第4話 白百合の針
白百合の銀針は、勝利のあとに落ちてきた。
氷狼王種の額から抜け落ちたそれは、指でつまめば折れてしまいそうなほど細かった。
先端には、透明な魔石。
根元には、小さな紋章。
白百合。
聖女アメリ様の慈善会が掲げる印だった。
ミレットは青ざめた。
「お嬢様……それは」
「決めつけてはいけないわ」
私は銀針を布に包んだ。
「紋章は偽造できます。証拠は積み上げるものよ」
そう告げた声が、自分でも少し冷たいと思った。
けれど、胸の奥では怒りが燃えていた。
王都で婚約破棄されたことより。
貴族たちに笑われたことより。
悪役令嬢と呼ばれたことより。
この針が、痩せた子どもたちのいる砦へ氷狼を誘導した可能性の方が、ずっと許せなかった。
壊れたものを見て見ぬふりする人間は嫌いだ。
壊したものを、善意の顔で隠す人間はもっと嫌いだ。
「アルヴィオン。この針を解析できる?」
地下から伸びる金色の光が、私の手元を照らした。
『解析可能。ただし、炉心出力不足。完全解析まで三時間』
「今わかることだけでいいわ」
『魔獣誘導術式。怒り、飢餓、帰巣本能を増幅。誘導対象を特定地点へ固定するための魔導針です』
「つまり、氷狼たちは自然にここへ来たのではない」
『肯定。灰雪領エルデン砦を襲撃対象として設定されていました』
広場にいた人々が、息を呑んだ。
氷狼との戦いは終わったばかりだ。
壊れた荷車。
焦げた油の跡。
折れた槍。
凍った血。
雪の上に残る恐怖。
それが偶然ではなかったと知れば、誰だって震える。
代官グレンが拳を握った。
「誰が……こんなことを」
「それを今から調べます」
私は銀針をミレットに渡した。
「保管して。素手で触らないように」
「はい」
ミレットの手は震えていた。
けれど、彼女は針から目を逸らさなかった。
強い子だ。
泣きながらでも、仕事をする。
私の侍女としては、少し優秀すぎるかもしれない。
「けが人の数は?」
「重傷三名、軽傷十七名です」
グレンが即答した。
「死者は?」
一瞬だけ沈黙が落ちる。
「ありません」
その言葉で、広場の空気が少し揺れた。
死者がいない。
奇跡ではない。
みんなで積み上げた誤差だ。
壊れた荷車。
古い油。
凍った水。
外れかけた門扉。
飛べない機械竜の片腕。
役立たずと呼ばれたものを、捨てずに使った結果だ。
私は息を吐いた。
「では、勝ちです」
その瞬間、領民たちの肩から力が抜けた。
泣き出す者がいた。
座り込む者がいた。
天を仰ぐ者がいた。
ミレットは私の袖を掴んだ。
「お嬢様、今度こそ泣いてもよろしいですか」
「三分だけ」
「短いです!」
「そのあと毛布の配布と傷薬の確認よ」
「そういうところです!」
ミレットは泣きながら笑った。
その笑いにつられて、広場に小さな笑い声が広がる。
すると、地下からアルヴィオンの声が響いた。
『主セレスティア』
「何?」
『勝利宣言は時期尚早です』
「空気を読まない竜ね」
『空気成分の分析機能は停止中です』
「そういう意味ではないわ」
『記録します』
私は額に手を当てた。
この竜は、巨大で、古代で、王国防衛機構の要で、そして少し面倒くさい。
「何が問題なの?」
『氷狼王種に埋め込まれた魔導針の製造様式は、王都聖堂系統です』
広場が静まり返った。
ミレットの涙も止まる。
グレンが低い声で言った。
「聖堂……」
「まだ断定しない」
私は言った。
「でも、調べる価値はあるわ」
『追加情報。砦内に同系統の微弱反応を検知』
「砦内?」
『はい。複数』
胸の奥が冷えた。
氷狼王種に一本だけではない。
この砦の中にもある。
誰かが仕込んだ。
あるいは、誰かが運び込まされた。
私は声を張った。
「全員、落ち着いて。疑い合わないで。今ここで犯人探しを始めたら、仕掛けた相手の望み通りです」
領民たちの顔に、不安が広がる。
王都に捨てられた土地。
飢えた人々。
ようやく水が戻った翌朝。
そこへ、内側に罠があると告げられた。
恐怖は、狼より速く人を壊す。
私は銀針を包んだ布を見た。
「まず倉庫を調べます」
「倉庫、ですか?」
グレンが眉をひそめる。
「王都からの物資は?」
「半年ほど前に、白百合慈善会から救援物資が届きました。ですが、開封許可の書類が来ず、そのまま北倉庫に」
「案内して」
北倉庫は、砦の中では比較的ましな建物だった。
比較的、というだけで、屋根は少し傾き、扉の下には雪が吹き込んでいる。
それでも、中には木箱が積まれていた。
白百合の焼印。
白百合慈善会。
聖女アメリ様が代表として名を連ねる、王都で人気の慈善組織。
王都の貴族たちは、その慈善会へ寄付することで善人の顔を買っていた。
私は会計監査で、その帳簿を何度も見たことがある。
綺麗すぎる帳簿だった。
綺麗すぎる帳簿ほど、私は信用しない。
「開けます」
グレンが蓋を外す。
中には毛布があった。
清潔で、厚手で、王都の品らしい上質なもの。
ミレットが少しだけ安心した顔をした。
「普通の救援物資に見えますね」
「見た目はね」
私は毛布を一枚広げた。
端の縫い目が、わずかに硬い。
母の工具箱から細い針抜きを取り出す。
縫い目をほどく。
中から、銀色の小さな針が出てきた。
白百合の紋章。
ミレットが口元を押さえた。
「そんな……」
「アルヴィオン」
『同型です』
「他の箱は?」
『反応多数』
倉庫内の空気が重くなる。
毛布。
傷薬。
乾燥パンの袋。
浄水札。
子ども用の外套。
それらの縫い目や封に、白百合の銀針が隠されていた。
善意の顔をした荷物が、魔獣を呼ぶ目印になっていた。
グレンの肩が震える。
「我々は、これをありがたがって受け取るところだったのか」
「開封が遅れたから、助かったのね」
「王都の書類不備に感謝する日が来るとは思いませんでした」
「私もよ」
冗談のつもりだった。
でも、誰も笑わなかった。
当然だ。
笑うには、あまりにも悪質だった。
その時、倉庫の外から声がした。
「セレスティア様!」
若い兵士が駆け込んでくる。
「北門に騎士が! 王国北境騎士団の生き残りを名乗っています!」
「生き残り?」
私は外へ出た。
北門の前に、一人の騎士が立っていた。
灰色の髪。
傷だらけの鎧。
片腕に包帯。
馬は、すでに倒れかけている。
騎士は私を見るなり、警戒するように目を細めた。
「あなたが、王都から追放された令嬢か」
ミレットが怒鳴りかけるのを、私は手で止めた。
「ええ。セレスティア・ベルクラインです。あなたは?」
「ラウル・ノルド。北境騎士団、第三巡察隊長」
グレンが息を呑んだ。
「ラウル殿……生きておられたのか」
「かろうじてな」
ラウルは、砦の広場を見渡した。
焦げた油。
倒れた氷狼。
壊れた荷車。
泥と煤にまみれた私。
彼は少しだけ目を見開いた。
「王都の令嬢が、戦場で泥まみれか」
「婚約破棄されたので、身だしなみの優先度が下がりました」
ラウルは一瞬だけ黙り、それから低く笑った。
「悪くない」
「そちらは?」
「北の村が襲われた。氷狼だ。だが妙だった。奴らは飢えていたんじゃない。何かに誘導されていた」
彼は懐から布を出した。
中には、銀針が一本。
白百合の紋章。
私たちは、誰も声を出せなかった。
ラウルは言った。
「この針が、狼の首に刺さっていた。王都の聖堂印だ。だが、俺たちの通報は握り潰された」
「誰に?」
「王都防衛局と、白百合慈善会」
ミレットが小さく震えた。
ラウルは私を睨むように見た。
「王都の人間は信用していない。だが、この砦が氷狼を退けたと聞いた。しかも、古代機械竜を起こしたと」
「正確には、壊れた竜を少し起こしただけです」
地下からアルヴィオンの声が響く。
『訂正。私は大部分が壊れています』
ラウルが固まった。
「しゃべったぞ」
「ええ。少し細かい竜です」
『精密機です』
ラウルは額に手を当てた。
「北境は、俺がいない間にずいぶん面白いことになったな」
「面白がるには早いわ」
私は銀針を見た。
「この針が複数の村に使われているなら、次の襲撃も起きます」
『肯定』
アルヴィオンの声が、いつもより低く響いた。
『砦内の白百合針反応、十三。十四。十五』
「まだ増えるの?」
『微弱反応の再分類によるものです』
「場所は?」
『北倉庫に十一。旧兵舎に三』
少し間が空いた。
『井戸に一』
全員の視線が、広場の井戸へ向いた。
昨日の夜、私たちが直した井戸。
領民たちが泣いて喜んだ水。
子どもが「水だ」と言った、あの井戸。
背中に冷たいものが走った。
「井戸のどこ?」
『底部。浄水導管付近。反応、起動中』
「起動中?」
『はい。魔力増幅を確認』
広場の子どもたちが、不安そうに井戸を見る。
井戸の底から、こぽり、と音がした。
昨日は希望に聞こえた水音が、今は別の何かに聞こえる。
私は走った。
井戸の縁に手をかける。
水面が、青白く光っていた。
水の底で、小さな白百合が咲くように、銀針が光を放っている。
その光が、浄水導管へ広がっていく。
『警告』
アルヴィオンの声が、砦中に響いた。
『白百合針、起動段階へ移行』
『推定効果、井戸水を媒介とした魔獣誘導範囲の拡大』
ミレットが震える声で言った。
「お嬢様……この水、みんなが飲んでいます」
私は水面を見つめた。
昨日、領地を救った水が。
今朝、領地を殺す罠に変わろうとしていた。




