七話 返却期限の無い本
その本には、返却期限がなかった。
図書館の貸出台帳をめくると、三人分の署名の横に、返却期限の欄が空白のまま残っている。
膝の傷は、まだ少し疼いた。
「借りた人間は、本の内容を忘れます」
台帳の前で、諳は言った。
「それに加えて、借りた日を過ごしたという実感が、本人から抜け落ちるそうです」
「記憶喪失とは違うのか」
「食事をしたことも、誰かと話したことも、覚えている場合があります。ただ、その日が自分の人生の一部だったと感じられない」
「何だよ、それ」
台帳には、三人の名前があった。二人は返却済み。最後の一人、小野寺美和は、返却されていない。
署名の筆跡は、三つとも別人のものだった。インクの色まで違う。それなのに、署名の位置だけが、ページの同じ高さに揃っていた。
「現物は、小野寺さんが持っています。回収に行きます」
「俺が借りたら、どうなる」
「借りないでください」
諳は、それだけ言って、台帳を閉じた。
*
小野寺美和は、古い商店街の裏のアパートに住んでいた。
二十代後半の女性で、テーブルの上には、濃い灰色の表紙の本が置かれていた。題名も著者名もない。背表紙に管理番号らしいものも見当たらない。
部屋は片づいていた。ただ、カレンダーの木曜日の欄だけが、鉛筆で何度もなぞられて、紙が薄くなっている。
「図書館で借りたはずなんです。でも、場所も、司書の顔も、何も覚えていなくて。台帳に署名があると聞いて、初めて」
小野寺は、本に触れないようにしていた。
「借りたのは、先週の木曜日です。仕事に行ったことも、帰りに買い物をしたことも覚えています。でも、どれも自分が経験したことじゃないみたいで。その日だけ、人生の外側に置かれているような感じがします」
「本の内容は」
諳が尋ねた。
「読んだはずなんです。ページをめくったことも、文字が並んでいたことも覚えています。何が書かれていたのかは、何一つ」
諳は本を開いた。
文字は、ある。目で追うこともできる。
俺も横から覗き込んだ。
一行を読み終えるたびに、意味が指の間から抜けていく。読んだ、という感触だけが残って、読んだ内容は、どこにもなかった。紙は乾いていて、古い糊の匂いがした。
「読めるのに、残らないな」
「はい」
諳は、数ページ目で本を閉じた。
「回収します」
「返したら、その一日は戻るんですか」
小野寺の問いに、諳は少しだけ間を置いた。
「確認できません」
「友人は、返却した後も、戻らなかったそうです」
小野寺は、膝の上で手を組み直した。
「その日、駅で、道を尋ねてきた人がいたんです。古い喫茶店はどこかって。話した内容も、声も覚えているのに、顔だけが、思い出せなくて」
「顔だけ」
俺が聞き返すと、彼女は頷いた。
「友人も、同じことを言っていました。本を借りた日に会った人の顔だけ、思い出せないって」
諳は、記録帳に何かを書いた。
ペンが、わずかに速かった。
*
その夕方、俺は一人で駅へ向かった。
小野寺が人に道を尋ねられた場所を、確かめておきたかった。諳は、図書館に戻って台帳を調べると言っていた。
駅前には、商店と小さな公園がある。夕方の風が、改札の方へ流れていた。
俺は手帳を開いて、今日の出来事を書き出した。小野寺の証言、本の傷み方、駅の位置。
顔を忘れる怪異なら、忘れる前に書いておけばいい。
そう思って、念のため、通りがかる人の特徴を書き留める準備をしていた。
「すみません」
背後から、声をかけられた。
振り向くと、俺より少し年上に見える人が立っていた。小さな古い本を、片手に持っている。
「この辺りに、古い喫茶店がありませんでしたか。昔、ここで人と会う約束をしたんですが」
「ああ、あの角の」
俺は、閉店した店の場所を説明した。
その人は、礼を言う前に、少しだけ笑った。
「ありがとう。助かりました」
俺は、その顔を見た。
眉の形。目の色。口元の笑い方。
全部、見えていた。
手帳に書こうとして、ペンを持ち替えた。
「今日のことを、忘れないでください」
その人は、そう言った。
「え」
「それでは」
その人は、改札の人混みに紛れていった。
俺は、手帳に、見たままを書き留めた。
――眉は、細く、少し下がっている。目は、薄い茶色。口の右端だけが上がる。
書いて、顔を上げた。
その人の姿は、もう見えなかった。
目を閉じて、顔を思い浮かべようとした。
何も、浮かばなかった。
声は覚えている。喫茶店のことを尋ねた言葉も、別れ際の一言も、はっきり残っている。ただ、顔のあるはずの場所だけが、白く抜け落ちていた。
手帳の文字を、もう一度読んだ。
細い眉。薄い茶色の目。口の右端。
どれも、顔として結びつかなかった。
夕方の空気の匂いも、人混みの足音も、残っている。それなのに、俺はその一日を、遠くから見ているような気がした。
*
閉店した喫茶店は、駅の裏手の角にあった。
シャッターは半分だけ下りていた。錆びた鉄の下に、色あせた貼り紙が残っている。
――長らくのご愛顧、ありがとうございました。
日付は、十一年前の十月だった。
ドアの郵便受けの隙間に、折りたたまれた紙が一枚、挟まっていた。指でつまんで引き出すと、湿気で波打った紙に、鉛筆の文字が残っていた。
――また木曜日に。
誰に向けた言葉なのかは、書かれていなかった。
俺は、その紙を元の隙間に戻して、シャッターの前に立った。
あの人は、ここへ来るつもりだったのだろうか。
それとも、ここがもう無いことを、知っていたのだろうか。
どちらなのかは、閉じたシャッターが、何も教えてくれなかった。
*
図書館に戻ると、諳は台帳を広げていた。
「三人の貸出日は、いずれも木曜日です」
「俺も、会った」
諳は、ペンを止めた。
「駅で、道を尋ねてきた人に。顔だけ、思い出せない」
「手帳に、特徴を書きました」
俺は、手帳を机に置いた。
諳は、それを見て、記録帳に写した。
「読んでも、顔は結びつきますか」
「結びつかない」
「分かりました」
諳は、それ以上は聞かなかった。
「その人は、本を持っていましたか」
「小さな、古い本を」
諳は、背表紙の内側を調べていた手を止めた。
そこに、細い傷が一つ、刻まれていた。数字のようにも、ただの傷のようにも見えた。
「この本は、貸出禁止にします」
「それだけか」
「現時点で、原因は確認できていません」
諳は、本を保管用の箱に収めた。
箱には、調査番号と、短い注意書きが記された。
貸出禁止。
内容の読解を試みないこと。
*
翌日、俺は二人目の借り手に会いに行った。
佐野は、二駅離れた場所に住んでいた。
本の話をすると、困ったように笑った。
「もう、考えないようにしていたんです」
「その日会った人の顔は」
「思い出せません。声と、話した内容は覚えているんですが」
佐野は、棚から古い手帳を取り出した。
「忘れたくなくて、日記に書いたんです。何を話したのか、どこを歩いたのか。できるだけ細かく」
開かれたページには、短い文章が並んでいた。待ち合わせの場所、話した内容、途中で立ち寄った店。
最後に、こう書かれていた。
『顔は思い出せない。でも、あの人と話せてよかった』
俺は、その一文を、何度か読み返した。
「日記を読んで、思い出せますか」
「出来事は思い出せます。でも、あのときの気持ちは戻ってきません。自分が書いた文章を、読んでいるだけのようで」
佐野は、それでも手帳を閉じなかった。
「でも、残しておきたいんです」
「その人と、また会う約束は」
「別れ際に、また木曜日に、と言われた気がするんです。それで、次の木曜日に、約束の場所へ行きました。誰も来ませんでした」
佐野は、手帳の端を指でなぞった。
「でも、来られなかっただけかもしれない。そう思うことにしています」
俺は、自分の手帳を取り出した。
細い眉。薄い茶色の目。口の右端。
その下に、俺は、一行、書き足した。
――忘れないでください、と言われた。
*
図書館に戻ると、諳は報告書を書いていた。
「喫茶店のシャッターに、貼り紙があった。また木曜日に、って書いてある。佐野さんも、同じことを言われてる」
諳は、記録帳に書き込んだ。
「閉店の日付は」
「十一年前の十月」
「確認します」
それだけ言って、諳は報告書の続きを書いた。
――貸出台帳に三名の署名。いずれも木曜日に貸出。返却期限の欄は空白。借り手は本の内容を保持できず、貸出日を過ごした実感を失った。同日に会った人物の顔を、いずれも思い出せない。
「俺の名前は、書かないのか」
「久遠さんの体験は、別に記録します」
「それも、顔を思い出せない側に入るんだな」
「はい」
諳は、報告書を閉じた。
「原因は、確認できていません」
その声は、いつもと変わらなかった。
ただ、ペンを置いたあと、諳は手帳の写しのページを、もう一度だけ開いた。
しばらく、何も書かずに見ていた。
*
数日後、小野寺美和から、手紙が届いた。
本は、すでに回収されている。それでも、彼女は日記をつけ始めたと書いていた。
――その日に会った人の顔は、まだ思い出せません。でも、会ったことまで、なかったことにはしたくないんです。
俺は、その手紙を、手帳の最後のページに挟んだ。
次の木曜日、俺は夕方の駅へ行った。
改札の前に、しばらく立っていた。誰にも道を尋ねられなかった。喫茶店のシャッターの前も通ったが、郵便受けの隙間の紙は、そのままだった。
来ない、と分かっていて立っている自分が、少しだけ可笑しかった。
箱に収められた灰色の本は、収蔵室の奥で、静かに眠っている。
返却期限のない本。
それを借りた人間が何を失ったのか、俺には、まだ答えられない。
ただ、あの日の駅で、誰かが俺に、言ったことだけは覚えている。
顔は、思い出せない。
それでも、手帳の一行は、まだ、そこに残っていた。
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