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【連載版】加護なしの第八王女は、前世が社畜だったので王宮生活がイージーモードにしか見えない  作者: 茨木野


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86.

帝城の執務室には、穏やかで温かな昼下がりの陽光が差し込んでいた。

 ミシェルはふかふかの絨毯の上に座り、三歳のカイウスを膝に乗せて絵本を開いている。

 最近のカイウスは言葉を覚えるのが早く、絵本に描かれた動物を指差しては、一生懸命に名前を呼ぼうとしていた。


「いーぬ」


「正解です。では、これは」


 ミシェルがページをめくって鳥の絵を示すと、カイウスは少し考えてから、嬉しそうに口を開く。


「と、り」


「よくできましたね」


 ミシェルはかすかに目尻を下げ、カイウスの金糸のような髪を優しく撫でた。

 かつての冷徹妃からは想像もつかないほど、その表情には柔らかな母性が滲み出ている。

 少し離れたソファでは、巨大な皇帝ギデオンが書類仕事の合間にその光景を眺め、だらしなく顔を綻ばせていた。


 そんな穏やかな時間を引き裂くように、重厚な扉がバンッと乱暴に開かれた。

 飛び込んできたのは、顔を真っ青にさせた副官のティルである。

 彼女は息を切らし、震える手で一通の仰々しい親書を握りしめていた。


「ミ、ミシェル様っ。大変ですぅ。ゲータニィガ王国から、親書が届いたのですがっ」


「騒々しいですね。一国の親書を前にして、ひどく取り乱しているではありませんか」


 ミシェルはカイウスをそっと絨毯に降ろし、冷たく澄んだ声でティルを窘める。

 しかし、ティルから差し出された手紙を受け取り、その文面に目を通した瞬間。

 執務室の空気が、急激に凍りついた。


 それは、親書などという生易しいものではなかった。

 ミシェルの古巣であるゲータニィガ王国の高官たちが送りつけてきた、卑劣極まりない脅迫状であったのだ。


『現在、帝城に皇帝の血を引く隠し子が匿われているという確かな情報を得た。もしこの事実が他国に公表されれば、帝国の名誉は失墜し、皇位継承権を巡る内乱が起きることは明白である。また、我が国はいつでも帝城の奥深くに暗殺者を放つ用意がある。隠し子の安全とスキャンダルの隠蔽を望むのであれば、ミシェルよ、お前一人で祖国へ戻り、無償で国政を担え』


 自分の無能さを棚に上げ、国政の立て直しを他国に押し付けようとするばかりか。

 罪のない幼い子供の命を交渉のカードとして使う、底なしの愚行。

 ミシェルは表情一つ変えなかったが、その手元から絶対零度の冷気が放たれ、机の上のインク瓶の表面に薄っすらと霜が降りた。


「どうした、ミシェル。お前がそこまで殺気を放つとは、何事だ」


 只事ではない気配を察し、ギデオンがソファから立ち上がって歩み寄る。

 彼はミシェルの手から手紙をひったくり、太い眉を寄せて文面を追った。

 そして内容を理解した瞬間、ギデオンの放つ覇気が執務室の窓ガラスをビリビリと震わせた。


 ギデオンが握りしめていた純銀のカップが、メシャァッと嫌な音を立てて無惨にひしゃげる。


「俺の大事な弟と、世界で一番愛する女をダシにしやがったな」


 地鳴りのような低い声が、部屋の空気を重く圧迫する。

 魔王の如き怒りを露わにしたギデオンは、そのまま扉に向かって歩き出した。


「近衛騎士団に出撃の号令をかけろ。あんな腐りきった国、今すぐ俺が地図から消し去ってやる」


「お待ちください、ギデオン」


 ミシェルが氷のように冷たい声で、激怒する皇帝を呼び止めた。

 彼女はゆっくりと立ち上がり、眼鏡のブリッジを中指で静かに押し上げる。


「愚か者を相手に、無駄な戦争のコストをかける必要はありません。兵の動員費も、遠征の食糧費も無駄です」


「だがっ。奴らはカイウスの命を脅かしたのだぞっ」


 振り返り、怒りに目を血走らせるギデオンに対し、ミシェルは極めて冷静であった。

 しかし、その瞳の奥には、ギデオン以上の暗く冷たい怒りが渦巻いている。


「ええ、理解しています。だからこそ、わたしたちだけで十分なのです。彼らには、わたしが直接、国政のあり方と命の重みについて『正しい教育』を施してあげましょう。徹底的に、ね」


 ミシェルの冷酷な宣言に、ギデオンは一瞬毒気を抜かれたように立ち止まった。

 そして、彼女の静かな怒りの深さを悟り、凶悪な笑みを浮かべて頷いたのである。



 数日後。

 ゲータニィガ王国の王城にある、最高幹部専用の会議室。

 そこでは、国の崩壊を招いた元凶である高官たちが、高級な年代物のワインを開けて祝杯をあげていた。


「はははっ。見ろ、帝国のスパイからの報告だ。あの女、どうやら本当に一人でこちらに向かっているらしいぞ」


「当然だ。あの女は常に損得と論理で動く。子供の命と帝国の名誉を天秤にかけられれば、おおのずと正解は導き出されるというものだ」


 財務大臣が下品に笑い、ワイングラスを傾ける。

 国を傾かせた責任など微塵も感じておらず、彼らの頭の中にあるのは、再びミシェルという便利な道具を使って贅沢な生活を取り戻すことだけであった。


「小賢しい女だが、実務能力だけは一流だからな。戻ってきたら、まずはこの書類の山をすべて片付けさせよう」


「ええ。それに、少し痛い目を見せて、二度と我々に逆らえないように調教してやらねばなりませんな」


 宰相が醜く顔を歪め、葉巻の煙を深く吸い込む。

 彼らは完全に勝利を確信していた。

 帝国の皇帝がどれほど恐ろしかろうと、隠し子の存在という切り札がある限り、手出しはできないと高を括っていたのだ。


「さあ、間もなく到着する頃合いだ。あの生意気な女が、どんな泣き顔で命乞いをしてくるか、見物だな」


 高官たちが下劣な笑い声を響かせ、グラスを合わせようとした。

 その瞬間であった。


 ズドォォォォンッ。


 分厚いオーク材で作られた会議室の扉が、凄まじい轟音と共に木っ端微塵に吹き飛んだ。

 飛び散る木片と土煙。

 突風が吹き荒れ、テーブルの上のワイングラスや書類が派手な音を立てて床に散乱する。


 突然の爆発に、高官たちは悲鳴を上げて床に這いつくばった。


「な、なんだっ。何が起きたのだっ」


 宰相が咳き込みながら土煙の向こうを凝視する。

 粉砕された扉の跡地から、コツ、コツ、とヒールの音を響かせて、一人の女性が静かに足を踏み入れた。

 銀色の髪を美しく束ね、氷のように澄んだ瞳を持った冷徹妃。

 ミシェルであった。


「ええ。お望み通り、戻ってきてやりましたよ」


 ミシェルは無表情のまま、冷酷な笑みを浮かべて高官たちを見下ろした。

 彼女の姿を認めた高官たちは、安堵と優越感の入り混じった笑いを浮かべようとした。


「ふん、やはり一人で戻ってきたか。いい心がけだ、ミシェルよ。さっそく仕事に」


 財務大臣が偉そうに口を開きかけた、その時。

 ミシェルの背後から、さらに巨大な影がヌルリと姿を現した。


「誰が一人だと言った、このゴミクズどもが」


 鋼のような筋肉の鎧を纏い、怒りで髪を逆立てた覇王ギデオンである。

 彼はギリッと牙を剥き出しにし、その圧倒的な覇気だけで周囲の壁に無数の亀裂を走らせた。

 皇帝の恐ろしい形相に、高官たちの言葉は完全に喉の奥で凍りついた。


「ひぃっ、こ、皇帝っ。なぜ貴様がここにっ。隠し子の件をバラされてもいいのかっ」


「隠し子だと。あの子は正当な皇族であり、俺の大事な弟だ。公表したければ勝手にしろ」


 ギデオンが鼻で笑い飛ばす。

 そして、ミシェルの後ろからさらに、大量の書類を抱えたティルと、杖を持った大賢者ピクシーが静かに姿を現した。


「それに、公表する前に貴方がたの国は終わりますけどね」


 ミシェルが手で合図を送ると、ティルが抱えていた書類の束をドサリと床にぶちまけた。


「貴方がたが過去数年間にわたって着服した公金、周辺諸国との違法な裏取引、そして暗殺ギルドへの資金提供の証拠。すべてのデータを持ち込ませていただきました」


「なっ」


 自分たちの不正の完璧な証拠を突きつけられ、高官たちは顔面を蒼白にしてへたり込んだ。

 圧倒的な武力と、逃げ場のない情報力による完全包囲。

 自分たちが握っていたはずの切り札は、最初から何の役にも立っていなかったのだ。


 ミシェルは眼鏡のブリッジを中指で静かに押し上げ、氷の視線で彼らを射抜いた。


「さあ、始めましょうか。貴方がたのその空っぽな頭を、物理的にも社会的にもスクラップにする準備はよろしいですか。お覚悟を」


 ミシェルの絶対零度の宣告が、会議室に響き渡る。

 怒れる皇帝と冷徹妃による、国を挙げた徹底的な制裁が、今まさに幕を開けようとしていた。

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― 新着の感想 ―
さあ、お前達の罪を数えろという場面ですねぇ…
圧倒的な知力と武力を持ったこのペアに勝てる奴はいるんだろうか?
雉も鳴かずば撃たれまいというてな。 カイウスの存在に関しては公表されても痛くもかゆくもありませんが何か?ってとこだろう。 まあ、放置虐待されていたってのは風聞が悪いが、そこは下手人に当然の罪を負わせれ…
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