二話 出席番号零番
「それで、次は何をするんだ」
俺が聞くと、緋室諳は机の上の記録帳を開いた。
「次、ですか」
「一緒に確かめるんだろ。俺が何者なのか、あのマンションで何が起きたのか」
「ええ」
「だったら、分かってることを教えてくれよ」
諳はページをめくった。いくつもの題名が並んでいる。俺には読めない文字もあれば、数字だけのもの、題名の部分が不自然に空白になっているものもあった。
諳は挟んであった紙を一枚抜き、机に置いた。
「まずは、こちらを確認します」
「何の本だ」
「本ではありません。報告書です」
学校の名前と日付、それから簡潔な文章が並んでいた。
――出席簿に、存在しないはずの出席番号が記載される。
――該当する生徒について、複数の証言が一致しない。
――一名の生徒が、自分の名前を確認できなくなった。
「学校の怪談か」
「そう呼ぶこともできるでしょう」
「実際に何が起きたんだ」
「確認していません」
諳はペンを取り、報告書の一番下に書き足した。
――調査前。事実未確認。
「いつもそう書くのか」
「確認できていないことを、確認済みとは書けませんから」
「まあ、そうだけど」
「学校へ行きましょう、久遠さん」
マンションのことだって、まだ何も分かっていない。それなのに、次の怪異に付き合うことになるらしい。
俺はため息をついて、諳の後についていった。
*
学校に着いたのは、放課後の少し前だった。
廊下を走る生徒がいて、教室から笑い声が聞こえる。窓の外では運動部が声を上げている。怪異が起きているような雰囲気は、どこにもなかった。
職員室の前で、諳は足を止めた。中へ入る前に記録帳を開き、立ったまま書き始める。
「先に書くのか」
「学校の所在地、建物の構造、調査開始時刻。怪異が起きる前から確認できる事実があります」
「マンションのときも、そうだったよな」
諳は顔を上げなかった。
「後では、正確に残せないことがあります」
「今しかできないこともあるだろ」
返事はなかった。ペンの動く音だけが、廊下の端まで届いていた。
書き終えるまで、諳は一度も手を止めなかった。
*
話を聞かせてくれたのは、二年生の担任教師だった。
最初に異変が起きたのは、三日前の朝のホームルームだったという。
「出席を取っていたら、出席簿に見覚えのない番号があったんです」
教師は机の上に出席簿を置いた。
「クラスは三十人です。一番から三十番まで。ところが三十番の次に、零番と書かれていた」
「誰かが書き足したんじゃないですか」
俺が聞くと、教師は首を横に振った。
「最初はそう思いました。でも、昨日の出席簿にも今日の出席簿にもあるんです。私は書いた覚えがない」
「零番の生徒は、実際にいるんですか」
諳が尋ねた。
「最初に見つけたとき、私はその番号を読み上げました。そうしたら、教室の後ろから返事があったんです」
「誰の声でした」
「分かりません。顔を見たはずなんです。声も聞いた。けれど、どんな顔だったか思い出そうとすると、何も浮かばない」
教師は眉間を押さえた。
「他の生徒にも聞きましたが、皆、そんな生徒はいないと言います。ただ、出席を取ると返事がある」
諳は頷いてペンを走らせ、書き終えてから言った。
「次に起きるとすれば、名前の消失でしょう。消える前に、対象を特定します」
「何の根拠があるんだ」
俺が聞くと、諳は記録帳の過去のページを指で押さえた。
「類似の記録があります。番号だけが先に現れ、その後、名前が失われる」
俺は、教師の話に引っかかるものを感じていた。
「返事はあるんですよね。だったら、声を録音すればいい。顔を覚えてなくても、声なら残せるかもしれない」
教師が目を見開いた。
諳は少し間を置いてから、記録帳に一行足した。
「試す価値はあります」
*
終礼の時間、教室に入ると、何人かの生徒がこちらを見た。教師が事情を説明して協力を頼むと、生徒たちは戸惑いながら席についた。
俺は教室の後ろに立ち、スマートフォンの録音を起動した。
出席簿の紙は、触ると湿ったように柔らかかった。古い紙とインクの匂いが、教室のどこかから微かにした。
教師が一番から順に名前を読み上げる。生徒たちが返事をする。一人ずつ、声が録音されていく。
三十番まで終わった。教室が静かになった。
教師は最後のページをめくった。零番の行だけ、インクが濃かった。
「零番」
返事はなかった。数秒が過ぎる。
「毎回あるわけじゃないんじゃないですか」
そう言いかけたとき、教室の後ろから声がした。
「はい」
俺は振り返った。
最後列の席には誰もいなかった。いないのに、さっきまで誰かがそこに座っていたような気がして、その顔を思い出そうとすると、そこだけ白く抜け落ちた。
録音画面には、波形がはっきり表示されていた。
教師が震える手で出席簿を閉じかけたとき、前の席の女子生徒が声を上げた。
「先生。私、自分の番号が分からない」
女子生徒は、自分の机の名札を見つめていた。名札には名前が書かれている。文字は消えていない。
隣の生徒が、それを指で追った。
「これ、読めるけど……誰の名前だっけ」
「私の名前だよ。知ってるでしょ」
「え?」
女子生徒は自分の名前を口にした。
確かに聞いたはずなのに、次の瞬間、その音は俺の中から滑り落ちた。
「ごめん、今、何て言った?」
隣の生徒が困ったように笑った。
「昨日も一緒に帰ったじゃん」
女子生徒の声が震えた。
「私、あなたとずっと一緒にいたよね」
「ごめん。何の話?」
その返事を聞いた瞬間、女子生徒の表情が凍りついた。
教師が出席簿を開いた。彼女の欄に名前は残っている。読める。それなのに、誰もその名前を彼女と結びつけられない。
諳は出席簿を覗き込み、すぐに記録帳を開いた。
「零番の出現に伴い、一名の生徒の名前が、周囲の生徒の記憶から失われる。出席簿の記載は残存」
ペンが紙の上を走る。
「あんた」
俺が呼んでも、手は止まらなかった。
「変化した時刻と内容を残さなければ、後で照合できません」
「その子が目の前で泣いてるんだぞ」
諳は最後の一行を書き切ってから、顔を上げた。
それから記録帳の前のページを開き、先ほど書いた「名前の消失」の一行に、黙って線を引いた。
俺は女子生徒のそばに膝をついた。
「名前は、自分で分かるんだよな」
「分かる。分かるのに、誰も覚えてくれないの」
彼女は涙を拭った。
「どうして」
俺には何も言えなかった。
「名前が消えたからって、いなくなったわけじゃないだろ」
やっと、それだけ言えた。
「少なくとも、今ここにいることは確認できます」
諳が言った。
それから新しい行を書いた。
――名前を確認できない生徒が、教室にいる。
*
終礼が終わっても、異変は解決しなかった。
クラスメイトたちは、彼女を見て困惑した顔をする。話しかければ返事をする。席は残っているし、机を動かせば邪魔にならないように避ける。それでも、彼女の名前だけは、誰の中にも残らなかった。
録音を確認すると、零番の返事は残っていた。ただ、返事の前後には誰の声も入っていなかった。
「どうするんだ、これ」
「解決したとは言えません。調査を続けます」
諳が出席簿を閉じたとき、机の上の記録帳が、ひとりでに開いた。
風はなかった。ページが一枚、ゆっくりとめくれる。
白い紙の中央に、黒い文字が浮かんでいた。
零番。
その下の欄に、一文字ずつ、何かが現れ始める。
最初の一文字は、出席簿にあった女子生徒の名前の、最初の一文字と同じ形をしていた。
次の瞬間、諳が記録帳を閉じた。
素早い動作だった。
「今の、あの子の」
「今日は、ここまでにします」
「確認しないのか」
「記録を持ち帰り、照合します」
「おい、待てよ」
諳は記録帳を抱えて、教室を出た。
その背中に、俺は言い返そうとした。けれど、記録帳を抱える腕が、いつもより強く見えて、言葉を止めた。
*
図書館へ戻ると、諳は記録帳を机の上に置いた。閉じた表紙を、しばらく見つめている。
「名前は、戻ると思うか」
「分かりません」
諳は机の上の紙を一枚取り、報告書を書き始めた。
確認されたこと。まだ分からないこと。予測したが、外れたこと。
それぞれを分けて書いていく。
俺はその手元を見ていた。
「なあ、あの報告書」
「はい」
「三つ目に、名前を確認できなくなった生徒がいるって書いてあっただろ。俺たちが学校へ行く前に」
「ええ」
「あれ、いつ書かれたんだ」
ペンが止まった。
「作成日は、昨日です」
それ以上、諳は何も言わなかった。
俺も、聞かなかった。
「次の調査にも、行く」
代わりに、そう言った。
「自分のことを知りたいんだ。見たことなら、俺が確かめる」
「……分かりました」
諳はペンを置いた。
「今回の件も、まだ終わっていません」
閉じた記録帳の下で、紙の擦れる音が一度だけした。
その音の中に、誰かが名前を書き足している気配があった。
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