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『婚約破棄された悪役令嬢、廃棄された機械竜を拾う』〜辺境の錆びた砦を再建していたら王国の防衛機構まで握ってしまいました〜  作者: Akarino−Hiro


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第5話 井戸底の白百合

井戸の底に、白百合が咲いていた。


昨日の夜、私たちはこの井戸を直した。


凍った導水管を通し、壊れた滑車を直し、痩せた子どもが「水だ」と呟いた。


それは、灰雪領エルデンに戻った最初の希望だった。


その希望の底に、白百合の銀針が刺さっている。


私は井戸の縁に手をかけたまま、奥歯を噛んだ。


「アルヴィオン。状況を」


地下から、古代機械竜の声が響く。


『白百合針、起動中。浄水導管に接続。魔力増幅、進行』


「効果は?」


『水脈を媒介に、誘導信号を拡散。魔獣群の再誘導、および領民の魔力衰弱を引き起こす可能性があります』


ミレットの顔が真っ青になった。


「魔力衰弱……つまり、この水を飲んだ人たちは」


『現時点で重症化なし。起動からの経過時間が短いためです』


「止める方法は?」


『針の除去、または導水管の破壊』


代官グレンが叫んだ。


「導水管を壊せば、井戸は」


『再び枯渇します』


広場に沈黙が落ちた。


井戸を守るか。


人を守るか。


王都の会議なら、きっと簡単に言う。


水源は汚染された。

放棄せよ。

代替物資を送る。

検討する。

承認を待つ。


その承認が届く前に、辺境の人々は凍えて死ぬ。


私は井戸を見下ろした。


水面の奥で、白百合が静かに光っている。


善意の花のような顔をして、領地を殺そうとしている。


「私が降ります」


ミレットが悲鳴を上げた。


「お嬢様!」


グレンも首を横に振る。


「危険です。私が」


「あなたは負傷者の指揮を。ラウル卿は北門の警戒を」


北境騎士ラウルは、黙って私を見た。


灰色の髪。

傷だらけの鎧。

片腕の包帯。


彼は王都の人間を信用していない。


当然だ。


王都は北境を見捨てた。


けれど、ラウルは言った。


「ロープは俺が持つ」


「助かります」


「勘違いするな。まだ信用したわけじゃない」


「ええ」


私は微笑んだ。


「でも、今は十分です」


ミレットが泣きそうな顔で工具箱を差し出した。


「お嬢様、せめてこれを」


「ありがとう」


私は母の工具箱を受け取った。


工具箱は小さい。


王妃教育の本より軽く、宝石箱より質素で、けれど私にとってはどんな王冠より頼りになる。


井戸の縁にロープを結ぶ。


ラウルが片手で強く握った。


「落ちるなよ」


「命令ですか?」


「願いだ」


少し意外だった。


私は頷き、井戸の中へ降りた。


石壁が冷たい。


古い苔が指に触れる。


下から青白い光が顔を照らす。


地上からミレットの声が聞こえた。


「お嬢様! 怖かったら戻ってきてくださいね!」


「怖くないわ」


嘘だった。


井戸は暗い。

足元は滑る。

白百合の針は不気味に光っている。


王都の笑い声より。

氷狼の牙より。

今の方が、ずっと怖い。


でも、怖くても手は動く。


母はそういう人だった。


私も、そういう人でありたい。


水面近くまで降り、石の出っ張りに足をかける。


銀針は、導水管の接合部に刺さっていた。


細い根のような魔力線が、水脈へ伸びている。


「アルヴィオン」


『はい』


「触れたらどうなる?」


『誘導信号が暴走する可能性があります。井戸周辺の水脈が凍結、または魔獣誘導波が最大化』


「成功率は?」


『針を破壊する場合、四一パーセント。ただし井戸は失われます』


「除去して、井戸を残す場合は?」


沈黙。


嫌な沈黙だった。


『七パーセント』


「十分ね」


『合理性がありません』


「井戸を壊せば、生き残っても明日死ぬ人が出るわ」


『水は兵站です』


「それだけではないわ」


私は井戸底の水を見た。


昨日、この水を見て子どもが笑った。


大人たちが泣いた。


ここにまだ暮らせるかもしれないと、初めて思えた。


「水は希望よ」


アルヴィオンはしばらく何も言わなかった。


『記録します。水は、兵站および希望』


「真面目ね」


『精密機です』


私は少し笑い、すぐに集中した。


針の根元へ、細い工具を差し込む。


銀針は、ただ刺さっているだけではなかった。


周囲の導水管と噛み合うように、魔導の返しが広がっている。


無理に抜けば、導水管ごと破れる。


壊れたものの息を聞く。


母の声が蘇る。


壊れたものには、壊れた理由がある。

無理に戻すのではなく、なぜそうなったかを見なさい。


私は目を閉じ、修繕魔法を流した。


見えた。


白百合の針に込められた術式。


表面は浄化。

内側は誘導。

さらに奥に、記録領域がある。


誰が、いつ、何の目的でこの針を作ったのか。


「記録が残っている」


『抽出可能です。ただし、接続者の精神へ干渉する危険があります』


「精神干渉?」


『白百合針は、罪悪感、羞恥、服従心を刺激する術式を含みます』


「なるほど」


私は苦笑した。


「悪役令嬢には、相性が悪そうね」


工具を押し込む。


瞬間、頭の中に声が流れ込んだ。


悪役令嬢。


可愛げがない。


完璧すぎて息が詰まる。


聖女様をいじめた女。


辺境で悔い改めなさい。


王宮大広間の声。


扇の奥の笑い。

レグルス殿下の怒鳴り声。

アメリ様の潤んだ目と、その奥で笑っていた瞳。


息が詰まる。


井戸の壁が遠くなる。


ロープを握る手が滑りそうになった。


地上でミレットが叫ぶ。


「お嬢様!」


ラウルの声も聞こえる。


「セレスティア!」


私は歯を食いしばった。


「黙りなさい」


頭の中の声へ言った。


「私は、あなたたちに好かれるために生きているのではありません」


白百合の声が強くなる。


悪役令嬢。


廃棄された女。


誰にも必要とされない。


私は目を開けた。


井戸底の水面に、自分の顔が映る。


泥と煤にまみれ、髪は乱れ、ドレスは破れ、王宮の夜会なら控え室にも入れてもらえない姿。


でも、昨日より好きだった。


「必要かどうかは、王都が決めることではないわ」


私は針の根元を掴んだ。


「この井戸が決める。この領地が決める。私自身が決める」


修繕魔法を流す。


壊すのではない。


ほどく。


返しを一枚ずつ畳み、魔力線を導水管から外し、記録領域だけを工具箱の小さな魔石へ移す。


白百合の光が暴れる。


水が凍り始めた。


指先が冷たい。


痛い。


骨まで凍るようだ。


『主セレスティア。撤退を推奨』


「まだ」


『成功率、低下』


「まだよ」


『主の身体損傷を確認』


「あと少し」


ミレットが泣きながら叫ぶ。


「お嬢様、戻ってください!」


ラウルの声が低く響く。


「セレスティア。無理なら井戸を壊せ。人が生きていれば、水はまた探せる」


正しい。


でも、私は正しさだけでは嫌だった。


王都は、正しそうな言葉でこの地を捨てた。


予算がない。

救援路が遠い。

防衛価値が低い。

維持効率が悪い。


全部、正しそうだった。


だから私は、少しだけわがままになる。


「私は」


凍りつく指で、最後の返しを外す。


「この水も、人も、両方残します」


白百合の銀針が、導水管から抜けた。


水面の青白い光が消える。


同時に、井戸の水が澄んだ音を立てた。


こぽり。


昨日と同じ音。


希望の音。


私は銀針を握ったまま、力が抜けた。


落ちる。


そう思った瞬間、ロープが強く引かれた。


ラウルが片腕で私を支え、グレンと兵士たちが必死に引き上げる。


地上へ戻ったとき、私は泥と水でぐしゃぐしゃだった。


ミレットが泣きながら抱きついてくる。


「お嬢様! 七パーセントは十分ではありません!」


「そうね。次からは八パーセント以上にするわ」


「そういう問題ではありません!」


ラウルが息を切らしながら、私を見下ろした。


「王都の令嬢は、みんな井戸に飛び込むのか」


「いいえ。私だけだと思います」


「なら、北境は運がいい」


その言葉は不器用だった。


でも、信頼の端っこが混じっていた。


私は銀針をアルヴィオンの光へかざした。


「記録は?」


『抽出済み。再生します』


広場に、白い光の文字が浮かんだ。


《白百合救済計画》


《対象:灰雪領エルデン》


《段階一:魔獣誘導による危機演出》


《段階二:水源汚染による領民衰弱》


《段階三:聖女アメリ慰問団による奇跡の浄化実施》


ミレットが口元を押さえた。


グレンは拳を震わせた。


ラウルの目が鋭くなる。


「危機を作って、救いに来るつもりだったのか」


誰も答えなかった。


答えは、白い文字の中にあった。


さらに次の行が浮かぶ。


《進行状況確認》


《聖女アメリ、および王太子レグルス、灰雪領慰問のため王都を出発》


広場の空気が凍った。


ミレットが震える声で言う。


「お嬢様……殿下と聖女様が、ここへ?」


私は濡れた髪を後ろへ払った。


王都で私を捨てた二人。


悪役令嬢として断罪した二人。


この領地を“救う”ために来る二人。


アルヴィオンの声が響く。


『到着予測、二日後』


私は銀針を握りしめた。


「では、歓迎の準備をしましょう」


ミレットが目を丸くする。


「歓迎、ですか?」


「ええ」


私は井戸を見た。


澄んだ水が、静かに揺れている。


「壊れた砦と、目覚めた竜と、盗まれなかった水で」


北の風が吹いた。


王都が用意した奇跡の舞台に、二日後、私たちは本物の証拠を並べる。

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