83.
帝城の中庭には、暖かな春の陽光が降り注いでいた。
若草の青い匂いと、微かに土の香りが風に乗って鼻腔をくすぐる。
その青々とした芝生の上で、巨大な皇帝ギデオンと三歳のカイウスが楽しげに転げ回っていた。
「ぎでおん」
「おう、なんだ」
「ぎでおん」
「おう」
名前を呼ばれるのが嬉しいのか、ギデオンはだらしなく顔を綻ばせ、カイウスが呼ぶたびに大げさに返事をしている。
その微笑ましい光景を、回廊の太い柱の陰から、冷徹妃ミシェルがじっと見つめていた。
彼女の氷のように澄んだ瞳の奥には、自覚のない微かな嫉妬の炎が揺らめいている。
「どうした、ミシェル。そんなところから睨みつけて」
視線に気づいたギデオンが、不思議そうに首を傾げた。
ミシェルは柱の陰からつつつと歩み寄り、無表情のまま首を横に振る。
「いえ、別に」
ミシェルはそれだけ言うと、わざとらしくうぉほんと咳払いをした。
そして、ギデオンとカイウスのすぐそばに立ち止まり、じーっと無言で皇帝の顔を見つめ下ろす。
「なんだ、ミシェル。俺の顔に何かついているか」
「なんでもありません」
ミシェルはツンとそっぽを向き、しかしその場から離れようとはしない。
しばらく沈黙が流れた後、彼女は再びギデオンの方を向き直り、静かな声で要求した。
「ギデオン。もっと大きな声で、わたしの名前を呼びなさい」
「ははあん」
ギデオンの顔に、ニヤリと意地悪な笑みが浮かんだ。
彼はすべてを察したように大きく頷き、立ち上がってミシェルを見下ろす。
「ミシェル。お前、ガキに自分の名前を呼ばせたいのだな。俺ばかり呼ばれるのが悔しくて」
「馬鹿なことを言うんじゃありません」
ギデオンの言葉が最後まで終わる前に、ミシェルが食い気味に言い放った。
彼女はほんのりと頬を赤く染め、ぷくっとわずかに頬を膨らませて視線をそらす。
「素直じゃない奴め」
ギデオンは愉快そうに鼻を鳴らすと、芝生の上に座るカイウスの隣にしゃがみ込んだ。
そして、大きな手でミシェルの方を指し示す。
「いいか、カイウス。この人はミシェルだ。みしぇる。ほら、言ってみろ。み・しぇ・るだぞ」
カイウスはきょとんと目を丸くし、ギデオンの指の先にある銀髪の女性を見上げた。
そして、小さな口を一生懸命に動かす。
「みえう」
たどたどしい、しかし可愛らしい声が中庭に響いた。
その瞬間、ミシェルの顔から冷徹な仮面が完全に剥げ落ちる。
「お、惜しいです。ですが、とてもいい感じですよ」
ミシェルはふにゃっと表情を崩し、目をキラキラと輝かせながらカイウスの前にしゃがみ込んだ。
普段の氷のような彼女からは想像もつかない、だらしのないデレ顔であった。
「ふっ。面白い女だ」
「貴方に言われたくはありません」
ギデオンの茶化すような言葉をピシャリと跳ね除け、ミシェルは期待に満ちた目でカイウスを見つめる。
もっと呼んでほしい。その思いが、全身から溢れ出ていた。
しかし、カイウスは嬉しそうに笑うと、無邪気な声でこう告げたのである。
「みえう。ぎでおん」
完璧な発音で呼ばれたギデオンの名前に、ミシェルはぐっと呻いてガックリと項垂れた。
そのまま膝から崩れ落ち、両手で顔を覆って芝生の上に突っ伏す。
「ははははっ。いつも俺はお前に言い負かされてばかりだったがな。今回ばかりは、俺の完全勝利というわけだ」
ギデオンが勝ち誇ったように腰に手を当て、腹を抱えて高笑いをする。
ミシェルはむかっと顔を上げると、立ち上がってギデオンの鋼のような腕をべしべしと叩き始めた。
「うるさいです。このバカ皇帝。次は絶対にわたしの方が上手く呼ばせてみせますから」
顔を真っ赤にして怒る冷徹妃と、痛くも痒くもない様子で笑い続ける巨大な皇帝。
カイウスは二人の騒がしいやり取りを、ぽかぽかとした陽だまりの中で楽しそうに見つめていた。




