八話 消えた避難経路
避難経路図から、階段が一本、消えていた。
図書館に届いた報告書には、古い集合住宅の妙な出来事が記されていた。二階と三階の間にあるはずの階段が、図上から抜けている。ところが、実際に行けば、階段は存在する。
その階段を使った人間は、帰り道が分からなくなる。
膝の傷は、ほとんど塞がっていた。それでも階段の話を読むと、左足の古い痛みが、少しだけ戻ってくる気がした。
「道に迷う怪異か」
「それだけなら、これほど報告は集まりません」
諳は、報告書の一部を指で押さえた。
「帰宅できなかった人のうち、何人かは、建物の入口まで戻っています。自分の家だと分かっているのに、そこから先へ進めなかったそうです」
「家の前にいるのに」
「はい。被害者は三人。一人は、まだ帰っていません」
「行こう」
「まず、図面を確定させます。階段は、使わないでください」
「使わないと、分からないだろ」
「正確な経路図があれば、誰も迷いません」
諳は、そう言い切った。
俺は、何も言わなかった。
*
南町の旧市営住宅は、四階建てが三棟、敷地を囲んで並んでいた。
入口の掲示ケースの避難経路図を見て、すぐに分かった。二階と三階の間の階段室が、壁の線で閉じられている。避難口までの通路の長さが、図の中で合っていない。
管理人は、疲れた顔で設計図を出してきた。
「元の図面にも、載っていなかったそうです。設計図には、ちゃんとあるんですが」
設計図の階段は、避難のために造られたものだった。
「帰れなくなった三人のうち、最後の人は、まだ戻っていません」
管理人は、机の上の電話を見た。
「藤崎さん、七十歳くらいの男性です。昨日の夕方、買い物から戻って、階段室へ入るところを、隣の方が見ています」
事務所の隅に、五十歳くらいの女性が座っていた。藤崎の娘だと、管理人が紹介した。
「父は、道を覚えるのが得意なんです。初めて行く場所でも、帰り道だけは、絶対に間違えない人で」
娘は、膝の上で鞄を握りしめていた。
「昨日も、大丈夫だと思っていました。少し帰りが遅いだけだろうって」
諳は、設計図と掲示図を並べて、写真を撮り始めた。
事務所を出る途中、二階の住人が声をかけてきた。
「藤崎さんなら、見ましたよ。買い物袋を提げて、階段室へ入っていくところを。いつもは真ん中の階段なのに、今日は違う方へ曲がったので、おやっと思ったんです」
「出てくるところは」
「見ていません。夕飯の支度をしていて、気づいたら、もう暗くなっていました」
俺は、二階の突き当たりに向かった。
鉄の扉を開けると、薄暗い階段室があった。小さな窓から、隣の棟の壁が見える。手すりには、埃が積もっていた。
階段の途中に、三十代くらいの女性が立っていた。
「すみません。ここ、何階ですか」
俺は、答えに詰まった。見れば分かるはずだった。
「二階と三階の間です」
「そうですよね」
女性は、ほっとしたように頷いた。
「私、三階の三〇四号室なんです。でも、どっちへ行けばいいのか」
「廊下を、右です」
「右って」
女性は、両手を見比べた。
俺は、彼女の隣に立って、三階まで一緒に上がった。
廊下の右へ曲がり、三〇四号室の前で足を止めさせた。
「ここです」
「ああ。ここだ」
女性は鍵を取り出し、扉を開けた。
「どうして分からなくなったのかしら」
扉が閉まる前に、女性は俺を振り返った。
「いつもと違う階段を使ったんです。近道になると思って」
「いつもは」
「反対側の階段です。どうして今日だけ、こっちを使ったのか、思い出せません」
*
二階の廊下で、諳は修正した経路図を広げていた。
「階段を描き足します。避難口までの通路も、補正します」
「藤崎さんは」
「図面の確定が先です」
「その間に、あの人が」
「正確な図がなければ、誰も誘導できません」
「誘導できる図は、もうあるだろ。設計図が」
「設計図と掲示図の食い違いを残したまま、動くことはできません」
「三人とも、図を持たずに階段を使っています」
諳は、ペンを止めずに言った。
「正しい図があれば、迷わなかったはずです」
「本当にそうなのか」
「確認します。図が完成してから」
諳は、顔を上げなかった。
ペンが、淡々と図の上を動いている。
俺は、修正前の簡易な図を一枚つかんだ。
「先に行く」
「久遠さん」
「あんたは、図を完成させればいい。俺が先に見てくる」
返事はなかった。引き止める言葉も、なかった。
*
階段を、一段ずつ数えながら上がった。
踊り場まで十二段。折り返して、さらに十二段。
手すりの中央に、細い傷があった。塗装が剥がれて、矢印のように見える。
靴音が、壁に吸われて、返ってこなかった。階段室の空気は冷たく、息の白さまで、上の階から降りてくるようだった。
三階に出た。右へ曲がる。部屋番号が並んでいる。
手の中の図と、廊下の部屋番号は、一致していた。
ここは、三階だ。
それなのに、どちらへ戻ればいいのか、分からなかった。
図は読める。部屋番号も読める。だが、今、自分がその図のどこにいるのかが、結びつかない。
階段室へ戻って、また上がった。
手すりの傷が、もう一度、同じ形で現れた。
三階の廊下に出た。さっきと同じ廊下だった。
俺は手帳を開いて、見たものを書き出した。手すりの傷。踊り場の窓。折り返しの段数。書いた文字は、一つずつ読める。だが、読んだ文字と、いま立っている場所が、指の間から離れていく。
階段の窓から、隣の棟の壁が見えた。さっきも、同じ壁を見た。同じ高さの、同じ染みだった。
窓の外の染みが、三度目には、わずかに形を変えていた。同じ壁のはずなのに、同じではなかった。
三度目に上がったとき、俺は、どこから来たのかを思い出せなくなっていた。
図面は正確なのに、役に立たなかった。
踊り場に、人が座り込んでいた。
背中を壁につけ、両手で膝を抱えている。
「藤崎さんですか」
老人は、顔を上げた。
「……ここは、どこですか」
俺は、手の中の図を見せた。
老人は、図を見つめて、首を振った。
「字は読めます。でも、どこにいるのか、分からないんです」
俺も、同じだった。
階段の下で、誰かが叫んだ。
「お父さん!」
女の声だった。
老人の肩が、びくりと動いた。
「この声、誰か分かりますか」
「……娘です」
老人は、ゆっくりと立ち上がった。
「お父さん、そこにいるの!」
階段室の下から、声が響く。反響して、上から、下から、どちらからも聞こえるようだった。
それでも、老人は、声のする方へ、一段、足を出した。
足が、勝手にそちらを選んでいるように見えた。図も、部屋番号も、頼っていなかった。
俺は、その後ろについた。
一段ずつ、声を聞きながら下りた。図は、もう見なかった。
二階の扉を開けると、藤崎の娘が立っていた。
老人は、扉の前で足を止めた。
娘が、駆け寄って、その手を握った。
「お父さん」
「……ああ」
藤崎は、娘の顔を見つめた。
「心配をかけたな」
娘は、何度も首を横に振った。
諳が、老人の前にしゃがんだ。
「お名前を、言えますか」
「藤崎、です。藤崎……」
老人は、自分の名前を、一音ずつ確かめるように言った。
「確認しました」
諳は、それだけ記録帳に書いた。
*
藤崎は、階段室で何が起きたのか、ほとんど覚えていなかった。
「何度も廊下に出たんです。部屋番号を見て、自分の部屋じゃないと分かって、階段に戻って。それを繰り返しているうちに、歩くのが怖くなりました」
娘は、黙って父親の手を握っていた。
修正した経路図を持って、諳が階段を下りてきた。
俺たちは、二階の廊下に立っていた。藤崎は、娘に腕を支えられて、座り込んでいる。
諳は、藤崎を見て、手の中の図を見た。
「図は、完成しました」
「役に立たなかった」
俺は、言った。
「図は、藤崎さんにも俺にも読めた。でも、どこにいるのか、分からなかった」
「確認できていませんでした」
諳は、図をたたんだ。
「階段室内の確認を、先に行うべきでした」
それ以上、諳は何も言わなかった。
俺も、言わなかった。
*
翌日、修正した経路図は、掲示ケースに貼られた。
管理人は、階段室の入口に、案内の紙を足してくれた。手すりの傷も、踊り場の窓も、地図に描き込まれている。
「これで、大丈夫でしょうか」
「分かりません」
諳は答えた。
図面の裏を確認すると、薄い鉛筆の文字が残っていた。
――帰り道を知っていることと、帰れることは違う。
誰が書いたのか、分からなかった。
諳は、その文を記録帳に写した。
「出所不明と書きます」
「それで、いいのか」
「書かれていたことは、事実ですから」
諳は、報告書を閉じた。
帰り際、藤崎の娘が、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。父を、見つけてくださって」
俺は、何か言おうとして、やめた。見つけたのは、俺ではなかった。声だった。
収蔵棚へ運んでいく諳の背中を、俺は、しばらく見ていた。
その夜、手帳を開くと、階段で書いた文字が、全部、読めなかった。
読めないのではない。文字は、一つずつ、ちゃんと読める。ただ、その文字が指す場所が、どこにも結びつかなかった。
ページの端に、一行だけ、新しく書き足した。
――声のほうへ。
階段の下で聞こえた声を、思い出していた。
あれは、図面に描かれていなかった。
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