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零番の司書 ―記録図書館の怪異譚―  作者: ネメセイア
第一章 欠けた階と記録される人々

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9/11

八話 消えた避難経路

避難経路図から、階段が一本、消えていた。


 図書館に届いた報告書には、古い集合住宅の妙な出来事が記されていた。二階と三階の間にあるはずの階段が、図上から抜けている。ところが、実際に行けば、階段は存在する。


 その階段を使った人間は、帰り道が分からなくなる。


 膝の傷は、ほとんど塞がっていた。それでも階段の話を読むと、左足の古い痛みが、少しだけ戻ってくる気がした。


「道に迷う怪異か」


「それだけなら、これほど報告は集まりません」


 諳は、報告書の一部を指で押さえた。


「帰宅できなかった人のうち、何人かは、建物の入口まで戻っています。自分の家だと分かっているのに、そこから先へ進めなかったそうです」


「家の前にいるのに」


「はい。被害者は三人。一人は、まだ帰っていません」


「行こう」


「まず、図面を確定させます。階段は、使わないでください」


「使わないと、分からないだろ」


「正確な経路図があれば、誰も迷いません」


 諳は、そう言い切った。


 俺は、何も言わなかった。


     *


 南町の旧市営住宅は、四階建てが三棟、敷地を囲んで並んでいた。


 入口の掲示ケースの避難経路図を見て、すぐに分かった。二階と三階の間の階段室が、壁の線で閉じられている。避難口までの通路の長さが、図の中で合っていない。


 管理人は、疲れた顔で設計図を出してきた。


「元の図面にも、載っていなかったそうです。設計図には、ちゃんとあるんですが」


 設計図の階段は、避難のために造られたものだった。


「帰れなくなった三人のうち、最後の人は、まだ戻っていません」


 管理人は、机の上の電話を見た。


「藤崎さん、七十歳くらいの男性です。昨日の夕方、買い物から戻って、階段室へ入るところを、隣の方が見ています」


 事務所の隅に、五十歳くらいの女性が座っていた。藤崎の娘だと、管理人が紹介した。


「父は、道を覚えるのが得意なんです。初めて行く場所でも、帰り道だけは、絶対に間違えない人で」


 娘は、膝の上で鞄を握りしめていた。


「昨日も、大丈夫だと思っていました。少し帰りが遅いだけだろうって」


 諳は、設計図と掲示図を並べて、写真を撮り始めた。


 事務所を出る途中、二階の住人が声をかけてきた。


「藤崎さんなら、見ましたよ。買い物袋を提げて、階段室へ入っていくところを。いつもは真ん中の階段なのに、今日は違う方へ曲がったので、おやっと思ったんです」


「出てくるところは」


「見ていません。夕飯の支度をしていて、気づいたら、もう暗くなっていました」


 俺は、二階の突き当たりに向かった。


 鉄の扉を開けると、薄暗い階段室があった。小さな窓から、隣の棟の壁が見える。手すりには、埃が積もっていた。


 階段の途中に、三十代くらいの女性が立っていた。


「すみません。ここ、何階ですか」


 俺は、答えに詰まった。見れば分かるはずだった。


「二階と三階の間です」


「そうですよね」


 女性は、ほっとしたように頷いた。


「私、三階の三〇四号室なんです。でも、どっちへ行けばいいのか」


「廊下を、右です」


「右って」


 女性は、両手を見比べた。


 俺は、彼女の隣に立って、三階まで一緒に上がった。


 廊下の右へ曲がり、三〇四号室の前で足を止めさせた。


「ここです」


「ああ。ここだ」


 女性は鍵を取り出し、扉を開けた。


「どうして分からなくなったのかしら」


 扉が閉まる前に、女性は俺を振り返った。


「いつもと違う階段を使ったんです。近道になると思って」


「いつもは」


「反対側の階段です。どうして今日だけ、こっちを使ったのか、思い出せません」



     *


 二階の廊下で、諳は修正した経路図を広げていた。


「階段を描き足します。避難口までの通路も、補正します」


「藤崎さんは」


「図面の確定が先です」


「その間に、あの人が」


「正確な図がなければ、誰も誘導できません」


「誘導できる図は、もうあるだろ。設計図が」


「設計図と掲示図の食い違いを残したまま、動くことはできません」


「三人とも、図を持たずに階段を使っています」


 諳は、ペンを止めずに言った。


「正しい図があれば、迷わなかったはずです」


「本当にそうなのか」


「確認します。図が完成してから」



 諳は、顔を上げなかった。


 ペンが、淡々と図の上を動いている。


 俺は、修正前の簡易な図を一枚つかんだ。


「先に行く」


「久遠さん」


「あんたは、図を完成させればいい。俺が先に見てくる」


 返事はなかった。引き止める言葉も、なかった。


     *


 階段を、一段ずつ数えながら上がった。


 踊り場まで十二段。折り返して、さらに十二段。


 手すりの中央に、細い傷があった。塗装が剥がれて、矢印のように見える。


 靴音が、壁に吸われて、返ってこなかった。階段室の空気は冷たく、息の白さまで、上の階から降りてくるようだった。



 三階に出た。右へ曲がる。部屋番号が並んでいる。


 手の中の図と、廊下の部屋番号は、一致していた。


 ここは、三階だ。


 それなのに、どちらへ戻ればいいのか、分からなかった。


 図は読める。部屋番号も読める。だが、今、自分がその図のどこにいるのかが、結びつかない。


 階段室へ戻って、また上がった。


 手すりの傷が、もう一度、同じ形で現れた。


 三階の廊下に出た。さっきと同じ廊下だった。


 俺は手帳を開いて、見たものを書き出した。手すりの傷。踊り場の窓。折り返しの段数。書いた文字は、一つずつ読める。だが、読んだ文字と、いま立っている場所が、指の間から離れていく。


 階段の窓から、隣の棟の壁が見えた。さっきも、同じ壁を見た。同じ高さの、同じ染みだった。


 窓の外の染みが、三度目には、わずかに形を変えていた。同じ壁のはずなのに、同じではなかった。


 三度目に上がったとき、俺は、どこから来たのかを思い出せなくなっていた。


 図面は正確なのに、役に立たなかった。


 踊り場に、人が座り込んでいた。


 背中を壁につけ、両手で膝を抱えている。


「藤崎さんですか」


 老人は、顔を上げた。


「……ここは、どこですか」


 俺は、手の中の図を見せた。


 老人は、図を見つめて、首を振った。


「字は読めます。でも、どこにいるのか、分からないんです」


 俺も、同じだった。


 階段の下で、誰かが叫んだ。


「お父さん!」


 女の声だった。


 老人の肩が、びくりと動いた。


「この声、誰か分かりますか」


「……娘です」


 老人は、ゆっくりと立ち上がった。


「お父さん、そこにいるの!」


 階段室の下から、声が響く。反響して、上から、下から、どちらからも聞こえるようだった。


 それでも、老人は、声のする方へ、一段、足を出した。


 足が、勝手にそちらを選んでいるように見えた。図も、部屋番号も、頼っていなかった。



 俺は、その後ろについた。


 一段ずつ、声を聞きながら下りた。図は、もう見なかった。


 二階の扉を開けると、藤崎の娘が立っていた。


 老人は、扉の前で足を止めた。


 娘が、駆け寄って、その手を握った。


「お父さん」


「……ああ」


 藤崎は、娘の顔を見つめた。


「心配をかけたな」


 娘は、何度も首を横に振った。


 諳が、老人の前にしゃがんだ。


「お名前を、言えますか」


「藤崎、です。藤崎……」


 老人は、自分の名前を、一音ずつ確かめるように言った。


「確認しました」


 諳は、それだけ記録帳に書いた。



     *


 藤崎は、階段室で何が起きたのか、ほとんど覚えていなかった。


「何度も廊下に出たんです。部屋番号を見て、自分の部屋じゃないと分かって、階段に戻って。それを繰り返しているうちに、歩くのが怖くなりました」


 娘は、黙って父親の手を握っていた。


 修正した経路図を持って、諳が階段を下りてきた。


 俺たちは、二階の廊下に立っていた。藤崎は、娘に腕を支えられて、座り込んでいる。


 諳は、藤崎を見て、手の中の図を見た。


「図は、完成しました」


「役に立たなかった」


 俺は、言った。


「図は、藤崎さんにも俺にも読めた。でも、どこにいるのか、分からなかった」


「確認できていませんでした」


 諳は、図をたたんだ。


「階段室内の確認を、先に行うべきでした」


 それ以上、諳は何も言わなかった。


 俺も、言わなかった。


     *


 翌日、修正した経路図は、掲示ケースに貼られた。


 管理人は、階段室の入口に、案内の紙を足してくれた。手すりの傷も、踊り場の窓も、地図に描き込まれている。


「これで、大丈夫でしょうか」


「分かりません」


 諳は答えた。


 図面の裏を確認すると、薄い鉛筆の文字が残っていた。


 ――帰り道を知っていることと、帰れることは違う。


 誰が書いたのか、分からなかった。


 諳は、その文を記録帳に写した。


「出所不明と書きます」


「それで、いいのか」


「書かれていたことは、事実ですから」


 諳は、報告書を閉じた。


 帰り際、藤崎の娘が、深く頭を下げた。


「ありがとうございました。父を、見つけてくださって」


 俺は、何か言おうとして、やめた。見つけたのは、俺ではなかった。声だった。


 収蔵棚へ運んでいく諳の背中を、俺は、しばらく見ていた。


 その夜、手帳を開くと、階段で書いた文字が、全部、読めなかった。


 読めないのではない。文字は、一つずつ、ちゃんと読める。ただ、その文字が指す場所が、どこにも結びつかなかった。


 ページの端に、一行だけ、新しく書き足した。


 ――声のほうへ。


 階段の下で聞こえた声を、思い出していた。


 あれは、図面に描かれていなかった。

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