束の間の平穏
アンダルは、自分の畑の手入れを終えると、腰を伸ばし、ゆっくりと港へ向かって歩き出した。
日が高くなる前に畑を終わらせるのは、最近の習慣だった。
ゲリラの訓練所が建てられるかもしれない――その話を聞いてから、まだひと月も経っていない。
それなのに、自分の暮らしは、まるで別の流れに巻き込まれたかのように変わってしまった。
畑の手入れは、必要最低限。
土の状態を見て、水をやり、枯れかけた葉を落とす程度だ。
以前なら、半日かけて土を掘り返し、肥料の具合を確かめていたのに、今はどうしても手が止まってしまう。
残りの時間は、ディオたちとの相談、農民からの相談、そして苦情を聞くことに費やされていた。
昨日は、チャンドラが家を訪ねてきた。
「……正直に言っていいか」
そう前置きしてから、娘のローサの話をした。
最近、訓練や罠づくりにかかりきりで、家の仕事をほとんどしなくなったという。
もともと、ローサは畑仕事が好きな子ではなかった。
やれと言われればやるが、心は別のところにある――そんな子だった。
だが、この状況になってからは、
「やらない」に近い状態らしい。
アンダルは、その話を聞きながら、ローサの顔を思い浮かべていた。
(農業は……刺激がないと思っているのだろうな)
毎日同じ畑、同じ作物、同じ作業。
進歩が目に見えにくい。
だが、アンダル自身は違った。
新しい作物を試し、土を工夫し、水の流れを変え、失敗し、また挑む。
その過程は、決して退屈ではなかった。
(今度、見せてやるか……)
自分のココナッツ畑。
そして、試験的に植えたカカオやコーヒー。
換金率の高い作物が、この島でも育つ可能性がある。
トニーが政府からの支援を引き出そうと、必死に動いてくれたことを思い出し、アンダルは胸の奥が熱くなった。
(あの人には……本当に感謝している)
集会所に着くと、いつもの顔ぶれがすでに集まっていた。
椅子は円を描くように置かれ、誰かが主導する会議というより、近況報告と意見交換の場だった。
今日は定期船が来る日だった。
これまで滞在していた観光客が島を離れ、新しい観光客がやって来た。
グリフから報告のあった日本人の女性も、その定期船で帰っていった。
「……大丈夫そうか」
アンダルがそう聞くと、グリフはうなずいた。
「今のところ、騒ぎにはなっていません。
連絡先も交換しましたし……
関係は切れていません」
「切れていない」という言い方が、どこか引っかかったが、アンダルはそれ以上は聞かなかった。
島の外で、何かを話し始められたら困る。
とにかく、この件が完全に落ち着くまでは、静かにしていてもらいたかった。
トニーが言っていた、ゲリラの調査団と思われる人物たちも、数日前に島を出て行った。
定期船を待たず、ホテルの高速艇で州都のある島へ戻ったらしい。
「……たぶん、もう来ない」
トニーはそう判断しているようだった。
実際、彼は少しずつ校長としての職務に戻り、以前のような日常を取り戻しつつあった。
他のメンバーも、トニーの報告を聞いて、肩の力が抜けた様子だった。
(このまま……何事もなく終わるのか)
そんな空気が、島全体に広がり始めていた。
***
翌日、畑で作業をしていると、ベニがやってきた。
昔ながらの方法で、イモやキャッサバを育てている男。
島一番の農家で、小作人も何人か抱えている。
「よう」
気さくな調子だった。
天候の話、作物の出来の話――当たり障りのない会話のあと、ベニは少し声を落とした。
「……正直、苦情が多い」
ゲリラへの対応を、島全体で進めていることへの不満だった。
男たちが訓練に参加し、畑に出ない。
その分、年寄りや女房たちの負担が増えている。
さらに、道に仕掛けられた罠。
迂回路はあるが、不便で、危険でもある。
「漁師は海に出てるからな。
正直、割りを食ってるのは農民だ」
ベニは、そうはっきり言った。
アンダルが推進役だと知っているからこそ、皆、直接は言えず、ベニのところに話が集まるのだという。
「最初は我慢してた。
だが……もう1か月だ」
ベニの言葉は重かった。
アンダルは、発電所の計画、政府からの農業支援、これから島が豊かになる可能性を語った。
「今だけだ。
今を越えれば――」
そう言いかけて、ベニの表情を見て、言葉を止めた。
曇ったままだった。
計画が本当に実現するのか。
新しい作物が、自分の畑で育つのか。
失敗したらどうなるのか。
そして、昔ながらの暮らしが変わることへの不安。
それらが、一つ一つ積み重なっているのが分かった。
「だからよ……」
ベニは静かに言った。
「訓練の時間を短くするとか、生活に必要な道の罠は外すとか……
そういう現実的なところから、頼めないか」
アンダルは、すぐに答えられなかった。
島全体で、ゲリラに備えようとしている最中に、水を差す話だ。
だが、無視できる話でもなかった。
「……ここでは決められない。
だが、ディオには話す」
そう約束した。
ベニは、深くは追及せず、うなずいて帰っていった。
*
1人になった畑で、アンダルはしばらく立ち尽くした。
夜の会議で、自分から話題を出す。
――初めてかもしれない。
そう思うと、胸の奥が、少し重くなった。
*
集会所の空気は、いつもより重かった。会議が始まっている。
誰かが強く声を荒らげているわけではない。
だが、言葉の端々に、微妙な棘が混じり始めているのを、アンダルは感じていた。
話題は、自分が持ち込んだものだった。
訓練の縮小。
罠の一部撤去。
それが、ただの「弱音」や「わがまま」ではないことは、アンダル自身が一番よく分かっていた。
グリフは、黙って話を聞きながら考えていた。
(……本当に困っているんだろうな)
アンダルの言葉には、取り繕った感じがなかった。
農民の苦情を、単に代弁しているのではない。
自分自身の中で、何度も咀嚼したうえで持ってきた話だと分かる。
だが――その「程度」はどうなのか。
トニーの分析では、ゲリラがルンザットに進出する可能性は、かなり下がった。
だが、ゼロではない。
もし、ここで備えを緩め、万一、攻撃があったら。
(そのときの被害は……今より確実に大きくなる)
グリフが口を挟む前に、ファジャルがはっきりと言った。
「俺は、今の体制を維持すべきだと思う」
漁師らしい、歯切れのいい言い方だった。
「農民にとって不便なのは分かる。
だが、我慢できないほどじゃないだろう」
その瞬間、アンダルの中で、何かが引っかかった。
彼は、しばらく黙っていた。
この話を持ち込んだ張本人として、できるだけ感情的にならないようにしていた。
だが――
「漁民にとっては」
その前提で語られた言葉に、黙っていられなくなった。
「……それは、漁民の感覚だ」
アンダルは、静かに、しかしはっきりと言った。
「農民は、これまでも漁民より我慢してきた。
そうじゃないという見方もあるだろうが、少なくとも、農民自身はそう思っている」
場の空気が、ぴり、と張り詰める。
「この件で、何も改善されなければ、農民の心は離れるかもしれない」
ファジャルが何か言い返そうとしたが、アンダルは続けた。
「島民の間で割れれば、それはゲリラのつけ入る隙になる」
グリフは、思わずうなずきそうになるのをこらえた。
(……そこだ)
調査団は帰った。
そう「見えている」だけかもしれない。
「まだ、島の様子を探っている人間がいないとは言い切れない」
その言葉に、何人かが視線を伏せた。
ヘルマンが、腕を組んだまま言った。
「……農民は、そこまで考えないんじゃないか」
彼の声は落ち着いていた。
「俺も農民出身だ。
農民は、我慢強い。
あと数か月のことだ。
今のままでも、なんとかなる」
アンダルは、すぐに首を振った。
「それは……少し甘い」
ヘルマンが眉を上げる。
「漁民は、仕事柄、状況に合わせて考えを変えることに慣れている」
海に出れば、天候も、魚の動きも、毎日違う。
「だが、農耕は違う。
一度決めたことを、変えないほうが良い結果を生むことが多い」
だからこそ――
「農民が一度へそを曲げたら、長い。
そして、自分たちは漁民より損をしていると思っている者が多い」
アンダルは、はっきりと言った。
「農民の主張は、この島では通らない。
そう思い込むのは、避けるべきだ」
しばらく、沈黙が落ちた。
ディオが、重い口を開いた。
「……なら、また全体集会を開くか」
全員の視線が、彼に向く。
「最初にゲリラ対策を始めるときも、集会で決めた。
変えるときも、集会で決めるべきだ」
その瞬間、トニーとグリフが、ほぼ同時に言った。
「それはまずい」
ディオが、驚いたように2人を見る。
グリフが、言葉を選びながら続けた。
「最初の集会は、島全体に共通の敵がいた。
だから士気を上げるために有効だった」
「でも今回は、島の中で意見が割れている」
トニーも、低い声で補足した。
「理性的に話し合えるとは限りません。
農民と漁民の亀裂が、表に出てしまう可能性が高い」
「仮に、ゲリラの件が問題なく終わっても、その後の島が、もっと悪くなるかもしれません」
ディオは、少し不機嫌そうに、グリフを見た。
「……では、どうすべきだと思う?」
トニーとは、目を合わせなかった。
グリフは、一瞬だけ考え、そして言った。
「ここは……
親父が村長として、そして部族長として、判断するところだろう」
場の空気が、静まる。
「どんな結論を出しても、どちらかには不満が残る。
だが……
島民同士で敵対するよりは、ずっといい」
「親父が、嫌われ役になる」
ディオは、しばらく黙っていたが、やがて、ふっと笑った。
「そうか……わかった」
そして、ゆっくりと言った。
「農民の不満は、『いつまで続くか分からない』ことだろう」
「だが、ゲリラが来る可能性がある以上、完全にやめるわけにもいかない」
「だから、こうしよう」
視線が、グリフに集まる。
「グリフ。
お前がホジャン島に行って、様子を探ってこい」
「前に行ったときとの違いが分かるのは、お前しかいない」
「それと……」
今度は、トニーを見た。
「政府からの情報もほしい。
申し訳ないが、グリフを助けてやってくれ」
トニーは、苦笑するしかなかった。
「……承知しました」
グリフが、顔をしかめる。
「え、親父。
それじゃ、事実上、俺が判断することにならないか?」
「なんか……嫌だな」
ディオは、肩をすくめた。
「じゃあ、全体集会を開くか?」
「俺は、一時的に雰囲気が悪くなっても、困りごとは皆で考えるべきだと思ってる」
グリフは、すぐに首を振った。
「いや……今やるのはリスクが大きい」
少し間を置いて、言葉を選んだ。
「……わかった。
明日、ホジャンに行く」
「要求が出て、すぐ動いている姿勢を見せれば、農民の不満も、多少は和らぐはずです」
アンダルの方を見て、言った。
「……そうですよね、アンダルさん」
アンダルは、ゆっくりとうなずいた。
「確かに。
それなら、ベニにも説明しやすい」
そう答えながら、心の中では、別のことを考えていた。
(……明日、どう話すか)
納得してくれそうな気もする。
だが、何を言っても、反論されそうな気もした。
アンダルは、夜の集会所を出ながら、その答えを、まだ見つけられずにいた。
***
ホジャン島に着いたとき、グリフはまず港の空気を確かめるように深く息を吸った。
潮の匂い。
魚をさばく音。
子どもが走り回る声。
表面上は、前回と何も変わっていない。
(……変わっていない、ように見える)
それが逆に不気味でもあった。
もし本当に摘発が迫っているのなら、どこかに緊張の匂いがあるはずだ。
だが、港では相変わらず、観光客向けの小舟が客引きをし、土産物屋が開き、昼間から酒を飲む男たちが笑っている。
グリフは前回と同じように、「日本のツアー会社の下見担当」という顔を作った。
観光地としての可能性を探る男。
ゲリラには関係のない、無害な存在。
前回、話を聞いた男を見つけるのに、そう時間はかからなかった。
港近くの食堂の裏。
薄暗い日陰で、煙草をくゆらせている。
「久しぶりだな」
男は、にやりと笑った。
「また日本の客か?」
「いや、今回は少し事情が違う」
グリフは、わざと困ったような顔をした。
「日本の会社には、ここを『魅力的な穴場』として報告はした。
だが……どうもゲリラの噂を聞きつけたらしくてな」
男は煙を吐き出す。
「慎重になっている?」
「そうだ。今回は、より詳しく状況を調べてこいと言われた。
なんでもいい。
材料が欲しい」
言いながら、グリフはさりげなく封筒を差し出した。
男は中身を確認し、軽く口角を上げた。
「悪くない」
そして、声を少し落とした。
「幹部は、もういない」
「……いない?」
「少なくとも、ここにはな」
男は顎で市場のほうを示した。
「前はよく売れていた高級食材が、最近は余ってる。
幹部連中が食ってたやつだ」
グリフは黙って聞いた。
「政府の一部と、ゲリラが裏でつながってるのは確実だ。
摘発は……向こうの準備が整ってからだろうな」
「準備?」
「逃げる準備だ」
男は笑った。
「体格のいい『観光客』が、定期船で出ていくのを見たことないか?
妙に鍛えたやつらだ」
グリフは、思い出すようにうなずいた。
「いま残ってるのは、訓練歴の浅い連中だろう。
捨て駒だな」
「政府も、空振りじゃメンツが立たん。
だから、ある程度は『成果』が必要だ」
男は肩をすくめた。
「数週間以内に入るかもしれん。
抵抗も形だけだろう。
新聞も大きくは扱わん」
少し間を置いて、男は続けた。
「観光への影響は少ない。
半年もすれば、誰も何も言わなくなる」
「観光ツアーなら、むしろ、今から企画を立て始めるくらいでちょうどいい」
男の目には、希望が混じっていた。
グリフは、それが事実と希望のどちらから来ているのかを見極めようとした。
(……全部を信じるわけにはいかない)
だが。
幹部が移動している。
体格のいい男が定期船で出ていく。
それらは、筋が通っている。
グリフは、ほっとした顔を作った。
「助かった。これで企画を通せる」
「お前とは、気が合いそうだ」
男は笑った。
***
ルンザットに戻った夜、グリフはすぐにトニーのもとへ向かった。
「ホジャンは、空洞化している可能性が高い」
グリフの報告を、トニーは静かに聞いた。
「政府側の情報は?」
トニーは少し考え、低く言った。
「……摘発は、ホジャンだけ先行する可能性が高い」
アリから聞いていた当初の計画では、フィリピンと連携し、主要拠点を一斉に摘発するはずだった。
だが。
「この国で、秘密裏に一斉協力を行うのは難しい」
トニーは苦い顔をした。
「結局、担当部署ごとの判断に任されたようだ」
「それじゃ、弱体化には……」
グリフは言いかけて止めた。
「つながらないかもしれないな」
トニーが淡々と答えた。
「だが、それが現実だ」
グリフは、しばらく黙っていた。
(ホジャンの幹部が移動しているなら……)
(少なくとも、ルンザットに来る可能性は、かなり低い)
翌日の会議で、グリフはその見立てを報告した。
「ホジャンのゲリラは、すでに移動を開始している可能性が高い。
それがルンザットでない以上、この島に来る確率は、かなり下がったと思う」
ディオが、腕を組んで言った。
「……それで、どうするのが良いと思う?」
グリフは、少し息を吸い込んだ。
「ひとまず、生活の障害になっている罠は撤去してもいいと思う」
「訓練への参加も、強制ではなく……」
グリフはそっと目を伏せた。
「それぞれの判断に任せてもいい」
場に、安堵と不安が入り混じる。
ディオは、ゆっくりとうなずいた。
「わかった」
翌日、その方針は島民に伝えられた。
罠は順次撤去され、見張りも縮小された。
訓練に参加する者は減り、畑に戻る男たちが増えた。
島は、少しずつ、以前の生活へと戻り始めた。
***
18日後。
ディオの魚の加工場で、グリフは黙々と作業していた。
ラジオが流れている。
「……本日未明、政府軍はホジャン島にあるゲリラ訓練所を摘発しました」
手が止まる。
「逮捕者は100名を超え……」
「協力者として、その倍以上の島民が拘束された模様です」
加工場の中が、静まり返った。
誰かが小さくつぶやいた。
「百……?」
グリフは、包丁を握ったまま、動けなかった。
(捨て駒……)
男の言葉が、よみがえる。
幹部は移動。
残ったのは訓練歴の浅い者たち。
ラジオは続ける。
「摘発は今後も継続される見込みです」
外では、何事もないように、海風が吹いていた。
グリフは、ゆっくりと息を吐いた。
ルンザットは、外れた。
狙い通りだ。
だが――
100人。
そして、その倍の島民。
(これで、本当に終わったのか……?)
包丁の刃先が、わずかに震えていた。




