五話 窓に映る隣人
非常ベルの報告書を出してから、四日が経った。
諳とは、必要なことしか話していなかった。諳も、それ以上は求めてこなかった。
その日、図書館の机に置かれていたのは、一枚の報告書だった。
「桜木ハイツ。三階の空室です」
諳は、いつもの調子で言った。
「毎晩、午後九時を過ぎると、空室の窓に人影が映るそうです。通報したのは、隣室の住人です」
「空室なのに」
「管理会社によれば、現在その部屋に住人はいません。室内を確認しても、誰もいないそうです」
「写真は」
「あります。ただ、撮影した画像には、人影が写っていません」
俺は報告書を受け取った。
空室の窓に人影が映る。見間違いや反射で説明がつくかもしれない。けれど、写真に残らないというのが、気に入らなかった。
「行く」
それだけ答えた。
*
桜木ハイツは、駅から少し離れた住宅街にあった。
築年数の古い五階建てで、外壁には細かなひびが入り、共用廊下の蛍光灯は一本ごとに色が違った。入口の郵便受けには、古いテープの跡が残っている。
午後八時五十分、建物の前に、諳が立っていた。
「隣室の住人の方です」
諳の隣に、四十代くらいの女性がいた。仕事帰りらしい服装で、鞄を両手で抱えている。
「毎晩、ベランダに出ると見えるんです。隣の窓の、中央に」
女性は声を落とした。
「最初は、誰か住み始めたのかと思いました。でも、隣は空室のはずで。昼間は、何もないんです」
「人影は、動きますか」
諳が尋ねた。
「動きません。ただ、立っているだけで。……こっちを見ている気がして」
俺は、三階の窓を見上げた。
街灯の光を受けて、ガラスが鈍く光っている。カーテンはなく、向こうには暗い室内が見えた。
午後九時。
窓の中央に、黒い影が現れた。
頭、肩、胴体。腕は体の横に垂れている。顔は暗くて、はっきりしない。それでも、人が立っている形だということは分かった。
俺はスマートフォンを構え、窓を撮影した。
画面には、街灯の光を反射する窓ガラスしか写っていなかった。人影は、どこにもない。
「写らないな」
「はい」
諳は、記録帳に時刻を書き込んでいた。
「午後九時。三階の空室の窓に人影が出現。目視では確認できるが、撮影記録には残らない。動きは確認できず」
「あんた、もう書いてるのか」
「確認した事実を記録しています」
返事の代わりに、俺は窓を見つめた。
人影の顔が、こちらを向いた気がした。
*
管理会社から借りた鍵で、三階の空室に入った。
玄関を開けると、かびの匂いがした。家具はなく、床には薄く埃が積もっている。壁には、以前何かを掛けていた跡が残っていた。
諳が照明を点けると、窓には俺たちの姿が映った。
人影は、いなかった。
「室内に入ると、消えるのか」
「はい。ただし、条件はまだ確認できていません」
俺は照明を消した。
暗闇の中、窓には、ぼんやりと街の明かりと、俺自身の輪郭が映っていた。
俺は窓に近づいた。
映っている俺の背後に、もう一人分の影が立っていた。
輪郭だけの、黒い影だった。
振り返った。
誰もいなかった。埃の積もった床と、壁の跡があるだけだった。
もう一度、窓を見た。影は、俺のすぐ後ろに立ったままだった。
「諳」
「はい」
「今、見えたか」
「久遠さんの背後に、何か映っているということですか」
「ああ」
「こちらからは、確認できませんでした」
俺は窓から二歩、後ろへ下がった。
窓の中の影は、俺が下がった分だけ、俺に近づいた。
隣室の女性の声を思い出した。
――こっちを見ている気がして。
「出よう」
「何かありましたか」
「いいから、出よう」
諳は、俺を一度だけ見て、何も聞かずに照明を点けた。
部屋を出て、扉を閉めた。階段を下り、建物の外から窓を見上げる。
人影は、すでにそこに立っていた。
*
翌日の昼、俺たちは建物の隣にある小さな花屋を訪ねた。
店先には鉢植えが並び、軒下には色あせた看板が掛かっていた。店の女性は、桜木ハイツのことを尋ねると、すぐに三階の部屋を思い浮かべたらしい。
「ああ、あの窓のお話ですか。私も、昔から気になっていたんです」
「昔から、というのは」
諳が尋ねた。
「三枝直人さんが住んでいた頃からです。もう十二年も前になります」
女性は、遠くを見るような目をした。
「静かな人でした。挨拶をすれば返してくれて、よく窓を開けていたのを覚えています。それが急に、見かけなくなって」
「失踪したということですか」
「ご家族が探しに来ていました。でも、その後のことは、私は知りません」
諳は、女性の話を記録していた。
「三枝さんがいなくなった後、窓に何か変わったことは」
「一度だけ。何日か経ったころ、夜に店を閉めるとき、三階の窓に白い紙が貼られているのを見ました。字が書いてあったようにも見えましたが、遠くて読めなくて。次の日には、もうありませんでした」
「失踪する前に、三枝さんが何か話していたことは」
女性は、少し迷ってから答えた。
「そういえば、変なことを言われました。『夜、窓に自分が映っていても、部屋には入らないでください』って」
俺は、昨夜の窓を思い出した。
「自分が映る?」
「ええ。理由を聞いても、答えてくれませんでした」
諳は、その言葉を一字一句、書き留めた。
*
数日後、花屋の女性の紹介で、三枝直人の兄と会うことになった。
四十代半ばの男性は、桜木ハイツの前に立つと、三階の窓を見上げた。
「弟が、窓に映っていると聞きました」
「私たちにも、まだ分かりません」
諳が答えた。
「ご本人を知っている方の目で、見ていただきたいのです」
午後九時を過ぎると、窓に人影が現れた。
男性は、息をのんだ。
暗い服。片方の肩が、少し下がっている。腕は体の横に垂れていた。
男性は、しばらく何も言わなかった。
「……直人だ」
「分かるんですか」
俺が尋ねると、男性は窓を見つめたまま答えた。
「肩の傾け方が、あいつの癖なんです。昔から、左の肩が下がっていた。顔はよく見えません。でも、あの立ち方は直人です」
男性の声が震えた。
「考え事をするとき、いつもああやって立っていました。何か言いたそうにして、結局、何も言わない」
人影が、ゆっくりと顔を上げた。
口元が動いている。声は聞こえない。同じ言葉を、何度も繰り返しているように見えた。
「直人。そこにいるのか」
返事はなかった。
「聞こえるなら、何か言ってくれ」
人影の口元が、もう一度動いた。
男性は目を凝らし、静かに首を振った。
「……分からない」
怒りも、驚きもなかった。
「何を言っているのか、分かりません。でも、直人なんだと思います」
諳は、その言葉を記録した。
――三枝直人の兄は、窓の人影を弟本人であると判断した。根拠は、肩の傾きと立ち姿の癖。発話内容は確認できず。
ペンが止まった。
諳は、一度だけ窓を見上げて、続けた。
――本人であることは、未確定。
*
男性が帰ったあとも、人影は窓に残っていた。
俺は、建物の前から動けなかった。
「三枝本人なんだろ」
「お兄さんの証言では、本人だと判断されています」
「あんたは、どう思う」
「姿の一致だけで、存在を確定することはできません」
分かっている。記録と存在は、同じではない。
それでも、十二年前にいなくなった人が、窓の向こうに立ち続けている。
「窓を割る」
俺は言った。
「久遠さん」
「割ったら何が起きるか分からない。でも、あの人が何か伝えようとしてるなら、あのまま閉じ込められてるみたいじゃないか」
「窓を壊しても、解放されるとは限りません。元に戻せる保証もありません」
「じゃあ、何もしないのか」
「そうは言っていません。ただ、今は割らないでください」
「また待つのか」
「はい」
諳は、記録帳を閉じたまま、窓を見上げた。
俺は、拳を握りしめた。
その夜、人影が初めて大きく動いた。
窓の内側で、両手を持ち上げた。何かを、ガラスに押し当てようとするように。白い紙を、貼るような仕草だった。
何も貼られない。手が、空のガラスの上を滑っていく。
人影は手を下ろし、口元を動かした。
最後の言葉だけ、はっきりと読み取れた気がした。
――ごめん。
「何に謝ってるんだよ!」
俺は窓に向かって叫んだ。
「三枝さん! 何を伝えたいんだ!」
返事はなかった。
諳が、俺の隣に立った。
「まだ、割らないでください」
その声は低かった。
俺は、諳の手元を見た。記録帳を持つ手は、開かないまま、表紙を強く押さえていた。
しばらくして、人影はゆっくり後ろへ下がり、暗い室内に溶けるように消えた。
窓には、街灯の光だけが残った。
*
翌日、俺たちは三枝の兄に、昨夜のことを伝えた。
謝るような動きをしていたこと。何かを窓に貼ろうとしていたこと。言葉も文字も残らなかったこと。
男性は、静かに話を聞いていた。
「直人は、昔から謝るのが苦手でした」
しばらくして、男性が言った。
「何かあっても、すぐには謝らない。後から、何度も言い直そうとする」
「何に謝ろうとしていたのか、心当たりは」
諳が尋ねた。
「いいえ。でも、あいつが何かを伝えようとしていたのなら、もう十分です」
男性は、桜木ハイツを見上げ、最後にもう一度、頭を下げた。
「調べてくださって、ありがとうございました」
その背中を見送ってから、俺は諳に尋ねた。
「これで終わりか」
「はい。確認できる範囲の調査は、ここまでです」
「何者だったのかも、どうして映るのかも、結局分からなかった」
「そうですね」
諳は、記録帳を抱え直した。
「窓は、そのままにします」
「……ああ」
俺は、それ以上、何も言わなかった。
*
図書館に戻ると、諳は報告書を書き始めた。
隣の椅子に座って、俺はその手元を見ていた。
――桜木ハイツ三階の空室において、夜間、窓に人影が現れる現象を確認。対象は、十二年前に失踪した三枝直人に似ていると、実兄が証言した。室内からは、窓に映るはずのない影が確認されることがある。対象が三枝直人本人であるか、現象が発生する理由については、未確認。
最後の一文を書き終えて、諳はペンを置いた。
報告書は、未解決の棚に収められた。
帰り際、図書館の窓に、俺の姿が映っていた。
その隣に、諳の姿もあった。
俺は、二人の姿をしばらく見つめた。
窓の向こうに、誰かが立っているようには見えなかった。
「どうしましたか」
「いや。何でもない」
窓から目を離し、図書館を出た。
背後で、扉の閉まる音がした。
一度だけ、振り返った。
窓には、俺の姿が映っていた。
その背後に、一瞬だけ、黒い影が立っていた。
背後を見たが、誰もいなかった。
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