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『婚約破棄された悪役令嬢、廃棄された機械竜を拾う』〜辺境の錆びた砦を再建していたら王国の防衛機構まで握ってしまいました〜  作者: Akarino−Hiro


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第3話 廃棄令嬢、初めて砦を守る

北の雪原から、狼の遠吠えが聞こえた。


一頭ではない。


何十もの声が、夜明け前の空を裂いている。


灰雪領エルデン砦の広場にいた人々は、さっきまで笑っていた。


井戸の水が戻った。

古代機械竜アルヴィオンが目を覚ました。

王都へ「現地に水が必要だから」と返答した。


その小さな勝利が、凍った領地に熱を戻しかけていた。


けれど、魔獣の遠吠えは、その熱を一瞬で奪っていく。


「氷狼……」


代官グレンが、青ざめた顔で呟いた。


「冬の終わりに来るはずの群れです。今の時期に、しかも三十以上など」


『訂正』


地下廃棄場から地上へ伸びた金色の光が、アルヴィオンの声を運んだ。


『氷狼、三十七。大型個体、四。最上位個体、一』


「増えたわね」


私は砦の北壁を見上げた。


壁と言うには、穴が多い。

石積みは崩れ、古い門は歪み、見張り台は片側が傾いている。


王都の貴族なら、きっとこう言う。


防衛不能。

放棄すべき。

住民を退避させろ。


けれど、ここには退避先がない。


凍った畑。

空の倉庫。

壊れた砦。

痩せた子どもたち。


ここを捨てれば、彼らは雪原で死ぬ。


ミレットが私の横で震えていた。


「お嬢様、どうしましょう。砦の壁はまだ直っていません。兵士も少なくて、武器も」


「確認しましょう」


私は声を張った。


「グレン。戦える者は?」


「元兵士が八名。猟師が六名。農民で槍を持てる者が十五名ほどです」


「弓は?」


「まともに使えるものは四張りです」


「油は?」


「灯火用の古い油が三樽」


「荷車は?」


「壊れたものなら十台以上」


「素晴らしいわ」


グレンが目を丸くした。


「素晴らしい、ですか」


「壊れた荷車は障害物になる。古い油は炎になる。穴だらけの壁は、敵を誘導する通路になる」


私は北壁の穴を見た。


「塞げない穴は、使えばいい」


アルヴィオンの金色の目が、地下から私を見ている気がした。


『合理性を一部確認』


「一部なのね」


『防衛成功率、一二パーセントへ上昇』


「一パーセント増えたわ」


ミレットが涙目で叫ぶ。


「それは喜んでいい数字なのですか!?」


「もちろん。誤差を積み上げるのよ」


私は工具箱を開いた。


「全員、聞きなさい!」


広場に集まった領民たちが、こちらを見る。


疑い。

恐怖。

疲労。

それから、わずかな期待。


私が王都から来た貴族だから、彼らはまだ完全には信じていない。


当然だ。


王都はこの地を見捨てた。

私はその王都から来た女だ。


だから、信じろとは言わない。


「この砦は壊れています」


人々の顔が曇る。


私は続けた。


「ですが、壊れているから終わりではありません。壊れているなら、使い方を変えられます」


私は北壁を指差した。


「穴を塞ぐ時間はありません。ですから、狼が通る穴をこちらで選びます。荷車を倒し、油を撒き、門の前を空けなさい」


猟師の一人が眉をひそめる。


「門を空ける? 狼を中へ入れる気か」


「いいえ」


私は地面に棒で線を引いた。


「狼に、入れると思わせます」


広場が静まり返る。


「氷狼は群れで動きます。広い場所では囲まれる。狭い場所なら、一度に入れる数を減らせる。門前の通路を作り、途中で崩れた石材を落とす」


「落とす仕掛けなど、どこに」


「壊れた見張り台があります」


私は、傾いた見張り台を見た。


「完全に直す時間はありません。でも、正しく壊す準備ならできます」


アルヴィオンの声が響いた。


『危険な発想です』


「ありがとう」


『褒めていません』


「わかっているわ」


その時、子どもが一人、井戸のそばから声を出した。


「この人、水を戻してくれた」


その一言で、空気が変わった。


さっき井戸を覗き込んだ子だった。


彼の母親が、慌てて口を塞ごうとする。

でも、もう遅い。


「水を戻してくれた人なら、俺は従う」


老いた猟師が言った。


「少なくとも、王都の連中よりは働いてる」


誰かが頷いた。

別の誰かが、荷車へ走った。


少しずつ、広場が動き始める。


ミレットが私を見た。


「お嬢様」


「泣かないで。今は手が足りないの」


「はい!」


それからの一時間は、戦争というより大工仕事だった。


壊れた荷車を門前へ並べる。

油を細く撒く。

凍った地面に杭を打つ。

崩れた石材を古い縄で吊るす。


井戸から汲んだ水を浅い溝へ流し、夜気で薄い氷膜を作る。


私は見張り台の脚部へ手を当てた。


石材の疲労。

木材の腐食。

金具の歪み。


直すのではない。


倒れる方向を、正しく整える。


「ごめんなさいね」


私は古い見張り台に囁いた。


「あなたには、最後にもう一度だけ働いてもらうわ」


『建築物に謝罪する必要はありません』


アルヴィオンが言う。


「あなたも炉心を直されたとき、痛かった?」


『痛覚はありません』


「そう」


『ただし、再点火時に不明な負荷を検知しました』


「それを人は痛みと呼ぶこともあるわ」


『記録します』


「今はしなくていいわ」


『記録しました』


「早いのよ」


ミレットが小さく笑った。


笑えるなら、まだ戦える。


夜明けが近づく。


北の雪原に、黒い点が現れた。


点はすぐに線になった。

線は群れになった。


氷狼。


白い毛皮に、青い氷の棘。

吐く息は霜になり、爪が雪を裂く。


普通の狼より大きい。

大型個体は、馬ほどもある。


そして、その奥に一頭。


他の狼より二回り大きい、銀灰色の最上位個体。


額に、黒い角のような氷晶を生やしている。


『最上位個体を確認。氷狼王種』


「王種?」


グレンが震えた。


「そんなもの、北の魔境の奥にしか……」


「来てしまったものは仕方ないわ」


私は門の内側に立った。


「全員、配置へ」


狼たちは迷わなかった。


一直線に、門へ向かってくる。


こちらが空けた通路へ。


「今ですか!?」


若い兵士が叫ぶ。


「まだ」


狼の先頭が、油を撒いた地面へ入る。


「今ですか!」


「まだ」


二頭。

三頭。

五頭。


門前の狭い通路へ、群れが詰まり始める。


氷膜で足が滑り、後続の狼が前の狼にぶつかる。


私は手を上げた。


「今」


ミレットが火種を投げた。


油に火が走る。


青白い朝の雪に、橙の炎が咲いた。


狼たちが悲鳴を上げる。


だが、炎は殺すためのものではない。

逃げ道を変えるための炎だ。


炎を避けた狼たちは、こちらが作った細い通路へ押し込まれていく。


「石材!」


グレンが叫んだ。


縄が切られる。


傾いた見張り台から、崩れかけの石材が落ちた。


どどん、と重い音。


先頭の狼たちが分断される。


猟師たちの矢が飛ぶ。

兵士たちの槍が、狭い通路の出口に並ぶ。


一頭ずつなら、倒せる。


「やれる……!」


誰かが叫んだ。


希望の声だった。


けれど、希望は油断を生む。


氷狼王種が、炎を見て低く吠えた。


その瞬間、空気が凍った。


炎が弱まる。

油の上に霜が走る。

通路を塞いでいた火が、一部消えた。


大型個体がそこへ突っ込んでくる。


「左翼、崩れます!」


グレンが叫ぶ。


私は走った。


左翼には、村の若者が三人。


槍を持っているが、足が震えている。


大型氷狼が、彼らに飛びかかった。


間に合わない。


私は工具箱から、母の古い銀釘を掴んだ。


攻撃魔法ではない。


けれど、壊れた門の金具なら見える。


左翼の古い門扉は、片側だけが外れかけていた。


今までなら欠陥。

今なら、罠。


「閉じなさい!」


修繕魔法を流す。


外れかけていた蝶番が、一瞬だけ正しい位置へ戻る。


門扉が勢いよく跳ね、突っ込んできた大型氷狼の横腹を打った。


狼が転がる。


若者たちが悲鳴を上げながらも、槍を突き出した。


一撃。

二撃。


大型氷狼が倒れる。


若者の一人が、膝から崩れた。


「た、倒した……」


「よくやったわ」


私は息を吐く。


その瞬間、別の影が視界の端に映った。


氷狼王種。


炎を避け、倒れた荷車を跳び越え、まっすぐこちらへ来ていた。


速い。


大きい。


避けられない。


ミレットの叫びが聞こえた。


「お嬢様!」


私は工具箱を握りしめた。


王都で婚約破棄されたときより、怖い。


貴族たちに笑われたときより、ずっと怖い。


でも、不思議と足は動かなかった。


逃げたら、背後の子どもたちが死ぬ。


なら、立つしかない。


「アルヴィオン!」


『主セレスティア。現状、戦闘機能は』


「動かせる部分だけでいい!」


地下から、低い音が響いた。


どくん。


古代機械竜の炉心が鳴る。


砦の北側、崩れた防衛塔が青白く光った。


塔の先端に残っていた古代投射機が、ぎぎ、と軋みながら向きを変える。


『投射機、稼働率七パーセント』


「十分!」


『命中率、二一パーセント』


「当てなさい!」


『無茶な命令です』


「主命よ!」


一瞬の沈黙。


『了解』


青白い光の槍が、防衛塔から放たれた。


氷狼王種は身をひねる。


光槍は直撃しなかった。


しかし、その肩を削った。


十分だった。


王種の勢いが、わずかに逸れる。


私は横へ転がり、雪と泥にまみれた。

王種の爪が、私の髪を数本散らす。


恐怖で息が止まる。


それでも、すぐに立った。


「グレン!」


「はい!」


「鎖!」


グレンと兵士二人が、荷車に繋いでいた鎖を引く。


王種の足に鎖が絡む。


井戸から流した水が凍った溝へ、王種の足が滑る。


「今!」


猟師たちが矢を射る。

兵士たちが槍を突く。


最後に、アルヴィオンの声が響いた。


『右前肢、短時間駆動』


地下廃棄場から伸びた機械竜の巨大な右前肢が、砦の崩れた床を突き破って現れた。


鋼鉄の爪が、王種の首筋を押さえる。


王種が吠える。


アルヴィオンの右前肢が軋む。


『駆動限界』


「あと少し!」


私は王種の額にある黒い氷晶を見た。


そこだけ、壊れ方が違う。


自然の魔獣ではない。


何かを埋め込まれている。


「アルヴィオン、あの角を砕いて!」


『精密動作、困難』


「私が補助する!」


私は王種の額へ手を伸ばした。


正気の判断ではない。


大型魔獣の顔に触れるなんて、学院の教本なら最初に禁止される行為だ。


でも、壊れている場所は見えている。


黒い氷晶の根元に、細い魔導針が刺さっている。


それが王種の怒りを増幅させ、進路を固定している。


「これは……誘導術式?」


指先に魔力を込める。


壊すのではない。

抜く。


絡まった命令をほどく。


「修繕、開始」


黒い氷晶に亀裂が走る。


王種の目が、ふっと変わった。


怒りで濁っていた青が、ほんの一瞬だけ澄む。


次の瞬間、氷晶が砕けた。


王種の咆哮が止まる。


群れの氷狼たちも、一斉に動きを乱した。


支配を失った獣たちは、炎と槍を嫌い、北の雪原へ散っていく。


広場に、静寂が落ちた。


私はその場に膝をついた。


全身が震えている。


怖かった。


とても、怖かった。


ミレットが泣きながら抱きついてくる。


「お嬢様! 生きていますか!?」


「ええ……たぶん」


『主セレスティア、生存を確認』


アルヴィオンの声が聞こえる。


いつも通り淡々としている。


けれど、ほんの少しだけ、音が低く揺れていた。


「アルヴィオン」


『はい』


「あなたも、ありがとう」


『戦闘機能を限定的に使用しただけです』


「それでも助かったわ」


『記録します』


「何を?」


『感謝は、炉心負荷を増加させます』


「それは故障?」


『不明』


私は笑ってしまった。


広場の人々が、少しずつこちらを見る。


やがて、誰かが膝をついた。


それは貴族への礼ではなかった。


命を守った者への、静かな感謝だった。


グレンが頭を下げる。


「セレスティア様。私たちは、あなたに従います」


私は首を横に振った。


「従うのではなく、一緒に直すのよ。この砦も、この領地も」


グレンは目を見開き、それから笑った。


「では、一緒に」


その時、アルヴィオンの片目が赤く点滅した。


『主セレスティア。確認すべき異物があります』


「異物?」


私は、倒れた氷狼王種のそばへ歩いた。


額の黒い氷晶は砕けている。


その根元から、細い銀の針が抜けかけていた。


銀針には、小さな紋章が刻まれている。


白百合。


王都の聖堂が用いる印。


そして、聖女アメリの慈善会が掲げていた紋章。


ミレットが息を呑んだ。


「お嬢様、それは……」


私は銀針を拾い上げた。


冷たい。


けれど、自然の冷たさではない。


誰かの手で作られた冷たさだ。


アルヴィオンが告げる。


『氷狼群は、自然発生ではありません。誘導されていました』


王都が私を捨てた翌朝。


辺境を襲った狼の額には、聖女の白百合が埋め込まれていた。

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