六話 午前二時の回覧板
その紙は、明日の出来事を知っていた。
書かれているのは、大事件でも、誰かの死でもない。転ぶ。落とす。ぶつかる。日常の中で、誰にでも起こりそうな小さな事故ばかりだった。
そして、その紙を捨てると、別の人間が同じ目に遭う。
図書館の机に置かれていた報告書を、俺は黙って読んだ。
「今回は、町内会館の回覧板です」
諳は、いつもの調子で言った。
午前二時を過ぎると、回覧板に見覚えのない紙が一枚挟まっている。そこには翌日に起きる事故が書かれていた。
最初の紙は『明日、午前八時十分。南通りの角で、子供が転んで膝を擦りむく』。翌朝、その場所で子供が転んだ。次の紙は、配達員が荷物を落とす。三枚目は、住人が鍵を落とす。
役員は気味悪がって、三枚目を破って捨てた。翌日、別の住人が、同じ場所で鍵を落とした。
「書かれた事故は、なくならない。被害に遭う人間が、変わるだけか」
「はい。紙は、破棄せず保存します。観察のため、現場には手を加えないでください」
「手を加えないって、事故は起きるんだろ」
「防いだ場合に何が起きるのか、確認していません」
「確認するために、誰かが転ぶのを待つのか」
諳は、少しだけ間を置いた。
「そうは言っていません」
それ以上は言わなかった。俺も、聞かなかった。
*
町内会館は、商店街から一本入った路地にあった。
玄関の横には回覧板を差す木の箱があり、その上に住民向けのお知らせが何枚も貼られている。出迎えてくれたのは、町内会の役員をしている年配の男性だった。
「何度捨てても、翌日の事故は起きる。もう怖くて、誰も回覧板に触りたがらないんです」
男性は、棚の引き出しから透明な袋を取り出した。
中には、紙が二枚入っていた。普通のコピー用紙に、黒いペンで書かれた文字。端に、薄い灰色の汚れがある。
「筆跡に心当たりは」
「役員全員に聞きました。書いた覚えのある人はいませんでした」
「誰かが夜中に挟みに来てるんじゃないのか」
俺が言うと、男性は首を振った。
「会館の鍵は、私しか持っていません」
俺は、回覧板を手に取った。木の板に、透明なポケットがついている。町内会のお知らせを挟むだけの、ありふれた板だ。
ポケットの口に指を入れると、爪の先に何かが引っかかった。薄い、紙の縁のようなもの。
取り出そうとしたが、奥に貼りついていて動かなかった。
「どうした」
「何か、挟まってる」
「後で確認します。今は触らないでください」
諳は、紙の端をつまんで袋から出し、一枚ずつ確かめていた。
俺は、指先に残った古い紙の感触を、手のひらに握りしめた。
*
その夜、俺は会館のテーブルにスマートフォンを立てかけ、回覧板に向けて録画を始めた。
人が挟みに来るなら、映るはずだった。
午前二時を過ぎても、会館は静かだった。壁時計の秒針が音もなく進んでいる。
二時三分。
紙が一枚、回覧板の隙間から滑り出た。
誰も触れていない。風もない。紙はゆっくり床に落ちた。
拾い上げると、黒いペンで書かれていた。
『明日、午前九時十五分。東通りの郵便受けの前で、男性が鍵を落とし、拾おうとして左膝を擦りむく』
「時刻と紙の状態を記録します」
諳が記録帳を開いた。
俺は、スマートフォンの録画を確認した。
二時二分から二時四分までの、二分間だけが、空白になっていた。回覧板も、俺たちの姿も、映っていない。
「写らないな」
「はい」
「俺は明日、現場に行く」
「観察に留めてください」
「止める」
諳は、俺を見た。
引き止める言葉はなかった。ただ、記録帳に書き込む手が、一度だけ止まった。
*
翌朝、東通りの郵便受けの前に立った。
通勤や通学の人間が行き交う、ごく普通の道だった。郵便受けの隣には古い植木鉢があり、その前の歩道に小さな段差がある。
諳は、道の反対側に立っていた。記録帳を開いたまま、動かない。
九時十四分。
スーツ姿の男性が、郵便受けの前で立ち止まった。鞄から封筒を出そうとして、鍵が一つ、地面に落ちた。
「すみません!」
俺は駆け寄り、先に鍵を拾った。
「落としましたよ」
「ああ、ありがとうございます」
男性は礼を言って、鍵を受け取った。
転ぶことも、膝を擦りむくこともなかった。
九時十五分を過ぎても、何も起きなかった。
「防げた」
そう思った直後だった。
少し離れたところで、何かが散らばる音がした。
買い物袋を持った女性がしゃがみ込み、野菜や日用品が歩道に転がっている。落ちた物を拾おうとして、女性は足元の段差に膝をぶつけた。
「痛っ」
左膝を押さえ、顔をしかめる。
俺は慌てて荷物を拾い集めた。
「大丈夫ですか」
「ええ、ちょっとぶつけただけだから」
女性はそう言ったが、左膝には赤い跡ができていた。
俺は、手の中の紙を握りしめた。
「俺が鍵を拾わなかったら、あの男性が転んでたのか」
戻ってきた諳は、女性の話を聞いて、時刻と場所を記録した。
「九時十五分を過ぎ、場所も郵便受けの前ではありません。同じ紙の事故かは、確認できません」
「でも、左膝だ」
「はい」
諳は、それ以上は何も言わなかった。
俺は、女性の背中を見送った。
*
その夜、会館で、俺は回覧板のポケットを外した。
「久遠さん」
「確認する。後でやるって、あんたが言ったんだろ」
爪の先で貼りついた縁を剥がすと、薄く黄ばんだ小さな紙片が現れた。
手書きの文字が、二行、残っていた。
『回覧は、止めないこと』
『読んだ人は、次へ回すこと』
諳は、紙片を覗き込んで、しばらく何も言わなかった。
「これ、どういう意味だ」
「回覧板の、使い方に見えます」
「事故の紙じゃなくて」
「はい。ただ、それが回覧板に貼られていたことは、事実です」
俺は、紙片を見つめた。
読んだ人は、次へ回す。
「俺は、あの紙を読んだ。読んで、事故を防いだ。それで、次の人に回ったのか」
「その可能性があります」
「だったら、止めないでいるうちは、ずっと誰かが怪我をする」
「そう断定はできません」
諳は、紙片を剥がさず、写しを取った。
「回覧を止めた場合の結果は、確認できていません」
「止めたら、どうなる」
「分かりません」
諳は、記録帳を開いたまま続けた。
「確認できていないことを、確認済みとは書けません」
その言葉が、前より重く聞こえた。
*
午前二時三分。紙が、また滑り出た。
俺は、床に落ちる前に拾い上げた。
『明日、午前八時十分。町内会館の入口で、久遠蓮が段差につまずき、左膝を擦りむく』
紙を持つ手が、止まった。
諳が、隣で記録帳を開いた。
「久遠さん」
「俺の名前だ」
「はい」
「俺が避けたら、また次の人に回るんだろ」
「その可能性があります」
諳は、ペンを持ったまま続けた。
「回避した場合の結果は、確認できていません」
「俺が、最後の一人になる」
言ってしまってから、自分で驚いた。
諳は、すぐには書かなかった。
ペン先が、紙の上で止まっている。
「そう決めたのですか」
「試すだけだ。膝くらいで、済むなら」
諳は、俺を見た。
赤みを帯びた目から、表情は読み取れなかった。
「……記録します」
それだけ言って、ペンを動かした。
*
午前八時十分、町内会館の入口の前に、俺は立っていた。
玄関の前に、段差が一つある。古いコンクリートの角が欠けて、わずかに斜めになっている。
諳は、少し離れた道路の脇にいた。記録帳を、開いたまま持っている。
役員の男性が、会館の鍵を持って歩いてくるのが見えた。この人が先に段差を踏めば、この人が転ぶ。
俺は、段差に向かって歩いた。
避けようと思えば、避けられる高さだった。
足を止めなかった。
爪先が、欠けた角に引っかかった。
体が前に傾き、左膝が、コンクリートに擦れた。
熱い、と思ったあとで、痛みが来た。
「久遠くん!」
役員の男性が駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか、血が」
「平気です」
ズボンの膝が破れて、赤く滲んでいた。立ち上がると、少し足がふらついた。
顔を上げると、道路の脇で、諳が記録帳に何かを書いていた。
手は、貸してこなかった。
その手元だけが、わずかに揺れていた。
*
その夜、俺たちは午前三時まで会館に残った。
二時を過ぎても、三時を過ぎても、新しい紙は現れなかった。
回覧板は、空のまま、壁の箱に差さっていた。
「現れないな」
「はい」
「俺で、止まったのか」
「確認できません」
諳は、記録帳を閉じた。
「偶然かもしれません」
「だよな」
俺は、膝の絆創膏を指で押さえた。ズボンの下で、まだ少し熱を持っていた。
帰り際、回覧板のポケットに、もう一度指を入れてみた。
紙片のあったあたりが、わずかに温かかった。
誰かが、さっきまで、そこに手を当てていたように。
面白かったら星や感想よろしくお願いします




