一話 四階のないマンション
「最初から話します」
俺がそう答えると、向かいに座っていた緋室諳は、手元の記録帳を静かに閉じた。
この図書館には、住所がない。
窓の外に何があるのかも、ここへ来るまでにどれだけ歩いたのかも、俺には説明できない。分かるのは、壁一面に並ぶ本と、誰かの記録のために用意された棚があることだけだ。
机の上には、二冊の本が置かれている。
一冊は、題名のない黒い本。もう一冊は、俺が持ってきた本だった。最後のページだけが白紙になっている。
「では、久遠さん。あなたが初めて、この図書館の記録に触れた日のことを聞かせてください」
諳はそう言った。
俺は自分の持ってきた本の表紙を見つめた。
あの日のことは、今でも覚えている。
あのマンションで、俺は存在しないはずの階から助けを求める声を聞いたのだから。
*
「なあ、四階のないマンションって知ってる?」
放課後、佐伯がスマートフォンを見せながら言った。
「何それ。三階建てってこと?」
「違う。五階建てなのに四階がないんだってさ」
「エレベーターのボタンが飛んでるだけじゃないの」
「それなら普通だろ。階段もおかしいらしい」
画面には、古びたマンションの写真が映っていた。外壁は灰色に汚れ、入口のガラス扉には細かなひびが入っている。写真だけなら、特に変わったところはない。
「一階、二階、三階、五階。四階だけない。なのに、四階から人の声がするって噂」
「はいはい」
「興味ないのかよ」
「ない。そういうのは、誰かが話を盛ってるだけだろ」
佐伯は不満そうに口を尖らせて、別の投稿を開いた。
現地へ行ったという人物の短い文章と、エレベーター内部の写真。階数ボタンは、一階、二階、三階、五階。その下に、見慣れないものが一つあった。
「記録係」
「……何だ、これ」
「だろ? 管理会社の悪ふざけか、写真の加工か。どっちにしても変じゃん」
「投稿した人は?」
「このあと連絡が取れなくなった、って書いてある」
「それも作り話だろ」
そう言いながら、俺はもう一度写真を見た。
文字は手書きの紙を貼ったようにも見えたが、画像が粗くて、細部までは分からない。
「行ってみようぜ」
「嫌だよ。まだ何も起きてないのに、夜のマンションへ行く理由がない」
「じゃあ、一人で行くわ」
「好きにしろ」
そのときは、本当にそう思っていた。
その夜、佐伯からマンションの住所が送られてきた。
『写真、加工じゃないかもしれない』
俺は画面をしばらく見つめた。
怖いもの見たさだったのかもしれない。誰かが作った噂に振り回されるのが気に入らなかっただけなのかもしれない。理由は今でもはっきりしない。
覚えているのは、家を出たのが午後十一時二十分だったことだけだ。
*
マンションは住宅街の外れにあった。周囲に店はなく、街灯も少ない。車の音が遠ざかると、辺りは妙に静かになった。
入口の管理会社のプレートは、文字が薄れて読めなかった。
スマートフォンの写真と見比べる。入口のひびも、壁の汚れも一致していた。
「本当にあるんだな……」
つぶやいた声が、思ったより大きく響いた。
画面の時計は、午後十一時四十七分だった。
ガラス扉は鍵がかかっていなかった。正面にエレベーターがあり、ボタンは一階、二階、三階、五階。その下に、「記録係」。
紙ではなかった。金属のボタンに、直接文字が刻まれている。
写真の加工ではない。けれど、管理会社がこんな表示をつける理由もない。古い建物なら、改修のときに何か間違えたのかもしれない。そう考えて、押してみようとした。
指先が触れる直前、エレベーターの奥から声がした。
「……たすけて」
手を引っ込めた。
「誰かいるのか」
返事はない。
代わりに階数表示が動いた。一階。二階。三階。
次に点灯したのは、数字ではなかった。
四階。
表示板の基板の不具合だろう、と俺は思おうとした。この建物に四階はない。そういう噂を聞いて来たのだ。それなのに、表示は最初からそこにあったように光っていた。
扉が開いた。
向こう側には廊下があった。壁には薄い染みが広がり、天井の照明が不規則に明滅している。左右に部屋の扉が並んでいた。
古いマンションの、ありふれた廊下に見えた。ただし、俺の知っているどのマンションにも、こんな廊下はない。
空気が、古い紙とインクの匂いに変わっていた。
「……誰か、いるんですか」
奥から足音が聞こえた。
ぺた、ぺた。
ゆっくり、こちらへ近づいてくる。
後ずさると、背後で扉が閉じた。振り返ると、エレベーターはなく、そこは壁になっていた。
*
逃げなければ、と思った。
だが、どちらへ行けばいいのか分からない。廊下の左右には同じ扉が並び、非常口の緑色の表示を目指しても、同じ廊下へ戻ってくる。
スマートフォンは圏外だった。時計は、十一時四十七分から動かない。
電池切れか、圏外の表示の誤作動か。そう説明をつけようとしたが、画面の秒の表示だけが、確かに止まっていた。
足音は、俺が立ち止まると止まった。
歩き出すと、また鳴った。
「誰か、いませんか!」
「います」
声は、すぐ後ろから聞こえた。
飛び退いて振り返ると、そこに人が立っていた。
長い白銀の髪が、薄暗い廊下の中でも目に入った。黒を基調とした長いコートには銀の装飾があり、ところどころに赤い石が光っている。手には古びた本。
顔立ちからは、年齢も性別も判断できなかった。落ち着いてはいるが、こちらを安心させるために笑っているわけでもない。
「あなたは」
「その質問の前に、一つ聞かせてください。お名前は」
「……久遠蓮です」
「久遠蓮さん。ここへは、何をしに来たのですか」
「このマンションの噂を確かめに。友達が、ネットの投稿を見つけて」
「その投稿を見て、来た」
「そうですけど」
その人物は俺の答えを聞くと、本を開いて何かを書き留め始めた。
「ちょっと。今そんなことしてる場合じゃ」
「そうですね」
あっさり認めたのに、ペンは止まらなかった。
「あなた、何者なんですか」
「緋室諳です」
「ひむろ……あん?」
「はい」
「ここから出る方法、知ってるんですか」
諳は答えず、廊下の壁を見た。
「部屋番号を確認しなければ。階段の位置も、入口からここまでの距離も」
「いや、だから、そんなことより」
廊下の奥で、悲鳴が上がった。
「助けて!」
はっきり聞こえた。
俺は走り出した。廊下の突き当たり、扉の隙間から、白い指が這い出しているのが見えた。
あと数歩。
袖をつかまれた。
「待ってください」
「放せよ! 人がいるんだぞ!」
「まだ、何が起きているのか確かめていません」
「確かめてるうちに、助けられなくなる!」
諳は俺を見た。その目には、恐怖も焦りも浮かんでいなかった。少なくとも、そう見えた。
「……あなたは、そう考えるのですね」
俺の答えを記録するような言い方だった。
照明が消えた。暗闇の中で、誰かが走る音がした。扉の閉まる音。そして沈黙。
明かりが戻ったとき、突き当たりの扉は壁になっていた。
指も、悲鳴を上げた人も、どこにも残っていなかった。
「……今の人は」
諳は本に目を落とした。
「確認できません。ここにいたことは記録できます。しかし、その人が誰で、今どこにいるのかは」
「そんなの」
俺が本に手を伸ばすと、諳は本を引き寄せた。それは、初めて見せた明確な拒絶だった。
「何が書いてあるんだ」
「この場所で起きたことです」
「さっきの人も?」
「……まだ、書いていません」
一瞬だけ、視線が落ちた。
そのわずかな間が、妙に引っかかった。
*
出口を探す間、諳は何度も立ち止まった。
部屋番号を確かめ、壁の染みを調べ、階段の段数を数える。壁の染みは、近くで見ると、文字の列のようにも見えた。
俺が先へ進もうとするたび、諳は記録を優先した。
「もういいだろ。早く出よう」
「記録が不完全です」
「命より大事なのかよ、その本が」
返事はなかった。
ただ、俺を見た。怒ってはいない。かといって、俺の言葉を理解したようにも見えなかった。
「あなたは、記録されることを嫌がるのですね」
「当たり前だろ。勝手に何を書いてるんだ」
「そうですか」
諳は本を閉じた。
「覚えておきます」
その言葉が何を意味するのか、俺にはまだ分からなかった。
廊下の突き当たりに、階段が現れた。
壁には、下の段に「3」、上の段に「5」と書かれている。「4」は、今俺たちが立っているこの場所のはずなのに、どこにも書かれていなかった。
「上がればいいのか」
「おそらく」
「おそらくって」
上り始めて数段、踊り場の壁に小さな扉があった。部屋番号はない。
その隙間から、声がした。
「助けて」
さっきと同じ声だった。
「ここにいるのか!」
扉に手をかけると、後ろから諳の声がした。
「開けてはいけません」
「どうして」
「その先が、部屋だとは限らないからです」
「でも、中に人がいるかもしれない」
「ええ」
諳は否定しなかった。
「それでも、開けてはいけない可能性があります」
振り向くと、諳は本を強く握りしめていた。指先が白い。小さく震えているように見えた。
俺が何か言う前に、扉の向こうから声がした。
「……もう、いいよ」
声が、急に遠のいた。
階段の下から風が吹き上がった。目を閉じた。
次に目を開けたとき、俺たちはマンションの入口に立っていた。
ガラス扉の外では、街灯がいつもどおり道路を照らしている。
スマートフォンの時計は、十一時四十七分のままだった。
*
「出られた、のか」
諳は本を開いた。
「そうですね」
「さっきの人たちは」
「分かりません」
「あんた、何か知ってるんじゃないのか」
諳はすぐには答えず、ページを何枚かめくって、最後のページで手を止めた。何も書かれていなかった。
「記録できたことと、理解できたことは違います」
「それで、何をする人なんだ」
「記録を保管する者です。怪異によって生じた記録を集め、残す。それが私の役目です」
「怪異って、あれが」
「そう呼ぶことにしています」
「人を助けるのも、仕事のうちか」
諳は俺を見た。
「必ずしも、そうではありません」
何も言えなかった。
助けられた人がいたのかもしれない。助けられなかった人もいたのかもしれない。諳はどちらも簡単には否定しなかった。
「あなたのことも、記録する必要があります」
「……は?」
「あなたはあの場所から帰還しました。通常の記録には残らない経験です。確認したいことが」
「やめろ」
自分でも驚くほど強い声が出た。
「俺を本にしないこと。それだけは約束しろ」
長い沈黙があった。
やがて、諳は本を閉じた。
「分かりました」
その声が約束を意味していたのか、俺には分からなかった。
別れ際、あの足音のことを思い出した。
俺が止まると止まった。歩くと鳴った。
あれは、誰の足音だったのだろう。
*
数日後、俺の部屋の前に一冊の本が置かれていた。
差出人の名前はない。表紙に題名もない。
開くと、最初のページにマンションの平面図があった。部屋番号、階段、廊下の染み。俺が見たものが細かく書き留められている。
めくると、俺と諳の会話まで記されていた。
けれど、俺の名前だけは、どこにも書かれていなかった。
最後のページだけが、白紙だった。
捨てようと思った。捨てられなかった。
あの場所で何が起きたのか、俺はまだ何も理解していない。ただ、あの夜、俺は何かを見落とした。
そして、あの人も、何かを見落としているような気がした。
*
話し終えると、図書館の静けさが戻ってきた。
向かいの諳は、最後まで口を挟まなかった。
「これが、最初の日です」
諳は、俺の持ってきた本を開いた。最後のページは、白紙のままだった。
「あなたは、約束を求めました」
「ああ」
「私は、あなたを本にしないと約束した」
「そうだな」
「約束は、守ったつもりです」
諳は白紙のページを見つめた。
「それでも、あなたはここに来た」
「自分の記録を確かめるために」
俺は答えた。
「俺が何者なのか。あのマンションで何が起きたのか。それを知るために」
諳はしばらく黙っていた。
やがてペンを取り、白紙の上に構えた。
「では、ここからは、一緒に確かめましょう」
ペン先は、まだ紙に触れていなかった。
面白かったら星よろしくお願いします




