけ。
だが、すぐにいつもの調子に戻した。
「確かに、足無し仲間としては俺が先輩だな」
軽く笑う。
「ただお前さんは両足だ。神様に丸ごと献上したわけだろ?」
肩をすくめる。
「位はそっちが上だな。出世頭だ」
アンダルが吹き出した。
「はは……それはいい」
「やっとあんたに勝てるところができたか」
ディオも笑った。
だが、その目は少しだけ優しかった。
*
「……あんたはさ」
アンダルがぽつりと言う。
「俺たちの世代じゃ、憧れだったんだよ」
ディオは眉をひそめる。
「部族長の息子で、頭も良くて、都会的で……」
「かっこよかった」
少しだけ照れたように続ける。
「日本に行っちまってな。帰ってくるたびに、贅沢な土産を持ってきてくれた」
ディオは苦笑した。
「それ、褒めてるのか?」
「なんか嫌味にも聞こえるぞ」
「もちろん褒めてる」
アンダルは少し考えてから付け加えた。
「……たぶんな」
2人の間に、短い笑いが落ちる。
*
ディオは、椅子を引いて腰を下ろした。
「まずは報告だ」
少し真面目な声になる。
「家族は無事だ。チャンドラもローサも怪我はない」
アンダルの肩の力が、少し抜けた。
「……そうか」
「よかった」
ディオは続ける。
「島のほうも、大きな混乱はない」
「半日で終わったからな。多くのやつらにとっては……」
少し考える。
「避難所に集まって、ホテルの飯食って、夕方には帰った。それだけだ」
アンダルは小さく頷いた。
現実的な話だった。
「観光客も、ほとんど気づいていない」
ディオが言う。
「トニーさんがうまくやってくれた。調査も幹部だけに絞らせた」
「島の日常は、そのままだ」
「……そうか」
アンダルは、静かに言った。
良かったのか。
それとも。
何かを失ったのか。
自分でも、まだよくわからなかった。
*
「ただな……」
ディオが少し顔をしかめる。
「ファジャルが面倒なことになってる」
「やっぱりか」
アンダルは苦笑した。
「食料の件か?」
「ああ」
ディオがうなずく。
「ゲリラへの協力を疑われてる」
「もともと態度が悪いだろ、あいつ。余計に印象が悪い」
「今は警察が張り付いてる。どこ行ったとか、誰と話したとか、全部記録されてるらしい」
「少しでも矛盾があれば、また呼び出しだ」
アンダルは天井を見上げた。
「……災難だな」
「まあ、自業自得なところもあるがな」
ディオは肩をすくめた。
*
しばらく沈黙が続く。
やがてアンダルが口を開く。
「農民のほうは?」
「問題は出てないか」
ディオは少し考えた。
「大きな問題はない」
「ただ……これからだな」
「やっぱりな」
アンダルは、ため息をついた。
「……今後のリーダーの話だろ」
ディオは黙って頷いた。
アンダルは、自分の足を見た。
正確には――
その「あった場所」を。
「俺は無理だ」
あっさりと言った。
「この足じゃ畑に出られない」
「島じゃ車椅子も使えん」
「家から港に行くだけでも一苦労だ」
ディオは何も言わない。
「州都に残る」
アンダルは続けた。
「仕事も紹介してくれるらしい」
「島よりは……ましだろ」
ディオは、ゆっくり頷いた。
「……そうか」
短く。
それだけだった。
*
「じゃあ、誰にする」
ディオが本題に入る。
「農民のリーダーだ」
アンダルは、少しだけ考えた。
「……ベニだな」
即答だった。
「親の代からの流れもある」
「みんな納得はする」
ディオは、少しだけ顔をしかめる。
「ただな……」
「カカオやコーヒーの話、あるだろ」
「ベニで進められるか?」
アンダルは苦笑した。
「難しいな」
「保守的だからな、あいつ」
「新しいものが嫌いなわけじゃない」
「テレビも好きだし、ビールも飲む」
「便利になるのは歓迎する」
少し間を置く。
「でもな……やり方が変わるとなると、話は別だ」
「すぐ『伝統』って言い出す」
ディオも苦笑した。
「わかる」
「それに……」
アンダルが続ける。
「漁民への反感もある」
「ファジャルとは、いずれぶつかる」
ディオは腕を組んだ。
「……じゃあ、新作物は別に担当を置くか」
「それが現実的だろうな」
だが。
アンダルの表情が少し曇る。
「問題は、やるやつがいるかだ」
「俺1人で進めてきたからな」
「弟子でもいればよかったんだが……」
ディオが顔を上げる。
「……いるのか?」
アンダルは、少しだけ笑った。
「1人だけ、教えた」
「どうかな、あいつ」
「誰だ?」
ディオが聞く。
アンダルは答えた。
「ローサだ」
ディオの眉が上がる。
「ローサ?」
「……あの子か」
戦いのときの姿が、頭に浮かぶ。
「若いな」
「日本なら中学生だ」
「ああ」
アンダルはうなずく。
「ゲリラの前の数週間だけだが、教えた」
「畑が退屈だって言ってたからな」
「刺激になると思って」
少し笑う。
「やる気はなかったが……覚えはいい」
「驚くくらいにな」
ディオは、ゆっくり息を吐いた。
「……そうか」
そして、いつもの調子に戻る。
「この島は、ときどき変なのが出るからな」
「俺みたいに」
アンダルが笑った。
「自分で言うか、それ」
ディオも笑う。
「ローサも、そうかもしれん」
「帰ったら話してみる」
*
そのあと。
2人は、これからの生活の話をした。
州都での暮らし。
仕事のこと。
義足のこと。
そして――
ゲリラの、その後の話。
病室の中には、穏やかな時間が流れていた。
戦いは終わった。
だが。
何かが、確実に変わっていた。
***
島にゲリラが来てから、半年が過ぎていた。
ルンザットには、発電設備が設置されていた。
鉄の柱が立ち、配線が張り巡らされ、夜には灯りがともるようになった。
それは、これまでの島の風景とは明らかに異質なものだった。
だが島民は、それを歓迎していた。
あの一件――
ゲリラの襲撃は、結果として軍の失態だった。
本来であれば、ホジャン島で掃討されるはずの残党が、ルンザットに流れ込んだ。
しかし。
半日で終わった。
奇跡的と言っていい速さで。
そのため、外の世界では大きな話題にはならなかった。
報道では――
「住民の協力のもと、軍が迅速に対応した」
ということになっていた。
実際には。
住民が戦い、無力化し、軍はそれを「回収」しただけだった。
だが。
トニーの進言もあり――
ディオは、その筋書きに従った。
その代わりに。
トニーは、約束を現実に変えた。
発電設備。
冷凍施設。
農業支援。
どれも、驚くほどの速さで動き出した。
*
農民のリーダーには、ベニが就いた。
古い流れを引き継ぐ形で。
一方で。
カカオやコーヒーといった新作物の担当は、表向きはチャンドラ。
だが、実際に動いているのは――ローサだった。
最初は不満げだった。
押し付けられた役割のように。
だが。
政府の担当官とともに他の島を視察してからは、変わった。
目の色が。
畑に立つ時間が増えた。
質問の数が増えた。
そして――
誰よりも動くようになった。
*
その日。
グリフは、久しぶりに会議に顔を出していた。
彼は正式な役職を持っていない。
だから、普段は呼ばれない。
呼ばれるのは――
揉めるときだけだ。
部屋の中には、いつもの顔ぶれが揃っていた。
だが、空気は重い。
誰も本題に触れようとしない。
ディオだけが、いつものようにとりとめのない話をしていた。
隣ではヘルマンが相槌を打っている。
だが、それもどこか上の空だった。
グリフが部屋に入った瞬間――
全員の視線が動いた。
そして。
ほっとしたように、ディオが体を起こした。
「よし、じゃあ始めるか」
空気が切り替わる。
「今日は電力の使い方だったな」
「トニーさんが急がせてくれたから、思ったより早く動き出しそうだ」
「助かったよ」
トニーは軽く首を振った。
「いや、みんなのおかげだ」
「政府に貸しを作れたのが大きかった」
ディオが笑う。
「それでもトニーさんの力だろう」
「農業支援も進んでるし、冷凍設備も着工したんだっけ、ファジャル?」
ファジャルは腕を組んだまま頷いた。
「ああ、やっとな」
「……それより電力だ」
少し身を乗り出す。
「まずは冷凍設備に回す。それでいいよな」
そのとき。
ベニが口を開いた。
「ちょっと待て」
全員の視線が集まる。
「発電量のどれくらいを冷凍に回すんだ、ディオ」
ディオは答える。
「7割くらいと聞いている」
その瞬間。
ベニの眉が吊り上がった。
「7割?」
「それじゃ、新しい農園に水が回らんだろう」
「ポンプにどれだけ電力がいると思ってる」
一歩、踏み込む。
「新しい電力は、農民と漁民で半分ずつ使う」
「それが平等だ」
*
空気が、張り詰めた。
ファジャルの声が、少し強くなる。
「いや」
短く否定する。
「漁民のほうが人数が多い」
「それに冷凍設備はすぐに金になる」
指を立てる。
「農業はこれからだ」
「成功するかもわからん」
「まずは確実なものを優先すべきだろう」
ベニの顔色が変わる。
「またそれか」
低い声。
「農民は、いつも後回しだな」
空気が、一段冷えた。
「この話は、ゲリラを倒したから来たんだ」
言葉に力がこもる。
「命がけで戦ったのは農民だ」
「アンダルは両足を失った」
ベニはいったん言葉を切る。
「農業支援は、あいつの願いだった」
「それに報いるべきじゃないのか」
*
ファジャルの目が細くなる。
「……言い方に気をつけろ」
低く。
「漁民が何もしていないみたいじゃないか」
ベニがすぐに返す。
「実際、捕まえたのは軍だろ」
「お前らは囲んでただけだ」
「こっちは銃弾の中で戦った」
「レベルが違う」
ファジャルの顔が険しくなる。
「お前は戦ってないだろ」
「戦ったのは自警団だ」
「俺がリーダーだった」
「個人の話をしてるんじゃない!」
ベニが声を荒げる。
「子どもか?」
部屋の空気が、軋む。
「丸太を運んだのは誰だ?」
「村の男はほとんど出た」
「……あれだけやったんだ」
一歩、踏み込む。
「それで何の恩恵もなしに、電力を全部持っていかれたら――」
「顔向けできん」
ファジャルも引かない。
「漁民だって命を張った」
「網を仕掛けたとき、転覆しかけた」
「あの海に落ちたら、死ぬ可能性もあった」
ベニは鼻で笑う。
「それは一部だろう」
「なら、その連中にだけ金を出せばいい」
「農民はほとんどの家で人を出してる」
ファジャルの声が鋭くなる。
「あほか」
「そんなことしたら、漁民の中で揉める」
さらに続ける。
「冷凍施設は前から決まっていた」
「ずっと待たされてきた」
「やっと動くんだ」
「それをまた後回しにしろってか?」
*
言葉がぶつかり合う。
理屈と感情が、混ざり合う。
そして――
誰も引かない。
グリフは、その様子を黙って見ていた。
(……完全に割れてるな)
ここから先は。
放っておけば、決裂する。
彼は、静かに息を吐いた。
*
2人の議論が、これ以上進まないことを見て――ディオは、ゆっくりとトニーに視線を向けた。
「トニーさん」
軽い調子だったが、内容は重い。
「今回の発電設備、もう少し規模を大きくできないか?」
部屋の空気が一瞬止まる。
「費用は政府の補助が大半だが……俺とヘルマンの私財も入っている。少しなら上乗せできるが、どうだ」
トニーは、間髪入れずに首を振った。
「何を言っている」
声は穏やかだが、内容はきっぱりしている。
「もう完成間近だ。今さら遅い」
「金の問題ではない。設備と人員の問題だ」
トニーは周囲を見回し、続けた。
「来週には別の現場に移っているだろう」
「今回は無理を通して優先したんだ」
そして、少しだけ視線を細めた。
「……それに、ディオ」
「こういうことは、もっと前に決めておくべきだったのではないか?」
部屋の視線が、一斉にディオに集まる。
逃げ場はない。
ディオは、少しだけ肩をすくめた。
「いや……そう言われると困るな」
軽く笑う。
「農業のほうで、そこまで電力を使うとは聞いてなかった」
間髪入れず、ベニが返す。
「聞かれてない」
ぴしゃりと言い切った。
「俺でもチャンドラでも、聞いてくれれば見積もりは出した」
「最大でどれくらい必要かも言えた」
一歩踏み込む。
「それに――」
「使いたいのは半分だ」
「冷凍施設が7割なんて話は聞いてない」
視線が鋭くなる。
「それがわかった時点で、こちらに一言あってもいいはずだ」
部屋の空気が、また重くなる。
「……それがないってことはだ」
「農民には強く出ればいい、って思ってたんじゃないのか?」
沈黙。
「見下してるってことにならないか?」
ファジャルがすぐに返す。
「見下してなんかいない」
短く。
「考えすぎだ」
そのとき――
ヘルマンが、くすっと笑った。
場違いなくらい軽い笑いだった。
「いやあ……」
椅子にもたれながら、両手を組む。
「なんか懐かしいな」
全員の視線が集まる。
「昔、都会で働いてたときのこと思い出したよ」
にやにやしながら続ける。
「利権の取り合いってやつだな」
一瞬、空気が緩む。
「この島らしくないなあ」
肩をすくめる。
「俺としてはどっちでもいいよ」
「電気がどっちに回ろうが、観光には関係ない」
そこでいったん口を閉じた。
「それより――」
少しだけ真顔になる。
「島民が仲良くやってくれたほうがいい」
視線をぐるりと回す。
「ゲリラ、本体はまだ残ってるんだろ?」
「こんなことで揉めてると、付け込まれるぞ」
ベニが低く言う。
「俺は派閥争いなんてしてない」
「ただ、農民が見下されてるのが我慢できないだけだ」
「だから、見下してねえって言ってんだろ」
ファジャルが苛立つ。
「そっちこそ、被害者意識ってやつじゃねえのか」
ベニも引かない。
「この場の連中はまだいい」
「だが他はどうだ?」
「露骨に態度に出てるやつもいる」
「口が悪いだけだ」
「そういうつもりじゃねえよ」
「それが問題なんだよ」
言葉が、またぶつかり始める。
そのとき――
「はいはい、ストップ」
ヘルマンが手を叩いた。
「どっちも正しい、どっちも面倒くさい」
軽く笑う。
「で、結局――」
ディオを見る。
「これ、誰が悪い?」
一瞬の間。
そして。
「……俺か?」
ディオがぽつりとつぶやいた。
「そうだろ」
ヘルマンが即答する。
部屋に、わずかな笑いが広がる。
ディオは頭をかいた。
「うーん……」
少し考えるふりをしてから。
「じゃあ、全体集会で決めるか?」
すぐにベニが首を振る。
「だめだ」
「漁民のほうが多い。最初から決まってる」
「だよなあ……」
ディオは素直に引っ込めた。
そして、少し姿勢を正す。
「わかった」
「この件は――」
ゆっくりと周囲を見渡す。
「俺がいったん預かる」
静かに言う。
「冷凍施設も、ポンプも、動かすまでにはまだ時間がある」
「それまでに、なんとかする」
誰も反論しなかった。
だが――
納得したわけでもない。
ただ。
「とりあえず預ける」という空気だけが、そこにあった。
*
そのとき。
ディオの視線が、ゆっくりと動いた。
部屋の隅。
壁にもたれかかるようにして立っている人物に向く。
グリフ。
にやりと笑う。
「……なあ、グリフ」
わざとらしく、軽い声で言う。
「こういうの、得意だろ?」
一瞬、間があいた。
全員の視線が、今度はグリフに集まる。
グリフは、ゆっくりと顔を上げた。
(……やっぱりか)
内心でため息をつく。
ディオは、さらに追い打ちをかける。
「いやあ、助かるよ」
「若いやつのほうが、柔らかい考えできるしな」
ヘルマンも乗る。
「そうそう」
「こういうのは、頭の固い大人より若いのがいい」
トニーも、苦笑しながら言う。
「私も興味があるな」
「どうまとめるのか」
完全に、逃げ道は塞がれた。
グリフはしばらく黙っていたが――
やがて、諦めたように息を吐いた。
「……なるほど」
顔を上げる。
「つまり」
「俺がやれってことか?」
ディオが満面の笑みでうなずく。
「そういうことだ」
一瞬の沈黙。
そして――
グリフは、小さく笑った。
「はあ……」
肩をすくめる。
「面倒な仕事、押し付けやがって」
だが、その目は――
少しだけ楽しそうでもあった。
「いいよ」
静かに言う。
「やってやる」
部屋の空気が、わずかに変わった。
対立の場から――
「解決を待つ場」へと。




