四話 鳴る非常ベル
池の報告書を出してから、二日が経った。
あの夜、池に落ちた男がどうなったのか、俺は知らない。諳に聞いても、返ってくるのは「確認中です」だけだった。
池で撮った写真には、黒い水面しか写っていない。それでも、男がいなかったことにはならない。
図書館へ行くと、諳は書架の向こうから顔を出した。
「次の報告書が届いています」
「そうか」
俺は、それだけ答えた。
諳は少しの間、こちらを見ていた。何か言いかけたように見えたが、そのまま報告書を机に置いた。
「廃校の非常ベルです。誰もいないはずの校舎で、夜にベルが鳴るそうです」
「誰もいないのに」
「ええ。そして、ベルが鳴った数分後に、近くで誰かが事故に遭います」
報告書には、町外れにある旧南ヶ丘小学校の名前があった。十年以上前に閉校し、立ち入りは禁止されている。異変が始まったのは三週間前で、自転車の転倒、車の縁石への乗り上げ、裏手を歩いていた男性の負傷。いずれも大きな怪我ではないが、ベルの直後に集中していた。
「ベルが事故を知らせてるのか」
「そうかもしれません。ただ、記録によると、ベルが鳴るたびに事故に遭う人物が変わっています」
「偶然じゃないのか」
「その可能性もあります」
諳は報告書の余白を指で押さえた。
「現地で、ベルが鳴る前から観察します」
池のときも、諳は観察を優先した。
俺は、何も言わなかった。
*
旧南ヶ丘小学校は、丘の上にあった。
校門には錆びた鎖が巻かれ、立入禁止の看板が傾いている。校庭には背の高い雑草が生え、遊具の塗装は剥がれ落ちていた。割れた窓ガラスの隙間から、夕方の光が細く差している。
諳は校門の前で記録帳を開き、到着時刻と天候、校舎の外観を書き留めた。
俺は校舎の入口の掲示板を見た。色あせた紙には運動会や学芸会の日程が残っている。その中に、避難訓練の案内もあった。紙の端は湿気で波打ち、文字の一部が読めなくなっている。
諳はそれも記録した。
「何でも書くんだな」
「後から確認するためです」
俺は答えなかった。
校舎の中は、外よりも冷たかった。床には砂埃が積もり、壁には掲示物を剥がした跡が残っている。空気に、古い紙のような匂いが混じっていた。
廊下の天井近くに、赤いランプの付いた古い非常ベルがあった。
「電源が切れてるなら、鳴るわけがない」
俺は一階の奥で分電盤を見つけて、扉を開けた。ブレーカーはすべて下りていた。表面には厚く埃が積もっていて、最近触れられた跡はない。
配線を目で追ってみた。非常ベルへ続くケーブルは、途中で切れていた。
「やっぱり、鳴るはずがない」
「それでも、鳴るという証言があります」
諳は、俺の後ろで言った。
俺は分電盤の扉を閉めた。説明がつかないことは、気持ちが悪い。けれど、今はそれ以上、説明のつけようがなかった。
*
俺たちは職員室で待った。
窓から、校門と道路が見える。通る車は少なく、歩く人もほとんどいなかった。
「ベルが鳴る時刻は」
「最初の目撃は、午後八時五十二分です」
時計の針が進む。
八時五十分。
俺は立ち上がった。
「外に出る。誰かが通ったら、声をかける」
「ここで観察を続けるほうが、条件が揃います」
「あんたはそうしろ。俺は行く」
「久遠さん」
「ベルの音がしたら、窓から合図する」
諳は一瞬だけ俺を見て、記録帳に目を落とした。引き止める言葉は、なかった。
俺は校舎を出て、校門の内側に立った。
夜風が、雑草を揺らしていた。
八時五十二分。
廊下の奥から、短い電子音が聞こえた。
ピッ。
次の瞬間、校舎全体にベルが響いた。
ジリリリリリリリリ――。
耳の奥を、直接叩かれるような音だった。
道路の向こうから、自転車の光が近づいてくる。前輪が、道路の端の段差に向かっていた。
「止まれ! 前、段差!」
俺が叫ぶと、男性はブレーキをかけた。自転車は傾いたが、倒れなかった。男性は足をついて、荷台から落ちた鞄を慌てて拾った。
「ああ、びっくりした。ありがとう」
男性は礼を言って、自転車を押して歩き出した。
無事だった。
俺は息を吐いた。
ベルが止まった。
*
職員室に戻ると、諳は記録帳に書き込んでいる最中だった。
「午後八時五十二分、ベルが作動。同時刻に、校門前を通過した自転車の男性が、転倒を免れた」
ペンの動きが止まらないまま、諳は続けた。
「発生した場所は、校門前の段差。時刻は八時五十二分三十秒。確定しました」
「確定って」
「次に起きたときと比較できます」
俺は何も言わなかった。
掃除用具入れの方から、倒れる音がした。
ガタン。
廊下の突き当たりで、扉が半開きになっていた。バケツが転がり出て、横に紙が一枚落ちている。
拾い上げると、古い避難訓練の記録用紙だった。
――非常ベル作動時、全員、校庭へ避難。
その下に、クラスごとの人数が書かれている。数字の一つだけ、何度も書き直した跡があった。三十一。三十。また三十一。
「これ」
紙を渡すと、諳は覗き込んで、記録帳に挟んだ。
「後で照合します」
「今は」
「後で、です」
そのときだった。
廊下の奥で、ベルが鳴った。
時計を見ると、九時二十七分だった。
ジリリリリリ――。
今度は、最初より短かった。
窓へ走った。道路には誰もいない。
けれど、校門の横の自動販売機の前に、いつの間にか男が一人立っていた。
「あれ、さっきはいなかったぞ」
「待ってください。位置と時刻を」
「あんたが書いてる間に、何か起きる」
俺は職員室を飛び出した。
背後で、諳の声がした。
「久遠さん、確定するまで動かないで――」
階段を二段飛ばしで下り、校庭を走った。
鎖をくぐって校門を出たとき、自動販売機の前の男が悲鳴を上げた。
足元の地面が崩れていた。縁石の下の側溝の蓋が割れ、男の足が膝まで落ち込んでいる。
すぐに引っ張り出したが、足首が赤黒く腫れ上がっていた。
「うわ、折れてる……」
男が呻いた。
最初の事故より、ずっと重かった。
俺は、校舎の方を振り返った。
職員室の窓に、諳の影が立っていた。
*
救急車を呼ぶと、男は担架で運ばれていった。
同乗を断って、俺は校舎へ戻った。
諳は職員室で、記録帳を見つめていた。
「間に合わなかったな」
「はい」
「最初のベルでは、転ばずに済んだ。二度目は、骨折だ」
「最初の事故と二度目の事故では、被害者が異なります」
諳は記録帳の二つの記述を並べた。
「最初は自転車の男性。二度目は自動販売機の前の男性。そして二度目は、一度目より被害が重い」
「あんたが場所と時刻を確定させた後だ」
諳は返事をしなかった。
「記録したから、次の人が変わったんじゃないのか」
「否定はできません」
短い答えだった。
それ以上、諳は何も言わなかった。
俺は、机の上の避難訓練の用紙を見た。三十一。三十。また三十一。
誰かを、数えたり、数え直したりした跡だった。
*
十時を過ぎて、三度目のベルが鳴ったとき、俺は校舎の外にいた。
ジリリリリリリリリ――。
校門の前に、足を引きずって歩く男がいた。さっき運ばれていった男とは別人だった。最初のベルで助けた自転車の男性だ。荷物を拾った後、そのまま近くを歩いていたらしい。
男性が、道路の端でふらついた。
足元に、割れた側溝の蓋が見えた。
「危ない!」
俺は走って、男性の腕をつかんだ。
足が穴に落ちる直前だった。男性は驚いた顔で俺を見た。
「えっ、あ、すみません」
「そこ、割れてますから」
男性は礼を言って、足をかばいながら遠ざかっていった。
助けられた。
誰も怪我をしなかった。
ベルが止まり、静寂が戻った。
俺は、校舎の窓を見上げた。
職員室の窓から、諳がこちらを見ていた。
その手には、記録帳が握られている。ただし、ページは開かれていなかった。
*
職員室へ戻ると、記録帳は閉じられたまま、机の上にあった。
「三度目のベルを、記録していないのか」
「……はい」
「書く暇がなかったのか」
「書かなかったのです」
諳は、記録帳の表紙に手を置いた。
ペンはキャップが閉じられたままだった。
「あんた、さっき書かなかったんだな」
「時刻と場所を、確定させませんでした」
それだけだった。
俺は、何か言うべきだと思った。けれど、言葉が出なかった。
諳は記録帳を開き、新しい行を一つだけ書いた。
――記録した回は、被害者が変わった。記録しなかった回は、被害者が変わらなかった。
その下に、短い一文があった。
――原因は未確認。
ペンを持つ手が、わずかに震えているように見えた。
*
帰る前に、俺たちは校門の前に立った。
夜は深く、道路には誰もいなかった。
校舎の方から、非常ベルが鳴った。
ジリリリリリリリリ――。
赤いランプが、窓越しに点滅している。
道路にも、校門の前にも、人影はなかった。ベルだけが、夜の中に鳴り続けていた。
「誰に向けた警告なんだ」
俺が尋ねると、諳は記録帳を抱えたまま、動かなかった。
校舎の二階の窓に、白い何かが見えた気がした。
近づいて確かめることは、しなかった。
やがてベルが止まった。
その夜の報告書は、未解決の棚に収められた。
避難訓練の用紙は、報告書とは別に、記録帳に挟まれたままだった。
三十一。三十。また三十一。
誰が、数え直されたのか。
俺たちは、まだ知らない。
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