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二つの視線

 結局、久美子はホテルのツアーには参加しなかった。

「明日は天候が不安定です。遠出はおすすめできません」

 そう説明されたからだ。

 久美子は少し考えた。

 ――明日は駄目。

 ということは。

「今日はまだ行けるってことよね」

 そう勝手に解釈した。

 ホテルで小型のボートを借り、操縦できる男も1人つけてもらった。

 若い男だったが、ひどく無口だった。

「名前は?」

 久美子が聞くと、男は短く名乗った。

 それで終わり。

「……無口ね」

 返事はない。

「まあ、いいけど」

 久美子は気にしなかった。

 写真を撮るとき、隣で延々しゃべられるよりよほどいい。

 ボートが港を離れる。

 久美子は海面を眺めながら、潮の流れと光の向きを確認した。

「もう少し北へ行って」

 男が無言で舵を切る。

「あの岩の裏も見たい」

 また、黙って進路を変えた。

「話はしないけど、仕事は早いのね」

 男がちらりと久美子を見る。

「褒めてるのよ」

 わずかに口元が動いた。

 しばらく進み、入り江へ差しかかったときだった。

「ん?」

 久美子が身を乗り出した。

 岩礁の陰。

 木々が海へせり出している場所に、不自然な動きが見えた。

 最初は、害獣駆除をしているのだと思った。

 久美子は双眼鏡を手に取る。

「……違う」

 若い男たちがいた。

 数人。

 一定の間隔を保ちながら森の中を移動している。

 1人が手を上げた。

 全員が止まる。

 別の合図。

 今度は左右へ散り、岩陰や木の後ろへ身を隠した。

 久美子の表情から笑みが消えた。

 ――これ、昨日の演目じゃない。

 観光客に見せる動きとはまるで違った。

 派手さはない。

 むしろ地味だ。

 だが、だからこそ本物に見えた。

 見せるための動きではない。

 使うための動きだった。

「なるほどね……」

 久美子は無意識にカメラを構えていた。

 望遠レンズ越しに見る。

 汗。

 息を殺す仕草。

 合図を待つ目。

 走る前に重心を落とす動き。

「ずいぶん本格的じゃない」

 シャッターに指を置く。

 これを撮れば、写真としては面白い。

 場合によっては、日本へ持ち帰って仕事にできるかもしれない。

 そのとき。

 ボートのエンジン音が、わずかに落ちた。

 操縦していた男が、前を向いたまま言った。

「……ここは潮が変わりやすいです」

 久美子は男を見る。

「そう」

 明らかに潮の話ではなかった。

 ――撮るなってことね。

 久美子はもう一度、ファインダーの向こうを見る。

 写真は欲しい。

 だが。

 撮れば、何かが変わる。

 少なくとも、この無口な男が困ることは間違いない。

「……分かった」

 久美子はカメラを下ろした。

「戻りましょう」

 男は何も言わなかった。

 だが、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。

「分かりやすいわね、あなた」

 今度も返事はなかった。


***


 その夜。

 久美子はコテージのテラスで海を眺めていた。

 昼間の光景が、まだ頭の中に残っている。

 見張り台。

 昨日の演目。

 子どもたちのスリングショット。

 森の中で動く若者たち。

「……どう考えても、ただの海賊対策じゃないわよね」

 独り言を呟いたときだった。

 足音が近づいてきた。

「こんばんは」

 久美子は振り返った。

「やっぱり来た」

 グリフだった。

 彼が少し眉を上げる。

「来ると思ってたんですか?」

「まあね」

 久美子は椅子の背にもたれた。

「昼間、海に出ていましたね」

 問いかけというより、確認だった。

「ええ。昨日の撮れ高が足りなかったから」

「ホテルのツアーではなく?」

「ツアーは安全すぎるのよ」

「安全なのはいいことです」

「写真家には必ずしもね」

 久美子は笑った。

 グリフは笑わなかった。

「島の奥の方は、あまり安全じゃないんです」

「害獣?」

 グリフは一瞬黙る。

「……そういうことにしておきましょう」

「やっぱりね」

 久美子はあっさり答えた。

 グリフが少し意外そうな顔をする。

「驚かないんですか?」

「昨日から材料は揃ってるもの」

 久美子は指先でテーブルを軽く叩いた。

「見張り台。猟銃。妙に強いホテルスタッフ。子どもの射撃。そして今日のあれ」

「……見たんですね」

「見た」

 久美子はグリフの顔を覗き込んだ。

「祭りの練習?」

 グリフが小さく笑った。

「そう言えたら楽なんですが」

「でしょうね」

 久美子も笑う。

「島を守るための準備です」

「その言い方」

「何です?」

「だいたい危ないことをやってる人が使うやつよ」

 グリフは否定しなかった。

「まあ、詳しく聞いても教えてくれないんでしょ?」

「できれば、聞かないでください」

「了解」

 あまりにもあっさりした返事に、グリフが目を瞬いた。

「いいんですか?」

「いいわよ。私、記者じゃないもの」

 久美子は肩をすくめた。

「面白い写真は撮りたい。でも、誰かを困らせてまで暴きたいわけじゃない」

「ありがとうございます」

「ただし」

 久美子が人差し指を立てる。

「撮りたいものまで全部禁止されたら困る」

 グリフが少し笑った。

「分かりました」

「で?」

「モデルもやります」

 久美子の顔が明るくなる。

「本当?」

「はい」

「それ、先に言ってよ」

「その代わり、条件があります」

「はいはい」

「1人で動かないでください」

 久美子は笑った。

「それ、言われると思った」

「僕と一緒に行動するか、ホテルの正式なツアーを使う」

「監視付き?」

「安全管理です」

「言い方を変えただけじゃない?」

「半分くらいは」

 久美子は少し考えるふりをした。

「それって、私を守るため?」

「半分は」

「もう半分は?」

「島を守るためです」

 グリフの返事は正直だった。

 久美子はしばらく彼を見てから、うなずいた。

「いいわ。約束する」

「ありがとうございます」

「でも、私も撮りたいものは撮るからね」

「危険じゃない範囲なら」

「交渉成立」

 久美子は手を差し出した。

 グリフも笑って握り返した。

「じゃあ明日は、ちゃんとモデルやってよ」

「善処します」

「役人みたいな言い方しないで」


***


 翌朝。

 久美子はホテルの朝食会場で、コーヒーを飲んでいた。

 何気なく周囲を見ていて、1人の男が目に入った。

「……ん?」

 見覚えがない。

 それ自体は珍しくない。

 だが、何か引っかかった。

 日焼けしていない。

 ダイバーにしては身体が固い。

 服は観光客らしいが、周囲を見る目が妙に落ち着いている。

 久美子はカップを口元へ運びながら、男を観察した。

 ――この人、景色を見てない。

 普通の観光客なら海を見る。

 料理を見る。

 他の客を眺める。

 だが、その男が見ているのは違った。

 ホテルスタッフの動き。

 客の出入り。

 港へ続く道。

 誰が誰と話しているか。

「……なるほど」

 久美子はコーヒーを一口飲んだ。

 昨日見た、森の中の若者たちを思い出す。

 男と目が合った。

 一瞬だけ。

 向こうは、にこやかに微笑んだ。

 久美子も笑い返す。

 そして、すぐに視線を外した。

 ――調べてるのは、こっちだけじゃないのね。

 妙に納得した。

 そのとき、背後から日本語が聞こえた。

「久美子さん」

 振り向く。

 グリフが立っていた。

「今日は、どこへ行きますか?」

 久美子はすぐには答えなかった。

 さっきの男へ、ほんの一瞬だけ目を向ける。

 まだこちらを見ている。

「今日はね」

 久美子は立ち上がった。

「あなたのおすすめに任せる」

 グリフが少し意外そうな顔をした。

「いいんですか?」

「いいの」

 久美子はカメラバッグを肩に掛けた。

「こう見えて、危ない橋を渡るときは、案内人を選ぶくらいの頭はあるのよ」

 グリフが笑った。

「それは助かります」

「その代わり」

「はい?」

「ちゃんと撮らせてよ。昨日の約束」

「忘れてません」

「ならよし」

 2人は並んで朝食会場を出ていった。

 久美子は振り返らなかった。

 その必要はなかった。

 誰かが自分たちの背中を見ている。

 それくらいは、もう分かっていた。

 それでも不思議と怖くはなかった。

 隣には、この島でいちばん事情を知っていそうな案内人がいる。

「ねえ、グリフ君」

「何ですか?」

「今日はちゃんと、売れる写真を撮らせてね」

「そこですか?」

「そこよ」

 久美子は笑った。

 ルンザット島で何が起きようとしているのか。

 結局、最後まで詳しいことは知らなかった。

 ただ、この島が見た目ほどのんびりした場所ではないこと。

 そして、ここに暮らす人たちが、自分たちなりに何かを守ろうとしていること。

 それだけは、十分に分かった。

 久美子はカメラを抱え直し、グリフとともに朝の光の中へ歩いていった。


***


 トニーは、グリフと日本人の女性がロビーを出ていくのを眺めていた。

 2人の姿が見えなくなると、今度は久美子が先ほどまで気にしていた男へ視線を移す。

 ――案外、分かりやすいな。

 映画に出てくる諜報員のような、洗練された男が来るとは思っていなかった。

 それにしても、素人の自分にまで怪しまれるとは。

 男は朝食を食べるでもなく、先ほどからホテルの中をよく見ていた。

 スタッフの動き。

 客の出入り。

 港へ向かう道。

 時折、窓の外へ目をやり、何かを確認している。

 そこへ、もう1人の男が近づいてきた。

 軽く言葉を交わし、向かいの席に座る。

 コーヒーを追加すると、2人は声を潜めて話し始めた。

 トニーは眼鏡を直しながら、その様子を眺めた。

 観光へ出る気配はない。

 海を楽しんでいるようにも見えない。

 ――やはり、あの2人か。

 おそらく調査を専門にしている者ではない。

 ゲリラ側も時間がなく、訓練所の戦闘員あたりを急遽こちらへ回したのではないか。

 そう考えていると、横から小さな声がした。

「あいつらか?」

 振り向くと、ホテルの給仕服を着たヘルマンが立っていた。

 トニーは一瞬、その姿を見上げた。

「……似合わんな」

「ほっとけ」

 ヘルマンは盆を片手に持ったまま、2人の男へ視線を向ける。

「どう思う?」

「怪しいことは怪しい」

 トニーは声を落とした。

「ただ、分かりやすすぎる」

「別に本物がいる?」

「その可能性も考えておいた方がいい」

 ヘルマンがわずかに眉を寄せる。

「だが、本当にあの2人だけなら?」

「ゲリラ側にも、まともな調査員を揃える余裕がないということだろうな」

 トニーはコーヒーを一口飲んだ。

「拠点を急いで分散するなら、候補になった島を同時に調べなければならない」

「ああ」

「優秀な人間を全部の島へ送ることはできん」

 ヘルマンが男たちを見た。

「つまり、ルンザットにはあの程度で十分だと思われた」

「可能性はある」

「重要視されていないってことか」

 トニーは小さくうなずいた。

「だとすれば、悪い話じゃない」

「むしろ歓迎だな」

「ああ」

 ヘルマンの口元に笑みが浮かぶ。

「見せたいものは、だいたい見せた」

 トニーも同意した。

 見張り台。

 自警団らしき若者たち。

 政府との関係が良好であることを示す材料。

 そして、簡単には脅しに屈しない島民たち。

 どこまで相手が信じたかは分からない。

 だが少なくとも、「楽に入り込める島」には見えていないはずだ。

「じゃあ、もう少し見せてくる」

 ヘルマンが盆を持ち直した。

「やりすぎるなよ」

「俺を誰だと思ってる」

「だから心配なんだ」

 ヘルマンが鼻を鳴らし、その場を離れた。

 何食わぬ顔で2人の男のテーブルへ近づく。

「コーヒーのお代わりはいかがですか?」

 先ほどまでとはまるで違う、愛想のいい声だった。

 トニーは危うく笑いそうになった。

 男の1人が、窓の外を指しながら何か尋ねた。

 ちょうどそのとき、遠くから乾いた破裂音が響いた。

 男たちが顔を上げる。

 ヘルマンは待っていたように答えた。

「いえいえ。あれは害獣が出ているので、駆除している音ですよ」

 トニーはコーヒーカップで口元を隠した。

 ――よく言う。

 この島に銃などない。

 少なくとも、あんな音を出せる銃を持っている者はいない。

 ときどき森の方角から聞こえてくる乾いた音は、おそらくファジャルあたりが鳴らしているものだ。

 銃声に似せた爆竹か何かだろう。

 男たちはヘルマンの説明を聞きながら、また窓の外へ目を向けた。

 ――これも見せたかったものの一つか。

 銃を持つ住民がいる。

 しかも、それが特別なことではない。

 そう思ってくれれば十分だった。

 トニーは改めてロビーを見回した。

 新聞を読む男。

 朝食を楽しむ夫婦。

 海へ出る準備をしている若者。

 何人かを注意深く観察したが、ほかに不自然な動きをする者は見当たらない。

 それでも、気は抜けなかった。

 ――本当に分かりやすい2人だけなら、ありがたいんだがな。

 トニーは眼鏡の位置を直した。

 向こうがこちらを調べているように、こちらも向こうを見ている。

 ルンザットを候補から外すための静かな駆け引きは、すでに始まっていた。


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