プロローグ 記録係
その図書館には、住所がなかった。
地図に載っていないという意味ではない。地図を作る者がそこを描こうとすると、いつの間にか別の場所を描いてしまうのだ。
道を覚えている者もいれば、建物の外観を覚えている者もいる。しかし、図書館へ続く道を他人に正確に説明できた者はいなかった。
それでも、図書館は存在していた。
少なくとも、そこに勤める司書は、そう信じていた。
*
窓のない書庫に、紙をめくる音が響いていた。
天井まで届く書架には、無数の本が並んでいる。革張りの本、布張りの本、表紙のない本。題名の代わりに番号だけを与えられた本もあれば、背表紙に何も記されていない本もあった。
そのすべてが、何らかの記録だった。
誰かが見たもの。誰かが聞いたもの。誰かが忘れたもの。そして、誰も覚えていないはずのもの。
書架の間を、一人の司書が歩いていた。
白銀の髪は腰よりも長く、歩くたびに静かに揺れる。黒いロングコートには銀の装飾が施され、ところどころに赤い石が埋め込まれていた。赤みを帯びた瞳が、背表紙を一つずつ確かめていく。
腕には一冊の本があった。題名はない。蔵書番号もない。
それでも彼女は、その本を元の場所へ戻そうとしていた。
記録帳には、確かにこの棚へ収めると書かれている。
なのに、該当する棚には一冊分の隙間が空いたままだった。
空白そのものが、そこにあるべきものを覚えているようだった。
彼女は記録帳の端を指で押さえた。紙の角を折りかけて、やめる。
それから棚の前に小さな札を置いた。
――未確認。
二文字をしばらく見つめ、何事もなかったかのように歩き出した。
*
図書館の奥には閲覧室がある。机が一つ、椅子が二つ。机の上には黒い表紙の本が置かれていた。
表紙に題名はない。ただ、見返しの最初のページに、一行だけ記されている。
本記録は、収蔵済みである。
司書はその文字を確かめ、ページをめくった。
何も書かれていなかった。次のページも、その次も。終わりまで白紙だった。
それなのに、本は収蔵済みとされている。
彼女は本を閉じた。
「……記録があることと、内容が分かることは、同じではありませんね」
誰に向けた言葉でもなかった。
記録帳に一文を書き足す。
――内容未確認。現状のまま保管する。
そのとき、書庫のどこかで鈍い音がした。何かが棚から落ちたような音だった。
続いて、足音が聞こえた。
来館者は珍しくない。けれど、この足音には聞き覚えがあった。
司書は記録帳を閉じ、題名のない黒い本を一度だけ見て、受付へ向かった。
*
受付には、来館者のための椅子が一脚置かれている。その上には、記入欄の多い用紙と一本の鉛筆。
名前。来館理由。持ち込んだ記録。記録の取り扱いに関する確認欄。
司書が用紙を整え、鉛筆の向きを直したとき、足音が止まった。
「ここが……図書館?」
受付の向こうに、青年が立っていた。
黒い髪に、黒い目。どこにでもいそうな青年だった。目つきは、何かを鋭く見定めているようにも、ただぼんやり眺めているようにも見える。
脇に、題名のない本を一冊抱えていた。
「ええ。来られたのですね、久遠さん」
「……俺の名前、覚えてたんですか」
「記録はしていません。ただ、聞いたことは覚えています」
青年――久遠蓮は、受付の用紙を見た。記入欄を一つずつ確かめるような視線だった。
諳は記録帳を開き、ペンを持った。
書かなかった。蓮がこちらを見ていたからだ。
「何を書くつもりですか」
「あの夜の件について、記録を作成します」
「俺のことも?」
返事はなかった。
蓮は用紙から手を離した。
「俺は、まだ何も話していません。何を見たのかも、どうしてここに来たのかも」
「あなたの話を聞く必要があります」
「それだけですか」
諳は答えなかった。
いつもなら記録を先に作る。場所、時刻、目撃者の数、確認できた事実。証言の照合はそのあとだ。手順を変える理由はどこにもない。
それなのに、ペンが動かなかった。
「久遠さん。あなたは、ここへ来る前のことを、どこまで覚えていますか」
蓮の表情がわずかに動いた。
諳はそれを見て、記録帳には何も書かなかった。
「覚えていることなら、あります」
「では――」
「でも、それをあなたに話すかどうかは、俺が決めます」
諳は静かに頷いた。
「分かりました」
諦めたわけではなかった。ただ、すでにこの青年について何かが記録されている気がして、しかしその記録は、どこにも完成していなかった。
諳は記録帳を閉じた。
「まずは、お話を聞かせてください」
蓮はしばらく黙っていたが、やがて受付の椅子を引いた。
「……最初から話します」
彼が座る。諳は向かい側に座った。
机の上には、白紙の用紙が一枚。蓮は抱えていた本をその隣に置いた。
諳は鉛筆を取り、最初の一文字を書こうとして、手を止めた。
蓮がこちらを見ている。
だから、今は書かなかった。
図書館の奥で、紙の擦れる音が一度だけした。
その音は記録帳には書かれなかった。
まだ、何も始まっていなかったからだ。
私の3作品目です拙い文ですがよろしくお願いします。カクヨムメインで投稿しています、なのでカクヨムの方が数話進んでます。




