138.
ミシェルは夜遅くまで事務作業を続けていた。
そこへ、ノックもせず、ぬぅっとギデオンが部屋に入ってくる。
「ノック」
「ふっ……」
「はぁ……」
ミシェルのため息には、多分に諦めの成分が含まれている。
何度言い聞かせても、この皇帝はこちらの都合などお構いなしに近づいてくるのだ。
ミシェルは仕事手を止め、ソファへと移動する。
ギデオンはさも当然とばかりに、隣に腰を下ろした。
「…………」
ミシェルは気づいてる。
ギデオンが来るのは、決まって、ミシェルが根を詰めて仕事をしている時だ。
彼が来ると否応なく手がとまり、結果として休憩を取ることになる。
それはギデオンなりの気遣いであると同時に——
「ふっ……ミシェルは今日も美しいな」
「はぁ……」
単に、ミシェルに会いたいから。
ただそれだけで会いに来ているのだということに、ミシェルはとっくに気づいていた。
「おまえの髪は美しい」
「はいはい」
「おまえの肌も美しい」
「そうですかそうですね」
ギデオンはミシェルの髪や肌にペタペタ触れる。
だが別に気にしてはいない。
(前とは違って、この人が悪意のある人間ではないことはわかってるし、少し抜けているくらいで)
裏がないとわかっているからこそ、ミシェルは安心できた。
(……安心、か。そう言うのとは無縁の生き方をしていたな)
前世でも、今世でも、ミシェルは虐げられて生きてきた。
どちらの世界にも安心できる場所などなかった。
(……いつの間にか、この大男の隣が、私の安らげる場所になっていたのかもしれない)
……そう思うと、ミシェルはゆっくりと、ギデオンの肩に頭を乗せる。
ギデオンははやし立てることもなく、ただ静かにミシェルを受け入れ、寄り添っていた。
端から見れば仲の良い夫婦、あるいはカップルに見えるだろう。
(こんな姿誰にも見られたくない。まあ、部屋にノックもせず入る愚か者は、ギデオンくらいだし大丈夫か……)
そのときだった。ガチャ。
「ミシェル様ぁ~。妖精郷への遠征行程のご報告に……」
ティルの表情が固まる。
ミシェルとギデオンが寄り添っているところを、運悪く目撃してしまったのだ。
「で、でて行け馬鹿者……!」
「ひぃ! ごめんなさいぃいいいい!」
ミシェルは顔を真っ赤にして声を荒らげ、ティルは青ざめた表情で飛び出していった。
(なというところを見られたのだ……始末せねば……)
「どうしたミシェル。何を慌てているのだ?」
一方で、ミシェルの心の内なんて気にしてないギデオンが、のんきに尋ねてきた。
ミシェルは顔を赤らめた状態で、何度も彼の肩を叩く。
「おまえは、気にならないのですか?」
「何か気になることでもあったか?」
「人に見られたんですよ? 私たちのその……」
「俺たちの何を?」
(この男……羞恥心が死んでいるのか……? なんで私だけこんな動揺しないといけないんだ……)
そう思うと、なんだかとても腹が立ってきた。
「ギデオン」
「なんだ?」
「いけ、ティルを捕まえてこい」
「委細承知」
にやりと笑うと、ギデオンは立ち上がり、部屋を出て行く。
「どうせカイウスのところです。あいつ、私がカイウスに甘いのをわかってるから、盾にしようとしてるのです。こざかしい」
「承知した。ふ……さすがミシェル。賢い女だ。そこが素晴らしい」
ギデオンがさっさとでて行く。
だからこそ——ミシェルの耳が赤くなっていることに、気づいていないのだった。




