↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
零番の司書 ―記録図書館の怪異譚―  作者: ネメセイア
第一章 欠けた階と記録される人々

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/11

十話 置き去りの傘

その傘を持ち帰った人間は、同じ夢を見る。


 雨の降る道を歩いている。傘は差しているのに、肩も、袖も、靴も濡れている。道の両側には見覚えのない家が並び、どの窓にも明かりはない。


 道の先に、一人の人間が立っている。顔は見えない。その人間は、雨の中で、ずっとこちらを待っている。


 夢を見た人間は、決まって、そこで目を覚ます。


「傘を返したあとも、夢は終わらないそうです」


 諳は、報告書を机に置いた。


「持ち主を探した人も、元の場所へ戻した人も、同じ夢を見ています。傘は、駅前の古いバス停にあります。雨の日になると、必ず一本、置かれているそうです」


「誰かが忘れていっただけじゃないのか」


「そうかもしれません」


「持ち帰らなきゃいいだけだろ」


「持ち帰らなかった人には、何も起きていません」


 諳は、記録帳を持って立ち上がった。


「まず、場所を確認します。傘には、触れないでください」


     *


 バス停に着いたとき、雨は降っていなかった。


 駅前の商店街から外れた道に、小さな待合所があった。屋根は錆び、透明な板には細かい傷が無数についている。ベンチの端に、紺色の傘が一本、立てかけられていた。


 柄は黒く、先に小さな傷がある。布地には、乾いた泥のような染みが残っていた。


 諳は、傘に触れずに、石突きに顔を近づけた。


「数字が、刻まれています」


「どれ」


「三十一年前の、十月十二日です」


 諳は、それを記録帳に写した。


 忘れ物にしては、妙にきれいな傘だった。骨も折れていない。長く放置された物の傷みがない。


 ベンチの下の地面に、小さな濡れた跡が、点々と続いていた。雨は、降っていない。跡は、道の向こうの方へ、細く伸びていた。


「持ち帰って調べたほうが、早いだろ」


「触れないでください」


 諳は、傘から目を離さなかった。


「現状の記録が、先です」


 俺は、立てかけた傘の影を見つめた。


 地面の跡は、乾く前に、なぜか、増えていた。


 俺は、ベンチに腰を下ろした。


 その前を通りかかった六十代くらいの男性が、傘を見て足を止めた。


「まだ、あるのか。私が子供のころから、雨の日には、誰かが置いていくんです。傘そのものは、違うでしょうけど」


「置いていくところを、見たことは」


「ありませんね。ただ、昔、この辺りで、帰ってこなかった人がいたと聞いたことがあります。雨の日だったそうです」


 男性は、買い物袋を持ち直して、歩いていった。


 雨は、降っていなかった。


 それなのに、傘の先から、水が一滴、落ちた。


     *


 その夜、俺は夢を見た。


 雨の降る道を、紺色の傘を差して歩いていた。靴も、ズボンの裾も濡れている。傘は、雨を防いでいなかった。


 道の先に、人影があった。こちらに背を向けて立っている。


 近づこうとしたが、足が重かった。一歩進むごとに、道が長くなる。雨の匂いに、古い布の匂いが混じっていた。


 人影が、振り返った。顔は、暗くて見えなかった。


 人影は、片手を差し出した。


 何も持っていない手だった。それでも、何かを受け取るのを待っているように見えた。


 そこで、目が覚めた。


 部屋は暗く、窓の外は晴れていた。


 それなのに、肩と袖が、冷たく濡れていた。


     *


 翌朝、図書館で、俺は夢のことを話した。


 諳は、途中で口を挟まなかった。


 話し終えたとき、俺は、諳の左の袖が、わずかに湿っているのに気づいた。


「あんたも、見たのか」


「はい。私は、手を伸ばしたところで目が覚めました」


 諳は、記録帳に書き込んだ。


「夢の内容は一致しています」


 それ以上は、何も言わなかった。


「持ち主を探す」


 俺が言うと、諳はペンを止めた。


「手掛かりは、ほとんどありません」


「だから、探すんだ」


 諳は、少しの間、俺を見ていた。


「現地で、確認します」


     *


 バス停の近くに、小さな商店があった。


 店主の女性は、古い帳面を出してきた。


「忘れ物は、昔はここで預かっていたんです。バス停に置かれたものも、たまに」


 鉛筆で書かれた古い行に、指が止まった。


 ――紺色の傘。一人分。引き取りなし。


「一人分?」


 俺は、その文字を指さした。


「傘なら、一本と書きませんか」


「そうですね。私の字では、ありません」


「そのころ、近所で、行方不明になった人は」


「いたと聞いています。名前は、思い出せません。どこで、いなくなったのかも」


 店主は、申し訳なさそうに笑った。


「ただ、その傘を預かったとき、これだけは覚えています。持ち主が、取りに来なかった、というより、取りに来られなかった、という気がしたんです。理由は、分かりませんけど」


 帳面の紙は、湿気で、ところどころ文字が滲んでいた。


 俺は、「一人分」の一行を、もう一度、見た。


     *


 午後から、雨が降り始めた。


 バス停の傘は、朝と同じ場所にあった。屋根を叩く雨の音が、強くなっていく。バスが来て、客を乗せて、去った。傘だけが、残っていた。


 俺は、傘を手に取った。


「久遠さん」


「少しだけだ」


 諳は、止めなかった。


 傘を開くと、布地の内側に、小さな文字が縫い付けられているのが見えた。黒い糸が、骨に沿って、一針ずつ。


 ――待っています。


「昨日は、なかった」


 諳が、近づいた。


「撮影します。動かさないでください」


 シャッター音がして、俺は傘を閉じ、元の場所に戻した。


 そのとき、道の向こうから、杖をついた老人が歩いてきた。老人は、バス停の前で足を止め、傘を見て目を細めた。


「まだ、待っているのか」


「この傘を、知っているんですか」


「傘のことは知らん。ただ、ここで誰かを待っていた男なら、知っている」


 老人は、雨の向こうを見た。


「毎日、夕方になると、ここへ来ていた。雨の日は、必ずだ。傘を二本持ってな」


「二本」


「一本は、自分のだろう。もう一本が、誰のだったのかは、知らん」


 老人は、雨の音に目を細めた。


「そのうち、帰らなくなった。家族が待っていたが、どこへ行ったのかは、誰も知らん」


 老人は、杖を握り直して、雨の中へ消えていった。


     *


 その夜、もう一度、夢を見た。


 雨の道。暗い家々。人影が、前より、少しだけ近かった。


 人影は、手を伸ばしていた。昨日は、何を受け取ろうとしているのか、分からなかった。


 今日は、傘を閉じた。


 雨が、肩に落ちた。髪から水が垂れた。それでも、人影は動かなかった。


「何を、待ってるんだ」


 声を出すと、人影の手が、わずかに動いた。


 もう一歩、近づいた。


「誰を、待ってるんだ」


 答えは、なかった。


 人影は、伸ばした手を、ゆっくりと閉じた。


 空を握るように。


 目が覚めると、雨は止んでいた。肩の濡れは、もう、乾いていた。


     *


 傘は、バス停の営業所に預けた。


 事情を説明すると、職員は困った顔をしたが、忘れ物として預かり、問い合わせがあれば連絡する、と言ってくれた。


 預ける前に、もう一度だけ、傘の内側を確かめた。


 黒い糸の文字は、消えていなかった。


 一週間、俺は夢を見なかった。


 営業所から連絡があったのは、その翌週だった。


 傘を引き取りに来たのは、七十代くらいの女性だった。古い写真を、胸元に持っている。


 職員が、傘を差し出した。


 女性は、柄を見て、布地を見て、内側を確かめた。黒い糸の文字を見た瞬間、女性は目を閉じた。


「……そうです。主人の傘です」


 声が、かすれていた。


「三十年以上前に、帰ってこなくなりました。雨の日に出かけて、そのまま」


「それは、何月何日ですか」


 諳が尋ねた。


「十月十二日です。忘れたことは、ありません」


 諳は、記録帳の、石突きの数字の写しを、一度だけ見た。


 何も言わなかった。


「どうして、ここにあると」


「夢を、見たんです」


 女性は、目を開けた。


「雨の道を歩いていて、ずっと先に、主人が立っていました。何も言わずに、手を伸ばしていて。私も手を伸ばしたら、目が覚めました」


 それは、俺たちが見た夢と、同じだった。


「主人は、雨の日の約束を、一度も破らない人でした」


 女性は、写真を握りしめた。


「傘の内側に、私が縫ったんです。待っています、と。帰ってきたら、すぐ分かるように」


 女性は、そこで、少しだけ笑った。


「主人には、幼いころに家を出た弟がいました。弟が帰ってくるのを、あの人は、ずっと待っていたんです。雨の日になると、このバス停で」


 諳が、静かに尋ねた。


「ご主人は、その弟さんを待っていた」


「そうだと、思います。本当のことは、分かりません」


 女性は、傘を受け取った。


「持って、帰ります」


 傘は、持ち主のもとへ戻った。


 けれど、持ち主が帰ってきたわけではなかった。


 営業所を出ると、空は、すっかり晴れていた。


 駅前の道には、水たまりが、いくつか、残っていた。


 来たときと同じ道のはずなのに、帰り道が、少しだけ、長く感じられた。


     *


 翌朝、諳から短い連絡が届いた。


 傘を受け取った女性は、その夜、もう一度、夢を見たという。


 けれど、雨は降っていなかった。道の先に、人影も、いなかった。


 誰もいないバス停に、朝日が差していた。女性は、夢の中で、しばらくそこに立って、それから、家へ帰ったという。


 報告書の最後に、諳は、短く書いていた。


 ――傘の返却を確認。依頼人の夢は再発していない。原因および、夢の中の人物の正体は未確認。


 その夜、俺は、夢を見なかった。


 窓の外は、晴れていた。


 けれど、手帳に挟んだ、傘の石突きの数字の写しだけが、なぜか、少し、湿っていた。


面白かったら星や感想よろしくお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。