第2話 廃棄令嬢、辺境砦を再起動する
王都の鐘が、鳴り止まなかった。
それは祝宴の鐘ではない。
婚約破棄で浮かれた貴族たちを祝う音でもない。
王国全土の城塞にだけ繋がる、防衛盤の警鐘だった。
王宮大広間では、まだ夜会が続いていた。
王太子レグルスは聖女アメリの手を取り、勝利者のように微笑んでいた。
少なくとも、最初の鐘が鳴るまでは。
ごおん。
古い魔導鐘の音が、大広間を震わせた。
楽団が止まる。
貴族たちの扇が止まる。
アメリの笑みが、白い仮面のように固まる。
王宮の壁に埋め込まれた防衛盤が、青白い光を放った。
《古代防衛機構、再起動》
《機械竜アルヴィオン、主認証を更新》
《新規管理者:セレスティア・ベルクライン》
レグルスの顔から、血の気が引いた。
「なぜ、あの女の名が出る」
誰も答えられなかった。
宰相だけが、険しい顔で防衛盤を見つめている。
「殿下。アルヴィオンという名に、覚えは?」
「知らん。そんなものは神話だろう」
「初代王国が北境に残したとされる、古代機械竜の名です」
「実在するはずがない!」
レグルスの声が裏返った。
その横で、アメリが小さく呟く。
「セレスティア様は……何をなさったのですか?」
その声には、隠しきれない恐怖が混じっていた。
当然だ。
ほんの数刻前、王都はセレスティアを捨てた。
悪役令嬢として笑い、流刑地へ押し込み、二度と戻らない敗者にした。
その名が今、王国の防衛機構そのものに刻まれている。
王都が捨てた女が、王国の心臓に手をかけていた。
一方。
灰雪領エルデンの地下廃棄場で、私は膝をついていた。
巨大な機械竜の胸に手を当てたまま、息を整える。
母から受け継いだ修繕魔法は、攻撃魔法ではない。
華やかな光もない。
敵を焼く炎もない。
けれど、壊れた魔導具の奥に残った熱を探すことができる。
アルヴィオンの炉心は、完全には死んでいなかった。
どくん。
鋼鉄の胸の奥で、もう一度、低い音が鳴る。
『炉心再点火。稼働率、一二パーセント』
地下の闇に、金色の光が広がった。
ミレットが私の背後で小さく悲鳴を上げる。
「お、お嬢様。竜です。竜が起きました。どうしましょう」
「まずは挨拶かしら」
『不要。戦闘不能。飛行不能。右前肢、駆動不良。左翼、欠損。尾部、断裂。武装系統、九割喪失』
「思ったより満身創痍ね」
『廃棄機です』
「私もよ」
『確認済み。廃棄令嬢セレスティア』
「その呼び方、定着させないでいただける?」
『不満を確認』
「ええ。不満よ」
アルヴィオンの片目が、ゆっくり瞬いた。
機械なのに、少し考えているように見えた。
『では、主セレスティア』
その呼び名に、地下の空気が少しだけ変わった。
主。
ついさっきまで、私は王都で不要品だった。
未来の王妃にふさわしくない。
可愛げがない。
悪役令嬢。
そう断じられた。
それなのに、この壊れた竜は、私を主と呼んだ。
胸の奥が、少し熱くなる。
けれど、泣く時間はない。
「アルヴィオン。あなたの機能で、この領地にすぐ役立つものは?」
『防衛塔との接続。地下水脈探査。熱源炉の再点火。魔獣警戒網の復旧』
「素晴らしいわ」
『ただし、素材不足。人員不足。砦設備の破損多数。成功率、低』
「成功率は?」
『総合復旧、三・一パーセント』
ミレットが顔を覆った。
「絶望的です!」
「三パーセントもあるなら、始める価値はあるわ」
『合理性がありません』
「よく言われるわ」
私は立ち上がった。
「まず井戸を直しましょう」
『王国防衛機構の再起動直後に、井戸ですか』
「水がなければ人は死ぬでしょう」
アルヴィオンはしばらく沈黙した。
『優先順位を更新。井戸、最上位』
「よろしい」
地上へ戻ると、空が青白く光っていた。
北の山脈に埋もれていた古代塔が、一本、また一本と目を覚ましている。
凍った風の中で、村人たちは砦の広場に集まっていた。
恐怖。
困惑。
そして、ほんのわずかな期待。
すべてが混ざった目で、彼らは私を見ている。
代官のグレンが、震えた声で言った。
「ベルクライン嬢……いえ、セレスティア様。今の光は何ですか」
「古代防衛機構です」
「なぜ、それがこの廃領で」
「廃領だから残っていたのでしょうね」
私は北の山を見上げた。
「王都の方々は、壊れたものに興味がありませんから」
誰かが、くすりと笑った。
すぐに咳でごまかされたけれど。
私は広場の中央にある古井戸へ向かった。
滑車は錆び、縄は腐り、井戸の縁は崩れている。
村人たちが自力で直そうとした跡があった。
不器用な木材の補強。
割れた石を縛った布。
何度も諦めかけて、それでも諦めきれなかった跡。
私は、そういうものを見ると胸が痛くなる。
壊れたものにも、誰かが生かそうとした痕跡がある。
「ミレット、工具箱を」
「はい!」
私は袖をまくり、井戸の縁に手を当てた。
ひび割れ。
沈下。
水脈のズレ。
滑車軸の摩耗。
地下の導水管に詰まった氷。
見える。
全部、見える。
「アルヴィオン。地下水脈の位置を」
『北東へ七・二メートル。旧導水管と接続可能』
「代官グレン。人手を十人。鍬と縄を」
「しかし、夜です。雪も」
「では、凍死しない速度で動きなさい」
グレンは一瞬ぽかんとして、それから笑った。
「承知しました」
動き出すと、村人たちは早かった。
最初は恐る恐る。
けれど次第に、誰かの指示を待たずに手が動くようになった。
私は井戸の縁を補強し、滑車軸を外し、母の工具で錆を落とす。
アルヴィオンは地下から細い金色の光を伸ばし、導水管の位置を示してくれた。
「お嬢様、これは竜の魔法ですか?」
ミレットが目を丸くする。
「いいえ。古代の測量機能ね」
『訂正。王国防衛機構標準搭載の水脈探査術式』
「同じようなものよ」
『異なります』
「細かい竜ね」
『精密機です』
ミレットが吹き出した。
広場の空気が、少しだけ軽くなる。
そして、夜明け前。
凍った井戸の底から、水音がした。
こぽり。
小さな音だった。
けれど、それを聞いた瞬間、村人たちの顔が変わった。
こぽり、こぽり。
澄んだ水が、井戸の底へ戻ってくる。
痩せた子どもが一歩前へ出た。
母親が止めようとして、止められなかった。
子どもは井戸を覗き込み、小さく言った。
「水だ」
その声は、砦の広場に広がった。
誰かが泣いた。
誰かが笑った。
誰かが膝をついた。
ミレットはもう、堂々と泣いていた。
「お嬢様……」
「まだ泣くには早いわ。次は倉庫。次に炉。夜までに毛布と粥の配給表を作る」
「そういうところです!」
「何が?」
「そういうところが、大好きです!」
私は返事に困って、工具を片づけた。
その時、アルヴィオンの声が響いた。
『外部干渉を検知』
「王都?」
『はい。王宮防衛盤より、主認証の強制剥奪命令』
広場の空気が凍った。
代官グレンが顔を上げる。
「王都が、セレスティア様から機械竜を奪おうとしているのですか」
『肯定』
「できるの?」
私は尋ねた。
アルヴィオンの金色の目が、静かに光る。
『旧王国法により、防衛機構の主は、稼働炉心の現地再点火者に優先認証されます』
「つまり?」
『拒否可能』
「なら、拒否なさい」
『理由の入力が必要です』
「理由?」
王都の灯り。
大広間の嘲笑。
レグルス殿下の怒声。
アメリ様の笑み。
悪役令嬢という、綺麗に磨かれた廃棄札。
それらを思い出して、私は井戸の水音を聞いた。
こぽり。
この領地には、水が必要だ。
毛布が必要だ。
炉が必要だ。
壁が必要だ。
王都の面子ではなく、生きるためのものが必要だ。
「理由は、現地に水が必要だから」
『王宮防衛盤へ送信します』
「そのまま送るの?」
『はい』
「もう少し格式が」
遅かった。
アルヴィオンは淡々と告げた。
『送信完了。主認証剥奪命令に対する回答、現地に水が必要だから』
広場が静まり返った。
そして、誰かが笑った。
最初は一人。
次に二人。
やがて、疲れ果てた辺境の人々が、こらえきれないように笑い出した。
王都への返答としては、あまりにも無礼。
あまりにも実務的。
あまりにも、今の私たちらしい。
私も、少しだけ笑った。
「まあ、いいわ」
『不備がありましたか』
「いいえ。最高の返答よ」
そのころ、王都では。
王太子レグルスが、顔を真っ赤にしていた。
防衛盤に刻まれた返答を、貴族たちは黙って見つめている。
《主認証剥奪命令を拒否》
《理由:現地に水が必要だから》
「ふざけるな!」
レグルスが杯を床に叩きつけた。
だが、宰相は笑わなかった。
彼だけが、事態の深刻さに気づいていた。
灰雪領エルデンは、王国最北の蓋だ。
北の魔境から来る魔獣を防ぐ、最後の壁。
その防衛機構が、セレスティアの名で再起動した。
もし彼女を完全に敵に回せば。
王都は、自分たちが捨てた令嬢に、北門の鍵を握られる。
灰雪領では、夜が明けた。
井戸の水が戻り、村人たちはまだ広場にいた。
誰も帰ろうとしない。
私が声をかけようとした時、アルヴィオンの片目が赤く点滅した。
『警戒網、部分復旧』
「どうしたの」
『北方三十二キロ地点。魔獣群の移動を確認』
広場の笑いが消えた。
グレンが青ざめる。
「まさか、氷狼ですか」
『氷狼、三十六。大型個体、四。進路、灰雪領エルデン砦』
ミレットが息を呑む。
「お嬢様、砦の壁はまだ……」
「ええ。穴だらけね」
『防衛成功率、一一パーセント』
「さっきより高いわ」
『誤差範囲です』
「では、誤差を積み上げましょう」
私は工具箱を閉じ、北の空を見た。
王都に捨てられた。
辺境に来た。
竜を拾った。
井戸を直した。
そして次は、戦争だ。
北の雪原の向こうで、狼の遠吠えが上がる。
その直後、アルヴィオンが低く告げた。
『主セレスティア。防衛指揮を開始してください』
王都が私を捨てた翌朝。
王国最北の空に、最初の戦火が上がった。




