第1話 婚約破棄されたので、機械竜を拾います
婚約破棄の言葉は、シャンデリアより先に落ちた。
「セレスティア・ベルクライン。お前との婚約を、今この場で破棄する!」
王宮大広間に、王太子レグルスの声が響き渡る。
楽団の音が止まった。
貴族たちの扇が止まった。
銀杯を掲げていた手が、宙で凍った。
その沈黙の中心で、私は一礼した。
「承知いたしました、殿下」
ざわめきが、波のように広がる。
驚いたのだろう。
私が泣かなかったから。
叫ばなかったから。
崩れ落ちて、すがらなかったから。
王太子の隣では、聖女アメリが白い手袋の指先を震わせていた。
守られる小鳥のように。
風に揺れる花のように。
ただ、その目だけは笑っていた。
「セレスティア。お前はアメリを嫉妬で苦しめ、王家の名誉を傷つけた。さらに、己の才を鼻にかけ、周囲を見下してきた」
レグルス殿下が、芝居のように片手を広げる。
「お前のような女は、未来の王妃にふさわしくない!」
まあ。
それを三年早く言っていただければ、私の睡眠時間はもう少し長かったのに。
王国予算案の下書き。
国境税の整理。
南部干ばつへの救援計画。
殿下の演説原稿。
聖女アメリ様の慈善事業に関する会計監査。
それらを誰が徹夜で整えてきたのか、今夜の殿下はお忘れらしい。
「異議はありませんか、セレスティア様」
宰相が冷たい声で問う。
私は微笑んだ。
「一点だけ」
大広間が、さらに静まる。
「私がベルクライン家より王家へ持参した魔導工房三棟、北部交易路の通行権、ならびに第三倉庫の備蓄小麦については、婚約破棄に伴い返還対象となります。書類は明朝までにお届けください」
殿下の顔が引きつった。
「今、そのような話をしているのではない!」
「婚約とは契約です。破棄なさるなら、精算が必要です」
私は淡々と告げる。
「感情はご自由に。帳簿は正確に」
誰かが小さく吹き出した。
すぐに咳払いでごまかされた。
アメリ様の笑みが、一瞬だけ固まる。
けれど、殿下は怒りでそれを見逃した。
「黙れ! お前には罰として、灰雪領エルデンへの移住を命じる。王国最北の廃領だ。そこで己の罪を悔いるがいい!」
灰雪領エルデン。
雪と岩と古い戦争跡しかない、王国の端。
貴族たちは流刑地と呼ぶ。
地図から消えかけた辺境。
私はもう一度、深く礼をした。
「ありがたく拝命いたします」
それは、心からの言葉だった。
王都に残り、この茶番の後片付けをさせられるより、ずっといい。
その夜、私は王宮を去った。
持っていけたものは、銀貨三袋。
衣装箱二つ。
書類鞄一つ。
侍女ミレット一人。
それから、母の形見である小さな工具箱。
馬車の中で、ミレットは泣いていた。
「お嬢様……悔しくないのですか」
「悔しいわ」
私は窓の外を見た。
王都の灯りが遠ざかっていく。
あれほど長く守ろうとした場所が、今日はひどく小さく見えた。
「でも、泣くのは後。今は在庫確認と移動経路の見直しが先よ」
「そういうところです、お嬢様」
「何が?」
「そういうところが、私は大好きです」
ミレットは泣きながら笑った。
私は少しだけ目を伏せた。
泣けないわけではない。
ただ、泣くと手が止まる。
手が止まると、壊れたものがそのままになる。
母はよく言っていた。
――壊れたものを捨てる貴族は三流。
――壊れた理由を見抜く貴族が、一流よ。
母は、王都では変わり者だった。
ドレスより工具を好み、宝石より歯車を愛した。
私は、そんな母の娘だ。
ならば、捨てられた場所で泣いている暇はない。
灰雪領エルデンに着いたのは、三日後の夕刻だった。
想像より、ひどかった。
城壁は崩れ、砦の門は片側だけぶら下がっている。
井戸の滑車は錆びつき、畑は凍り、倉庫は空。
子どもたちは痩せ、兵士たちは靴底に穴を開けていた。
代官は私を見るなり、諦めたように笑った。
「ようこそ、ベルクライン嬢。ここには何もありません」
「いいえ」
私は壊れた門を見た。
歪んだ蝶番。
腐った支柱。
石材の疲労。
修理すれば、まだ使える。
「壊れたものはあります」
代官は、私の言葉を理解できなかったようだ。
その夜、私は眠らなかった。
砦の見取り図を確認する。
井戸の修理優先度を書き出す。
備蓄量を計算する。
ミレットに毛布の配布先を指示する。
そうしていると、外から低い音が聞こえた。
鐘ではない。
獣の唸りでもない。
もっと古い。
金属の奥で、何かが目を覚ますような音。
「お嬢様?」
ミレットが不安そうに振り向く。
「地下ね」
砦の北側には、廃棄場があった。
壊れた荷車。
折れた槍。
錆びた魔導炉。
古い戦争で使われたと思しき装甲板。
その奥に、雪に半分埋もれた扉があった。
母の工具箱から小型ランプを取り出し、私は扉の錠前に触れる。
錠前は古代式だった。
王都の学院でも、資料でしか見たことがない型。
「開けられるのですか?」
ミレットが震えた声で尋ねた。
「壊れているものなら」
私は工具を差し込む。
「たいてい、話は通じるわ」
錠前が、かちりと鳴った。
地下には、巨大な空洞が広がっていた。
そして、そこに竜がいた。
片翼を失い、胸の炉心を砕かれ、鋼の鱗を雪のような埃に覆われた機械の竜。
生き物ではない。
けれど、死骸にも見えない。
金属の牙。
折れた尾。
閉じた片目。
その姿は、王都のどんな宝石より美しかった。
私が近づくと、竜の目に淡い金色の光が灯った。
『接近者を確認』
古びた声が、地下に響く。
『廃棄機、個体名アルヴィオン。最終命令、王国防衛。現状、炉心破損。飛行不能。戦闘不能。所有者なし』
私は息を呑んだ。
古代機械竜アルヴィオン。
おとぎ話でしか聞いたことがない、初代王国の守護竜。
王都の学者たちは、実在しない神話だと言っていた。
『確認。接近者も、社会的廃棄個体ですか』
ミレットが叫んだ。
「失礼な竜です!」
私は、思わず笑ってしまった。
「ええ。つい先ほど、王都で廃棄されたばかりよ」
『同類と判断』
「なら、気が合うわね」
私は工具箱を開いた。
炉心の破損部が見える。
魔導導線は焦げ、制御歯車は砕けている。
けれど、完全に死んではいない。
壊れている。
つまり、まだ終わっていない。
『修復は非推奨。必要素材不足。成功率、二・七パーセント』
「十分よ」
『合理性がありません』
「私もよく言われるわ」
私は袖をまくった。
「アルヴィオン。あなたはまだ、王国を守りたい?」
しばらく沈黙があった。
『命令は、残存しています』
「命令ではなく、あなたの答えを聞いているの」
地下に、長い静寂が落ちる。
機械竜の金色の目が、わずかに揺らいだ。
『不明』
「では、不明のまま始めましょう」
私は砕けた炉心に手を当てた。
「私も、自分が何を守りたいのか、今日から考えるところだから」
魔力を流す。
母から教わった修繕魔法は、学院では地味だと笑われた。
攻撃もできない。
華やかでもない。
けれど、壊れた魔導具の声を聞ける。
砕けた導線を繋ぐ。
焦げた回路を迂回する。
死んだ炉心ではなく、まだ熱を持っている芯を探す。
アルヴィオンの胸が、低く鳴った。
どくん。
まるで心臓のように。
地上で、砦の鐘楼が勝手に震え出した。
北の山脈に埋もれていた古代塔が、一本、また一本と青い光を灯す。
王都。
王宮。
婚約破棄の祝宴がまだ続く大広間。
そこに設置された戦勝記念の古い魔導鐘が、突然鳴り響いた。
誰も触れていないのに。
同時に、王国全土の防衛盤へ文字が刻まれる。
《古代防衛機構、再起動》
《機械竜アルヴィオン、主認証を更新》
《新規管理者:セレスティア・ベルクライン》
地下で、巨大な竜が片目を開いた。
『認証完了。廃棄令嬢セレスティアを、王国防衛機構の主として登録します』
「その呼び名は、もう少しどうにかならないかしら」
『称号候補を検索。辺境管理者。防衛権限者。廃棄品代表』
「最後は消しなさい」
『了解』
ミレットが泣き笑いの顔で、私の袖を握った。
だが、その温かな一瞬は、次の警報で砕かれた。
《警告》
《北方山脈より敵性飛翔体を検出》
《王都到達まで、四十八時間》
《迎撃指揮権限者:セレスティア・ベルクライン》
王都が捨てた私の名前が、その夜、王国すべての城塞で警鐘として鳴り響いた。




