十話 置き去りの傘
その傘を持ち帰った人間は、同じ夢を見る。
雨の降る道を歩いている。傘は差しているのに、肩も、袖も、靴も濡れている。道の両側には見覚えのない家が並び、どの窓にも明かりはない。
道の先に、一人の人間が立っている。顔は見えない。その人間は、雨の中で、ずっとこちらを待っている。
夢を見た人間は、決まって、そこで目を覚ます。
「傘を返したあとも、夢は終わらないそうです」
諳は、報告書を机に置いた。
「持ち主を探した人も、元の場所へ戻した人も、同じ夢を見ています。傘は、駅前の古いバス停にあります。雨の日になると、必ず一本、置かれているそうです」
「誰かが忘れていっただけじゃないのか」
「そうかもしれません」
「持ち帰らなきゃいいだけだろ」
「持ち帰らなかった人には、何も起きていません」
諳は、記録帳を持って立ち上がった。
「まず、場所を確認します。傘には、触れないでください」
*
バス停に着いたとき、雨は降っていなかった。
駅前の商店街から外れた道に、小さな待合所があった。屋根は錆び、透明な板には細かい傷が無数についている。ベンチの端に、紺色の傘が一本、立てかけられていた。
柄は黒く、先に小さな傷がある。布地には、乾いた泥のような染みが残っていた。
諳は、傘に触れずに、石突きに顔を近づけた。
「数字が、刻まれています」
「どれ」
「三十一年前の、十月十二日です」
諳は、それを記録帳に写した。
忘れ物にしては、妙にきれいな傘だった。骨も折れていない。長く放置された物の傷みがない。
ベンチの下の地面に、小さな濡れた跡が、点々と続いていた。雨は、降っていない。跡は、道の向こうの方へ、細く伸びていた。
「持ち帰って調べたほうが、早いだろ」
「触れないでください」
諳は、傘から目を離さなかった。
「現状の記録が、先です」
俺は、立てかけた傘の影を見つめた。
地面の跡は、乾く前に、なぜか、増えていた。
俺は、ベンチに腰を下ろした。
その前を通りかかった六十代くらいの男性が、傘を見て足を止めた。
「まだ、あるのか。私が子供のころから、雨の日には、誰かが置いていくんです。傘そのものは、違うでしょうけど」
「置いていくところを、見たことは」
「ありませんね。ただ、昔、この辺りで、帰ってこなかった人がいたと聞いたことがあります。雨の日だったそうです」
男性は、買い物袋を持ち直して、歩いていった。
雨は、降っていなかった。
それなのに、傘の先から、水が一滴、落ちた。
*
その夜、俺は夢を見た。
雨の降る道を、紺色の傘を差して歩いていた。靴も、ズボンの裾も濡れている。傘は、雨を防いでいなかった。
道の先に、人影があった。こちらに背を向けて立っている。
近づこうとしたが、足が重かった。一歩進むごとに、道が長くなる。雨の匂いに、古い布の匂いが混じっていた。
人影が、振り返った。顔は、暗くて見えなかった。
人影は、片手を差し出した。
何も持っていない手だった。それでも、何かを受け取るのを待っているように見えた。
そこで、目が覚めた。
部屋は暗く、窓の外は晴れていた。
それなのに、肩と袖が、冷たく濡れていた。
*
翌朝、図書館で、俺は夢のことを話した。
諳は、途中で口を挟まなかった。
話し終えたとき、俺は、諳の左の袖が、わずかに湿っているのに気づいた。
「あんたも、見たのか」
「はい。私は、手を伸ばしたところで目が覚めました」
諳は、記録帳に書き込んだ。
「夢の内容は一致しています」
それ以上は、何も言わなかった。
「持ち主を探す」
俺が言うと、諳はペンを止めた。
「手掛かりは、ほとんどありません」
「だから、探すんだ」
諳は、少しの間、俺を見ていた。
「現地で、確認します」
*
バス停の近くに、小さな商店があった。
店主の女性は、古い帳面を出してきた。
「忘れ物は、昔はここで預かっていたんです。バス停に置かれたものも、たまに」
鉛筆で書かれた古い行に、指が止まった。
――紺色の傘。一人分。引き取りなし。
「一人分?」
俺は、その文字を指さした。
「傘なら、一本と書きませんか」
「そうですね。私の字では、ありません」
「そのころ、近所で、行方不明になった人は」
「いたと聞いています。名前は、思い出せません。どこで、いなくなったのかも」
店主は、申し訳なさそうに笑った。
「ただ、その傘を預かったとき、これだけは覚えています。持ち主が、取りに来なかった、というより、取りに来られなかった、という気がしたんです。理由は、分かりませんけど」
帳面の紙は、湿気で、ところどころ文字が滲んでいた。
俺は、「一人分」の一行を、もう一度、見た。
*
午後から、雨が降り始めた。
バス停の傘は、朝と同じ場所にあった。屋根を叩く雨の音が、強くなっていく。バスが来て、客を乗せて、去った。傘だけが、残っていた。
俺は、傘を手に取った。
「久遠さん」
「少しだけだ」
諳は、止めなかった。
傘を開くと、布地の内側に、小さな文字が縫い付けられているのが見えた。黒い糸が、骨に沿って、一針ずつ。
――待っています。
「昨日は、なかった」
諳が、近づいた。
「撮影します。動かさないでください」
シャッター音がして、俺は傘を閉じ、元の場所に戻した。
そのとき、道の向こうから、杖をついた老人が歩いてきた。老人は、バス停の前で足を止め、傘を見て目を細めた。
「まだ、待っているのか」
「この傘を、知っているんですか」
「傘のことは知らん。ただ、ここで誰かを待っていた男なら、知っている」
老人は、雨の向こうを見た。
「毎日、夕方になると、ここへ来ていた。雨の日は、必ずだ。傘を二本持ってな」
「二本」
「一本は、自分のだろう。もう一本が、誰のだったのかは、知らん」
老人は、雨の音に目を細めた。
「そのうち、帰らなくなった。家族が待っていたが、どこへ行ったのかは、誰も知らん」
老人は、杖を握り直して、雨の中へ消えていった。
*
その夜、もう一度、夢を見た。
雨の道。暗い家々。人影が、前より、少しだけ近かった。
人影は、手を伸ばしていた。昨日は、何を受け取ろうとしているのか、分からなかった。
今日は、傘を閉じた。
雨が、肩に落ちた。髪から水が垂れた。それでも、人影は動かなかった。
「何を、待ってるんだ」
声を出すと、人影の手が、わずかに動いた。
もう一歩、近づいた。
「誰を、待ってるんだ」
答えは、なかった。
人影は、伸ばした手を、ゆっくりと閉じた。
空を握るように。
目が覚めると、雨は止んでいた。肩の濡れは、もう、乾いていた。
*
傘は、バス停の営業所に預けた。
事情を説明すると、職員は困った顔をしたが、忘れ物として預かり、問い合わせがあれば連絡する、と言ってくれた。
預ける前に、もう一度だけ、傘の内側を確かめた。
黒い糸の文字は、消えていなかった。
一週間、俺は夢を見なかった。
営業所から連絡があったのは、その翌週だった。
傘を引き取りに来たのは、七十代くらいの女性だった。古い写真を、胸元に持っている。
職員が、傘を差し出した。
女性は、柄を見て、布地を見て、内側を確かめた。黒い糸の文字を見た瞬間、女性は目を閉じた。
「……そうです。主人の傘です」
声が、かすれていた。
「三十年以上前に、帰ってこなくなりました。雨の日に出かけて、そのまま」
「それは、何月何日ですか」
諳が尋ねた。
「十月十二日です。忘れたことは、ありません」
諳は、記録帳の、石突きの数字の写しを、一度だけ見た。
何も言わなかった。
「どうして、ここにあると」
「夢を、見たんです」
女性は、目を開けた。
「雨の道を歩いていて、ずっと先に、主人が立っていました。何も言わずに、手を伸ばしていて。私も手を伸ばしたら、目が覚めました」
それは、俺たちが見た夢と、同じだった。
「主人は、雨の日の約束を、一度も破らない人でした」
女性は、写真を握りしめた。
「傘の内側に、私が縫ったんです。待っています、と。帰ってきたら、すぐ分かるように」
女性は、そこで、少しだけ笑った。
「主人には、幼いころに家を出た弟がいました。弟が帰ってくるのを、あの人は、ずっと待っていたんです。雨の日になると、このバス停で」
諳が、静かに尋ねた。
「ご主人は、その弟さんを待っていた」
「そうだと、思います。本当のことは、分かりません」
女性は、傘を受け取った。
「持って、帰ります」
傘は、持ち主のもとへ戻った。
けれど、持ち主が帰ってきたわけではなかった。
営業所を出ると、空は、すっかり晴れていた。
駅前の道には、水たまりが、いくつか、残っていた。
来たときと同じ道のはずなのに、帰り道が、少しだけ、長く感じられた。
*
翌朝、諳から短い連絡が届いた。
傘を受け取った女性は、その夜、もう一度、夢を見たという。
けれど、雨は降っていなかった。道の先に、人影も、いなかった。
誰もいないバス停に、朝日が差していた。女性は、夢の中で、しばらくそこに立って、それから、家へ帰ったという。
報告書の最後に、諳は、短く書いていた。
――傘の返却を確認。依頼人の夢は再発していない。原因および、夢の中の人物の正体は未確認。
その夜、俺は、夢を見なかった。
窓の外は、晴れていた。
けれど、手帳に挟んだ、傘の石突きの数字の写しだけが、なぜか、少し、湿っていた。
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