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零番の司書 ―記録図書館の怪異譚―  作者: ネメセイア
第一章 欠けた階と記録される人々

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三話 水底の手

学校の怪異は、解決したわけではなかった。


 名前を思い出せなくなった生徒は、今も自分の教室にいる。俺たちは何も解決できないまま、次の報告書を受け取った。


「今度は池か」


 机の上の紙を見て、俺は言った。


「はい。夜の池で、水面から手が伸びてくるそうです」


「手?」


「人の手が」


「ずいぶん分かりやすい怪談だな」


「分かりやすいことと、理解できることは別です」


 諳はいつもの調子で答えた。


 報告書には、郊外の公園にある池の名前と、目撃者の証言が記されていた。夜になると水面から白い手が伸びてくる。手は岸に向かって動き、誰かを探すように指を開閉する。目撃者が近づくと、水中へ沈む。三人が同じものを見たという。


 ただし、誰も手の持ち主を見ていない。


「人が落ちたとか、そういう話じゃないのか」


「池の周辺に、事故の記録はありません」


「じゃあ、手が出てくる理由も不明か」


「ええ。現地で確認します」


 俺は椅子から立った。


 諳は記録帳を抱えて、先に歩き出していた。


     *


 池に着いたころには、すっかり暗くなっていた。


 公園の街灯は池の周りまで届いていない。水面には木々の影が重なり、風が吹くたびに黒い波紋が広がった。水の匂いに、古い紙のような匂いが混じっていた。


 池のそばには柵があり、その一部だけ塗装が剥がれている。


「ここから落ちた人がいるんじゃないか。古い事故とか、柵が壊れてたとか」


「傷の新しさだけでは判断できません。以前から剥がれていた可能性もあります」


「それじゃ何も言えないだろ」


 諳は答えず、柵の傷を記録した。


 俺はスマートフォンを取り出して、水面を撮影した。画面には、ただの黒い水が写っていた。


 九時まで、あと数分だった。


「久遠さん」


「何だ」


「何か見つけても、すぐには近づかないでください」


「危ないからか」


「危険の有無を、まだ確認していません」


 俺は池を見た。暗い水面の向こうに何かが浮かんでいる。目を凝らすと、木の葉だった。


「分かった。何かあったら、まず知らせる」


「お願いします」


 諳は記録帳を開いた。


 その横顔を見ながら、俺は少しだけ不安になった。


 あのマンションで聞いた声が、まだ耳の奥に残っていた。


     *


 九時を過ぎたころ、遊歩道を一人の男が歩いてきた。


 仕事帰りらしいスーツ姿で、鞄を肩にかけ、スマートフォンの画面を見ながら歩いている。池の方には目を向けていない。近道なのだろう。


「あの人、止めたほうがいいんじゃないか」


「声をかければ、手の動きが変わる可能性があります」


「でも」


「観察を続けます」


 諳は記録帳に目を落としたまま言った。


 俺は何か言い返そうとして、池を見た。


 池の中央だけが、不自然なほど静かになっていた。


 風は止んでいない。木の影は揺れている。街灯の光も水面で歪んでいる。それなのに、その一角だけが、何も映していないように見えた。


「諳、真ん中を」


「見ています」


 水面に、白いものが現れた。


 最初は枝かと思った。細長いものが、水の中からゆっくり持ち上がってくる。


 指だった。


 五本の指が水面を割り、続いて手のひらが浮かび上がった。手首まで見えたところで、それは止まった。


 水に濡れているはずなのに、皮膚は乾いた紙のように白かった。指先は細く、関節だけが不自然にはっきりしている。


 手は、何かを探すようにゆっくり開いた。


 それから、岸の方へ向いた。


 男は、まだ画面を見ながら歩いていた。


「おい、あの人」


「確認しています」


 諳のペンが動いている。手が現れた時刻、位置、指の動き。


 手が、岸へ近づいてきた。


 指が動くたび、水面に小さな波紋が生まれる。男は遊歩道の池側へ、数歩、足を寄せた。


「知らせてくる」


「待ってください」


 諳が俺の袖をつかんだ。


「手が何に反応しているのか、確認する必要があります。今動けば、条件が変わるかもしれません」


「その間に何かあったらどうする」


「もう少しだけ、観察を」


 赤みを帯びた目が、まっすぐ俺を見ていた。


 その表情からは、何も読み取れなかった。ペン先が止まったのは、ほんの一瞬だった。


 俺は、唇を噛んだ。


 待つ、と決めたのは俺だった。


     *


 男が足を止めたのは、柵のすぐそばだった。


 スマートフォンの画面から顔を上げ、池の方を見る。


 その足首に、白い指が巻きついた。


 柵の下の暗がりから、水に濡れていない手が伸びていた。いつの間に岸へ上がったのか、俺にはまるで見えなかった。


 男は声を上げた。


「うわ、何だ、おい」


「諳」


「まだです」


「でも、もう」


「手の動きを見ます。引き込む方向と、力の入り方を」


 男の体が、斜めに傾いた。


 柵の塗装の剥がれた部分に、爪を立てるように指をかけている。革靴が泥の上を滑った。


「助けてくれ」


 男が、こちらを見た。


 目が合った。


 俺は走り出した。


 柵を越えようとして、足がもつれた。袖をつかまれていた手が、いつの間にか離れていた。いつ離れたのか分からなかった。


 男の指が柵から外れた。


 水音が一度だけした。


 俺が池の縁に膝をついたとき、水面には波紋だけが残っていた。


「くそっ」


 腕を水に突っ込んだ。冷たかった。底には何も触れなかった。


 もう一度。


 それでも、何もなかった。手も、腕も、助けを求める声も。ただ暗い水があるだけだった。


「久遠さん」


 諳が駆け寄ってきて、俺の腕をつかんだ。池から引き離そうとする。


「離せよ。まだいるかもしれないだろ」


「危険です。これ以上は近づかないでください」


「だったら、さっき動けばよかっただろ!」


 自分の声が公園に響いた。


 諳の手が止まった。


 もう一度、水面に波紋が広がった。今度は、俺の目の前から。


 水の下で、何かが動いた気がした。


「……誰か、いるのか」


 返事はなかった。


 身を乗り出しかけたとき、諳が強く俺の腕を引いた。


「やめてください」


 いつもの落ち着いた声ではなかった。


 振り返ると、諳は池を見つめていた。ペンを持つ手が、わずかに震えている。


「先に動けば、二人とも戻れなかったかもしれません」


 諳は言った。


 最後の言葉だけが、かすかに揺れていた。


     *


 手は、二度と現れなかった。


 周辺を調べても、池の底は確認できなかった。落ちた男の鞄も、スマートフォンも、水面には浮いてこなかった。


 警察に連絡するかと聞くと、諳は短く答えた。


「報告は私が行います」


 図書館へ戻る道で、俺は一度も口を開かなかった。


 諳も、何も言わなかった。


     *


 図書館で、諳は報告書を書いた。


 俺は机の向かいに座り、その手元を見ていた。


 調査時刻、場所、手の出現時刻。それから、短い一文が続いていた。


 ――対象は水中へ沈み、救助不能。


「それだけか」


「はい」


「あんたが俺に待てと言ったことは、書いてないんだな」


 諳は、報告書から目を上げた。


「その点は、記録帳に書いてあります」


「報告書には?」


「報告書は、確認された現象を記すものです」


 その答えは、嘘ではなかったのかもしれない。


 けれど、俺には、どうしても納得できなかった。


「あのとき、動いていたら助けられたと思うか」


「分かりません」


「待たなければ、あの人は」


「久遠さん」


 諳が、俺の名前を呼んだ。


 それ以上は続かなかった。


 俺は席を立った。


「今日は帰る」


「……お疲れさまでした」


 諳は、そう言っただけだった。


 引き止める言葉は、なかった。


     *


 帰り道、俺は何度もスマートフォンの画面を見た。


 池で撮った写真には、黒い水面しか写っていない。手も、柵も、あの男も、どこにもいなかった。


 まるで最初から、そこには何もなかったように。


 けれど、俺の中には、足首に絡みついた白い指と、こちらを見た男の目が残っていた。


 諳の判断は、正しかったのかもしれない。


 あるいは、記録を優先しただけなのかもしれない。


 どちらなのか、俺には決められなかった。


 ただ、報告書に書かれた短い一文だけでは、あの夜に起きたことは、少しも伝わらなかった。


 その夜の報告書は、未解決の棚に収められた。


 池の手が何だったのか。誰かを助けようとしていたのか。誰かを引き込もうとしていたのか。


 答えは、まだどこにもなかった。

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