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【連載版】加護なしの第八王女は、前世が社畜だったので王宮生活がイージーモードにしか見えない  作者: 茨木野


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82.

 帝城の執務室には、ミシェルが走らせる万年筆のカリカリという硬質な音だけが響いていた。

 微かなインクの匂いと、山のように積まれた書類。

 冷徹妃として国政を担う彼女は、今日も瞬きすら惜しむようにバリバリと決裁をこなしている。


 その部屋の隅、分厚い絨毯の上で、三歳のカイウスは小さな膝を抱えてじっと縮こまっていた。

 彼の目の前にはお気に入りの積み木が散らばっているが、それに触れようとはしない。

 ただ、忙しそうに働くミシェルの銀色の横顔を、大きな瞳でじっとうかがっている。


 ほんとうは、遊んでほしい。

 温かいミシェルの膝に乗り、頭を撫でてもらいながら、一緒にお城を作りたい。

 しかし、カイウスはきゅっと唇を噛み締め、その衝動を必死に我慢していた。

 大人の邪魔をすれば、また暗い地下室で殴られるかもしれないという恐怖が、まだ彼の心の奥底にこびりついているのだ。


「何をしている、こんなところで」


 突如、ずしんという重い足音と共に、巨大な影がカイウスを覆い隠した。

 見上げると、腕を組んだ皇帝ギデオンが、不思議そうにこちらを見下ろしている。

 ギデオンはカイウスの視線の先にあるミシェルの姿を確認し、深く納得したように頷いた。


「なるほど。ミシェルに甘えたいが、仕事の邪魔になりそうで我慢しているのだな」


 図星を突かれ、カイウスはびくりと肩を跳ねさせ、なぜわかったのかと目を丸くする。

 するとギデオンは、えっへんと尊大に分厚い胸板を張り、見えない尻尾をパタパタと誇らしげに振った。


「当然だ。なぜなら、俺も今、ミシェルに甘えたいのを必死に我慢しているところだからだ」


 皇帝として全く威張れることではないのだが、ギデオンの顔はどこまでも自信に満ち溢れていた。

 彼はどっこいしょと音を立てて絨毯に座り込むと、散らばっていた積み木を無造作に手に取った。


「まあ、お前の気持ちは痛いほどよくわかる。あいつのあの真剣な横顔も美しいが、今は邪魔をしたくないからな。ならば仕方ない、俺が暇つぶしに付き合ってやろう」


 ギデオンはカイウスの隣で、器用に積み木を組み上げ始めた。

 カイウスもつられるようにして手を伸ばし、二人は無言のまま、小さな木の城を作り上げていく。


「ほう。そこを補強するとは。やるな、カイウス」


 ふふっ、とギデオンが楽しげに笑う。

 その穏やかな声に、カイウスの緊張も少しずつ解けていった。

 城が完成に近づいた頃、ギデオンはふと手を止め、真剣な眼差しでカイウスを見つめた。


「だがな、カイウス。あまり我慢しすぎるのはよくないぞ。俺は常々思っているのだ。やりたいことは、やった方がいいと」


 巨大な覇王の静かな声が、絨毯の上に落ちる。


「昔、帝国にノア・カーターという偉大なる皇帝がいた。そいつは言ったのだ。『自ら飛び込む方がいい、手をこまねくくらいなら』とな。帝国の名言集にも収録されている言葉だ」


 ギデオンは大きな手で、カイウスの小さな頭をぽんぽんと乱暴に撫でた。


「まさにその通りだ。我慢はいずれ、深い後悔を生む。あの時ああしていれば、あの時伝えていれば。そう思った時には、その時間はもう二度と戻らないのだ」


 ギデオンの言葉には、過去の数多の戦場や権力闘争の中で、彼自身が味わってきたであろう重みが含まれていた。


「我慢するくらいなら、まずは飛び込んでみるのだ。失敗したら、その時に考えればいい。さあ、そろそろミシェルの仕事も片付きかけている頃だろう。行くぞ、カイウス」


 ギデオンが立ち上がり、手を差し伸べる。

 しかしカイウスは、もじもじと指を絡ませ、やはり躊躇してうつむいてしまった。


「ええいっ、じれったい奴め」


 ギデオンは舌打ちをすると、カイウスの首根っこをひょいとつまみ上げ、そのまま大きく腕を振りかぶった。

 そして、執務机に向かっているミシェルへ向けて、三歳児の体を思い切りぶんなげたのである。


「ちょっと。何をしているのですかっ」


 宙を舞ったカイウスを、ミシェルが慌てて立ち上がり、両腕でふわりと見事にキャッチした。

 氷色の瞳が怒りに燃え、ギデオンを鋭く睨みつける。


「幼児を投擲するなど、どんな判断基準ですか。怪我でもしたらどうするつもりですか、バカ皇帝」


「遊んで欲しそうにしていたのだ。仕事の区切りがついたのなら、少しは遊んでやってやれ」


 ギデオンが鼻を鳴らしてそっぽを向く。

 その言葉に、ミシェルはハッとして、腕の中にいるカイウスを見つめた。

 カイウスの大きな瞳には、うっすらと涙が浮かび、ミシェルのドレスを小さな手でぎゅっと握りしめている。


 自分が書類仕事に没頭するあまり、彼がずっと一人で我慢していたことに、ミシェルはようやく気がついたのだ。


「……ごめんなさいね、カイウス」


 ミシェルは氷のような表情をふわりと崩し、柔らかな笑みを浮かべてカイウスの背中を優しくトントンと叩いた。


「貴方のデータ収集を怠っていました。一緒に遊びましょう。何がしたいですか」


 ミシェルの温かい言葉に、カイウスはこくんと嬉しそうに頷き、顔を真っ赤にして微笑んだ。

 そして、ミシェルの腕の中から、少し離れた場所に立つギデオンの方を振り向く。


「あ、いが、と」


 たどたどしく、しかしはっきりとした声が、静かな執務室に響き渡った。


「ぎでおん」


 それは、カイウスが帝城に来てから、初めて口にした意味のある言葉であった。


「……え」


 ミシェルが目を丸くして固まる。


「えええええええっ」


 ギデオンが顔を真っ赤にしてのけぞり、巨大な体を震わせて叫んだ。

 カイウスの初めての言葉。

 それを引き出したのが、自分であるという事実に、皇帝の独占欲と歓喜が爆発したのだ。


「聞いたかっ、ミシェル。俺だ。俺の名前を呼んだぞっ。やはり俺の男らしい包容力と帝王学が、このガキの心を打ったのだっ」


 ギデオンは床をドンドンと踏み鳴らし、歓喜の舞を踊り始める。

 一方のミシェルは、信じられないものを見るような目で、腕の中のカイウスと、踊る皇帝を交互に見つめていた。


「嘘でしょう。わたしが毎日、三食の栄養管理を行い、睡眠の質を確保し、知育玩具まで設計して言語野の発達を促してきたのに。初めての言葉が、あのバカ皇帝だなんて」


 ミシェルはガックリと項垂れ、そのまま膝から崩れ落ちるようにして絨毯の上にへたり込んだ。

 計算外の事態に、完全なる敗北感を味わう冷徹妃。

 彼女の絶望的な溜息と、ギデオンの騒がしい笑い声が交差する中、カイウスだけが嬉しそうに、ミシェルの胸の中でパタパタと足を揺らしているのであった。


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― 新着の感想 ―
ギデオンはパパであり、理解者であり、兄である。 これが一番合ってると思う。
これあれだ、大型犬が飼い主に子供出来て「俺お兄ちゃん!」ってめっちゃいい子になるやつ
もう二人の子供じゃねえかw
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