九話 逆さまの遺影
遺影が、逆さまになっていた。
図書館に届いた報告書には、古い一軒家で起きている奇妙な出来事が記されていた。仏間に飾られた遺影が、夜のあいだに上下逆さまになる。家族が元に戻しても、翌朝にはまた逆さまになっている。
そして、写真を直すたびに、故人について、家族の誰も知らない話が見つかるという。
「最初の晩は、故人が家族に隠れて借金を返していたこと。次は、遠方の友人と手紙を交わしていたこと。その次は、亡くなる直前まで、誰かに謝罪しようとしていたこと」
諳は報告書を閉じた。
「家族が知らなかっただけじゃないのか」
「報告書には、家族の知る人物像と、あまりに食い違うとあります」
「写真を直さなければいい」
「直さなかった場合に何が起きるかも、確認できていません」
「確認するために、また誰かが何かを見つけるのを待つのか」
諳は、少しだけ間を置いた。
「写真に触れる前に、記録を取ります」
俺は、それ以上は言わなかった。
*
家は、駅から離れた住宅街の奥にあった。
門の脇の郵便受けは、錆びて蓋が開いたままだった。庭の隅に、使われなくなった物干し竿が立てかけてある。人の気配はあるのに、どこか、時間だけが止まった家だった。
玄関を開けてくれたのは、五十代の女性だった。依頼人の長女で、保科咲という。黒いカーディガンを着て、目の下に薄い隈をつくっていた。
仏壇の上に、額縁が置かれていた。
白髪交じりの男性が、正面を向いている。紺色の背広に白いシャツ。口元には、笑っているのかどうか分からない、控えめな表情があった。
額縁は、上下逆さまになっていた。
「昨日の夜も、直したんです」
俺は、額縁に手を伸ばしかけた。
「触れないでください」
諳が、言った。
「直す前に、現状を記録します」
手を引いた。額縁は、逆さまのまま、そこにあった。
咲は、写真を見上げた。
「父は、こういう冗談をする人ではありませんでした」
仏壇の脇に、小さな箱があった。
見せてもらうと、中には、封筒と古い写真が何枚か入っていた。返済記録の控え。若い頃の父親が、知らない男性と並んで写った写真。裏には、父の字で名前と住所があった。
「同僚だった方は、もう亡くなっていました」
咲が、写真の男性を指した。
「ご家族に連絡したら、父からの手紙を、全部、取ってあったそうです。三十年分の手紙を」
「お父さんは、家で手紙を書くところを見せなかった?」
「一度も。書斎に鍵をかけていたわけでもないのに」
咲は、箱の蓋に、そっと手を置いた。
封筒の一つを開くと、便箋の最初の行が目に入った。
――あのとき、言えなくて、すまなかった。
宛名は、なかった。
その先は、途中で途切れていた。
俺は、便箋を元に戻した。
*
夕方、仕事帰りの弟が、仏間に顔を出した。
保科誠は、咲より十歳ほど下に見えた。背広の襟を緩めながら、遺影を一瞥して、すぐに目を逸らした。
「親父は、家のことを考えない人でした」
誠は、畳に座らなかった。
「帰ってきても、ほとんど口を利かない。参観日にも来なかった。借金を返していた? 手紙? それなら、なんで俺たちに何も言わなかったんだ」
「誠」
咲が、小さく言った。
「姉さんは、親父を庇いすぎだ」
「庇ってない。ただ、分からなくなったの」
二人のやりとりを、諳は黙って聞いていた。
ペンの先が、紙の上で止まっている。
返済記録や手紙のやりとりは、相手側の資料と、すでに一致していた。借金の返済も、同僚への手紙も、確かに事実だった。
それでも、咲の知る父と、誠の知る父は、同じ人間には見えなかった。
帰り際、誠は、玄関で一度だけ振り返った。
「あれ、笑ってるのか。昔から、分からなかった」
その声に、怒りだけではないものが、混じっていた。
どちらが間違っているのか、俺には決められなかった。
*
誠が帰ったあと、夜の仏間には、俺一人が残った。
諳は、居間で記録を取っている。襖は開けたままだった。
俺は、額縁の裏を調べた。
釘は、壁にしっかり打ち込まれている。紐は、擦れた跡もなく、切れていない。ガラスと枠の隙間に、細い指が入る余裕もない。誰かが夜中に逆さまにするなら、必ず何か、痕跡が残るはずだった。
何も、なかった。
線香の匂いが、薄く残っていた。居間の壁時計の秒針だけが、規則正しく進んでいる。逆さまの男の目が、天井の方から、俺を見下ろしていた。
見られている、と思った。写真に、見られているのではない。写真が、何かを見ている気がした。
床の畳にも、足跡はない。仏壇の線香の灰も、乱れていなかった。
「何も出てこないな」
「はい」
居間から、諳の声がした。
「時刻を確認します」
茶を運んできた咲が、俺の隣に座った。
「父は、家族の前では、ほとんど笑わない人でした」
湯呑みを置いて、咲は言った。
「私が子供のころ、学校で何かあっても、聞いてくれた記憶がありません」
「お父さんに、聞いてみたいことはありますか」
俺が尋ねると、咲は少し考えた。
「どうして、何も言ってくれなかったのか。……それだけです」
その言葉のあと、仏間から、乾いた音がした。
「あんた、さっきから何も言わないな」
「記録を取っています」
「この家の、何かが気になるのか」
「確認できていないことは、書けません」
諳は、顔を上げなかった。
その直後だった。
額縁のガラスが、かすかに鳴った。
逆さまの遺影が、ゆっくりと揺れた。
額縁の上端が、壁からわずかに離れる。
次の瞬間、額縁が傾いた。
咲が息を呑んだ。
額縁は、壁に掛けられたまま、半回転するように向きを変えた。
写真が、正しい向きになった。
咲は、両手で口を押さえた。
「お父さん」
声は、ほとんど、息だった。
「二十時十七分」
諳が、時刻を書き留めた。
「額縁が回転。外部からの接触は確認できません」
写真の中の男性は、正面を向いていた。
笑っているのかどうか、やはり分からない顔のまま。
その夜は、それ以上、何も起きなかった。
咲は、居間のソファで、いつのまにか眠っていた。俺は、仏間の壁にもたれたまま、うとうとした。
目を開けたとき、窓の外は、薄く明るくなっていた。
諳は、同じ位置に座っていた。記録帳を膝に置いたまま、遺影のほうを向いている。夜のあいだ、一度も動かなかったように見えた。
「寝てないのか」
「はい」
「何か、あったか」
「いいえ」
それだけだった。
*
夜が明けてから、咲は、納戸を探し始めた。
父親の古い鞄は、その奥にあった。革の角がすり減り、留め具は錆びている。咲は、何年も、その存在を忘れていたという。
内張りの下から、封筒が出てきた。
中には、数枚の便箋と、子供が描いた絵が入っていた。背の高い男性と、女性と、小さな子供。三人が、手をつないでいる。
裏には、子供らしい文字で、一言だけ書かれていた。
――また、あそびにきてね。
「誰が描いたんですか」
諳が尋ねた。
「分かりません。父の字では、ないと思います」
諳は、記録帳に内容を書き留めた。
咲の許しを得て、俺たちは絵を預かり、図書館で確かめた。クレヨンの色は褪せ、紙の端が黄ばんでいる。諳は光に透かして、紙の質を調べた。
「少なくとも、三十年ほど前のものです」
「父親の鞄の中に、そんなに長く」
「はい」
三人の人物の顔は、描かれていなかった。丸だけの顔に、目も口も、ない。
俺は、絵を見つめながら言った。
「秘密だったから出てきたんじゃなくて、家族が知らなかっただけかもしれない」
「その可能性も、あります」
諳は、記録帳から目を上げなかった。
その日の午後、俺たちは再び保科家を訪れた。
咲は、見つかった便箋を、机に並べていた。
「弟にも、絵を見せました。でも、何も思い出せないそうです。見せたあと、しばらく、黙っていました」
「お父さんのことを、まだ調べますか」
諳が尋ねた。
咲は、首を横に振った。
「いいえ。これ以上、探すのは、やめようと思います」
絵を、そっと封筒に戻した。
「今夜は、写真を直さずに置いておきます」
「それで、いいと思います」
俺は、そう言った。
咲は、少しだけ笑った。
そのとき、玄関の戸が鳴った。
誠だった。仕事を抜けてきたらしく、息が上がっている。
「絵を、もう一度見せてくれないか」
咲が、封筒を差し出した。
誠は、絵を受け取って、長いあいだ、黙って見つめていた。三つの丸い顔を、指先で、そっとなぞった。
「……何も、思い出せない」
小さな声だった。
「でも、捨てないでくれ」
咲は、頷いた。
*
帰る前に、俺は仏間に立ち寄った。
遺影は、正しい向きのまま、壁に掛けられていた。
額縁の中の男性は、やはり、笑っているのかどうか分からない顔をしていた。
隣に、諳が立った。
諳は、写真から目を離さなかった。
しばらく、そうしていた。
図書館に戻ってからも、諳は報告書の最後の一行を、書き終えるまで、長く見つめていた。
――原因未確認。
ペンを置く前に、諳は、写真の複写を、もう一度だけ開いた。
それから、何も言わず、記録帳を閉じた。
保科家の遺影が、その夜、再び逆さまになったのかどうか。
それは、報告されなかった。
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