87.
粉砕された分厚いオーク材の扉の向こう側。
土煙が晴れた会議室に、ミシェルの氷のように冷たい声が響き渡った。
床には、先ほどまでふんぞり返って祝杯をあげていたゲータニィガ王国の高官たちが、無様な姿で這いつくばっている。
彼らを睥睨するミシェルの手には、ティルが持ち込んだ分厚い証拠書類の束が握られていた。
「マーストン宰相。貴方が農村部の治水予算を横領し、私腹を肥やしていた証拠。そしてゼウス財務大臣。貴方が周辺諸国と裏取引を行い、帝国への暗殺者派遣のために資金を提供していた証拠です」
「これらすべての不正蓄財、ならびに諸外国の口座に隠し持っていた裏金。そして王国の国庫に残っていたわずかな資産」
ミシェルは書類をパラパラとめくり、まるで今日の夕食の献立でも読み上げるかのように、淡々と告げた。
「それらはすべて、皇族の命を脅迫したことに対する正当な慰謝料として、すでに帝国の口座へ送金処理を済ませておきました」
「なっ」
ミシェルの言葉に、財務大臣が信じられないものを見るように目をひん剥いた。
彼は震える手で床を叩き、顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。
「そ、送金済みだと。馬鹿なことを言うな。他国の国家資産を、一介の事務官風情が勝手に動かせるはずがないだろうっ」
「勝手に、ではありませんよ。お忘れですか」
ミシェルは中指で眼鏡のブリッジを押し上げ、冷酷な笑みをさらに深めた。
その瞳は、這いつくばる高官たちを完全にゴミとして見下している。
「わたしは帝国へ引き渡される前、この国の王位継承権を持つ『王女』として遇されていました。建前上とはいえ、王族としての権限は生きたままです」
「自国の腐敗した財産を、正当な権限を用いて清算したに過ぎません。何か問題でも」
合法的な手段による、国家の完全なる差し押さえ。
高官たちは顔面を蒼白にし、絶望のあまり言葉を完全に失った。
「ふざけるなっ。この売国奴の魔女めっ」
逆上した宰相が、懐から護身用の短剣を抜き放った。
彼は狂ったように目を血走らせ、真っ直ぐにミシェルへと飛びかかってくる。
しかし、その刃がミシェルの銀糸の髪に届くことは永遠にない。
横に控えていた巨大な皇帝ギデオンが、欠伸でもするような気軽さで前に出たのだ。
彼は振り下ろされた短剣の刃を素手で掴むと、飴細工でも捻るように容易くへし折ってしまう。
「ひぃっ」
「俺の女の計算を邪魔するな、下郎」
ギデオンが胸ぐらを掴んで軽く床に叩きつけると、大理石が蜘蛛の巣状に砕け散った。
宰相はカハッと血を吐き、そのまま白目を剥いて気絶する。
冷徹妃の完璧な頭脳による社会的抹殺と、覇王の圧倒的な武力による物理的制圧。
この二人が並び立った時点で、王国側に勝ち目など万に一つも存在しなかったのだ。
そんな絶望的な蹂躙劇が繰り広げられる背後で、壁際に縮こまっている者たちがいた。
副官のティルと、彼女の背中に隠れるようにして立つ三歳のカイウスである。
「ひぃぃっ。首の骨が嫌な音を立てたですぅ。絶対に三歳児に見せていい情操教育じゃないですよぉ」
ティルは涙目でカイウスの顔の前に両手をかざし、惨劇を見せないように必死に視界を遮っていた。
王国側が暗殺者を放つ危険がある以上、カイウスを帝城に置いてくるわけにはいかず、安全のために同行させたのだ。
しかし、これではどちらが子供の目に毒かわからない。
だが、カイウスはティルの指の隙間から、その光景をじっと見つめていた。
かつての自分を暗い地下室に閉じ込め、理由もなく暴力を振るっていたような、偉そうで恐ろしい大人たち。
彼らが今、たった一人の女性の前に平伏し、惨めに震え上がっている。
いつも自分に絵本を読み聞かせてくれる、あの優しいミシェル。
彼女の凛々しく、揺るぎないその背中は、カイウスの目にこの世の何よりも大きく、頼もしく映っていた。
「みえう……かっこいい」
カイウスの小さな唇から、純粋な感嘆の吐息がこぼれ落ちる。
そのたどたどしい言葉は、静まり返った会議室に、思いのほかはっきりと響き渡った。
次の瞬間。
ミシェルの顔から、絶対零度の冷徹な仮面が木っ端微塵に吹き飛んだ。
「聞きましたか、ギデオンっ。今、わたしをかっこいいと言ってくれましたよっ」
「なっ」
ミシェルは勢いよく振り返り、両手で自分の頬を押さえながら、ふにゃふにゃのだらしないデレ顔を晒した。
先ほどまで国を一つ滅ぼしかけていた冷酷な王族の面影は、もはや欠片も残っていない。
ただの、息子に褒められて浮かれる不器用な母親である。
「ぐぬぬっ。なぜだ。今、物理的に敵を倒してかっこいいところを見せたのは俺だろうがっ。なぜミシェルばかり褒められるのだっ」
「大の男が暴力を振るうなど野蛮なだけです。カイウスは、わたしのこの知的な制圧劇に美しさを感じたのですよ。ねえ、カイウス」
ギデオンが床を地団駄で踏み鳴らして悔しがる横で、ミシェルは足早にカイウスのもとへ歩み寄る。
「みえう、かっこいい」
「ああ、なんて可愛いのでしょう。帰ったら、ご褒美に新しい積み木を設計してあげますからね」
カイウスが嬉しそうに両手を伸ばすと、ミシェルは彼をふわりと抱き上げ、頬ずりをして甘やかし始めた。
「くそっ、次こそは俺が一番かっこいいと言わせてやるからなっ」
完全に置き去りにされた、ゲータニィガ王国の高官たち。
彼らは冷たい床に這いつくばりながら、自分たちの国を滅ぼした悪魔たちが繰り広げる平和な家族の口論を、ただ虚ろな目で見つめ続けることしかできなかった。




