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零番の司書 ―記録図書館の怪異譚―  作者: ネメセイア
第一章 欠けた階と記録される人々

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6/11

五話 窓に映る隣人

非常ベルの報告書を出してから、四日が経った。


 諳とは、必要なことしか話していなかった。諳も、それ以上は求めてこなかった。


 その日、図書館の机に置かれていたのは、一枚の報告書だった。


「桜木ハイツ。三階の空室です」


 諳は、いつもの調子で言った。


「毎晩、午後九時を過ぎると、空室の窓に人影が映るそうです。通報したのは、隣室の住人です」


「空室なのに」


「管理会社によれば、現在その部屋に住人はいません。室内を確認しても、誰もいないそうです」


「写真は」


「あります。ただ、撮影した画像には、人影が写っていません」


 俺は報告書を受け取った。


 空室の窓に人影が映る。見間違いや反射で説明がつくかもしれない。けれど、写真に残らないというのが、気に入らなかった。


「行く」


 それだけ答えた。


     *


 桜木ハイツは、駅から少し離れた住宅街にあった。


 築年数の古い五階建てで、外壁には細かなひびが入り、共用廊下の蛍光灯は一本ごとに色が違った。入口の郵便受けには、古いテープの跡が残っている。


 午後八時五十分、建物の前に、諳が立っていた。


「隣室の住人の方です」


 諳の隣に、四十代くらいの女性がいた。仕事帰りらしい服装で、鞄を両手で抱えている。


「毎晩、ベランダに出ると見えるんです。隣の窓の、中央に」


 女性は声を落とした。


「最初は、誰か住み始めたのかと思いました。でも、隣は空室のはずで。昼間は、何もないんです」


「人影は、動きますか」


 諳が尋ねた。


「動きません。ただ、立っているだけで。……こっちを見ている気がして」


 俺は、三階の窓を見上げた。


 街灯の光を受けて、ガラスが鈍く光っている。カーテンはなく、向こうには暗い室内が見えた。


 午後九時。


 窓の中央に、黒い影が現れた。


 頭、肩、胴体。腕は体の横に垂れている。顔は暗くて、はっきりしない。それでも、人が立っている形だということは分かった。


 俺はスマートフォンを構え、窓を撮影した。


 画面には、街灯の光を反射する窓ガラスしか写っていなかった。人影は、どこにもない。


「写らないな」


「はい」


 諳は、記録帳に時刻を書き込んでいた。


「午後九時。三階の空室の窓に人影が出現。目視では確認できるが、撮影記録には残らない。動きは確認できず」


「あんた、もう書いてるのか」


「確認した事実を記録しています」


 返事の代わりに、俺は窓を見つめた。


 人影の顔が、こちらを向いた気がした。


     *


 管理会社から借りた鍵で、三階の空室に入った。


 玄関を開けると、かびの匂いがした。家具はなく、床には薄く埃が積もっている。壁には、以前何かを掛けていた跡が残っていた。


 諳が照明を点けると、窓には俺たちの姿が映った。


 人影は、いなかった。


「室内に入ると、消えるのか」


「はい。ただし、条件はまだ確認できていません」


 俺は照明を消した。


 暗闇の中、窓には、ぼんやりと街の明かりと、俺自身の輪郭が映っていた。


 俺は窓に近づいた。


 映っている俺の背後に、もう一人分の影が立っていた。


 輪郭だけの、黒い影だった。


 振り返った。


 誰もいなかった。埃の積もった床と、壁の跡があるだけだった。


 もう一度、窓を見た。影は、俺のすぐ後ろに立ったままだった。


「諳」


「はい」


「今、見えたか」


「久遠さんの背後に、何か映っているということですか」


「ああ」


「こちらからは、確認できませんでした」


 俺は窓から二歩、後ろへ下がった。


 窓の中の影は、俺が下がった分だけ、俺に近づいた。


 隣室の女性の声を思い出した。


 ――こっちを見ている気がして。


「出よう」


「何かありましたか」


「いいから、出よう」


 諳は、俺を一度だけ見て、何も聞かずに照明を点けた。


 部屋を出て、扉を閉めた。階段を下り、建物の外から窓を見上げる。


 人影は、すでにそこに立っていた。


     *


 翌日の昼、俺たちは建物の隣にある小さな花屋を訪ねた。


 店先には鉢植えが並び、軒下には色あせた看板が掛かっていた。店の女性は、桜木ハイツのことを尋ねると、すぐに三階の部屋を思い浮かべたらしい。


「ああ、あの窓のお話ですか。私も、昔から気になっていたんです」


「昔から、というのは」


 諳が尋ねた。


「三枝直人さんが住んでいた頃からです。もう十二年も前になります」


 女性は、遠くを見るような目をした。


「静かな人でした。挨拶をすれば返してくれて、よく窓を開けていたのを覚えています。それが急に、見かけなくなって」


「失踪したということですか」


「ご家族が探しに来ていました。でも、その後のことは、私は知りません」


 諳は、女性の話を記録していた。


「三枝さんがいなくなった後、窓に何か変わったことは」


「一度だけ。何日か経ったころ、夜に店を閉めるとき、三階の窓に白い紙が貼られているのを見ました。字が書いてあったようにも見えましたが、遠くて読めなくて。次の日には、もうありませんでした」


「失踪する前に、三枝さんが何か話していたことは」


 女性は、少し迷ってから答えた。


「そういえば、変なことを言われました。『夜、窓に自分が映っていても、部屋には入らないでください』って」


 俺は、昨夜の窓を思い出した。


「自分が映る?」


「ええ。理由を聞いても、答えてくれませんでした」


 諳は、その言葉を一字一句、書き留めた。


     *


 数日後、花屋の女性の紹介で、三枝直人の兄と会うことになった。


 四十代半ばの男性は、桜木ハイツの前に立つと、三階の窓を見上げた。


「弟が、窓に映っていると聞きました」


「私たちにも、まだ分かりません」


 諳が答えた。


「ご本人を知っている方の目で、見ていただきたいのです」


 午後九時を過ぎると、窓に人影が現れた。


 男性は、息をのんだ。


 暗い服。片方の肩が、少し下がっている。腕は体の横に垂れていた。


 男性は、しばらく何も言わなかった。


「……直人だ」


「分かるんですか」


 俺が尋ねると、男性は窓を見つめたまま答えた。


「肩の傾け方が、あいつの癖なんです。昔から、左の肩が下がっていた。顔はよく見えません。でも、あの立ち方は直人です」


 男性の声が震えた。


「考え事をするとき、いつもああやって立っていました。何か言いたそうにして、結局、何も言わない」


 人影が、ゆっくりと顔を上げた。


 口元が動いている。声は聞こえない。同じ言葉を、何度も繰り返しているように見えた。


「直人。そこにいるのか」


 返事はなかった。


「聞こえるなら、何か言ってくれ」


 人影の口元が、もう一度動いた。


 男性は目を凝らし、静かに首を振った。


「……分からない」


 怒りも、驚きもなかった。


「何を言っているのか、分かりません。でも、直人なんだと思います」


 諳は、その言葉を記録した。


 ――三枝直人の兄は、窓の人影を弟本人であると判断した。根拠は、肩の傾きと立ち姿の癖。発話内容は確認できず。


 ペンが止まった。


 諳は、一度だけ窓を見上げて、続けた。


 ――本人であることは、未確定。


     *


 男性が帰ったあとも、人影は窓に残っていた。


 俺は、建物の前から動けなかった。


「三枝本人なんだろ」


「お兄さんの証言では、本人だと判断されています」


「あんたは、どう思う」


「姿の一致だけで、存在を確定することはできません」


 分かっている。記録と存在は、同じではない。


 それでも、十二年前にいなくなった人が、窓の向こうに立ち続けている。


「窓を割る」


 俺は言った。


「久遠さん」


「割ったら何が起きるか分からない。でも、あの人が何か伝えようとしてるなら、あのまま閉じ込められてるみたいじゃないか」


「窓を壊しても、解放されるとは限りません。元に戻せる保証もありません」


「じゃあ、何もしないのか」


「そうは言っていません。ただ、今は割らないでください」


「また待つのか」


「はい」


 諳は、記録帳を閉じたまま、窓を見上げた。


 俺は、拳を握りしめた。


 その夜、人影が初めて大きく動いた。


 窓の内側で、両手を持ち上げた。何かを、ガラスに押し当てようとするように。白い紙を、貼るような仕草だった。


 何も貼られない。手が、空のガラスの上を滑っていく。


 人影は手を下ろし、口元を動かした。


 最後の言葉だけ、はっきりと読み取れた気がした。


 ――ごめん。


「何に謝ってるんだよ!」


 俺は窓に向かって叫んだ。


「三枝さん! 何を伝えたいんだ!」


 返事はなかった。


 諳が、俺の隣に立った。


「まだ、割らないでください」


 その声は低かった。


 俺は、諳の手元を見た。記録帳を持つ手は、開かないまま、表紙を強く押さえていた。


 しばらくして、人影はゆっくり後ろへ下がり、暗い室内に溶けるように消えた。


 窓には、街灯の光だけが残った。


     *


 翌日、俺たちは三枝の兄に、昨夜のことを伝えた。


 謝るような動きをしていたこと。何かを窓に貼ろうとしていたこと。言葉も文字も残らなかったこと。


 男性は、静かに話を聞いていた。


「直人は、昔から謝るのが苦手でした」


 しばらくして、男性が言った。


「何かあっても、すぐには謝らない。後から、何度も言い直そうとする」


「何に謝ろうとしていたのか、心当たりは」


 諳が尋ねた。


「いいえ。でも、あいつが何かを伝えようとしていたのなら、もう十分です」


 男性は、桜木ハイツを見上げ、最後にもう一度、頭を下げた。


「調べてくださって、ありがとうございました」


 その背中を見送ってから、俺は諳に尋ねた。


「これで終わりか」


「はい。確認できる範囲の調査は、ここまでです」


「何者だったのかも、どうして映るのかも、結局分からなかった」


「そうですね」


 諳は、記録帳を抱え直した。


「窓は、そのままにします」


「……ああ」


 俺は、それ以上、何も言わなかった。


     *


 図書館に戻ると、諳は報告書を書き始めた。


 隣の椅子に座って、俺はその手元を見ていた。


 ――桜木ハイツ三階の空室において、夜間、窓に人影が現れる現象を確認。対象は、十二年前に失踪した三枝直人に似ていると、実兄が証言した。室内からは、窓に映るはずのない影が確認されることがある。対象が三枝直人本人であるか、現象が発生する理由については、未確認。


 最後の一文を書き終えて、諳はペンを置いた。


 報告書は、未解決の棚に収められた。


 帰り際、図書館の窓に、俺の姿が映っていた。


 その隣に、諳の姿もあった。


 俺は、二人の姿をしばらく見つめた。


 窓の向こうに、誰かが立っているようには見えなかった。


「どうしましたか」


「いや。何でもない」


 窓から目を離し、図書館を出た。


 背後で、扉の閉まる音がした。


 一度だけ、振り返った。


 窓には、俺の姿が映っていた。


 その背後に、一瞬だけ、黒い影が立っていた。


 背後を見たが、誰もいなかった。

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