婚約破棄された【失格聖女】、元魔王城を最強ホテルに改装して楽しく暮らす。~極めた結界術で未来の世界で弱った魔族たちのための最強の宿を作る。私を失い没落した勇者はお断りです~
連載候補の短編です。
「悪いな、セシリア。お前との婚約は今日限りで破棄させてもらう。そして、ここで死んでくれ」
視界が、大きく揺らいだ。
鼻を激しく突くのは、鉄のような血の匂いと、焼け焦げた肉の異臭だ。
耳をつんざくような人々の歓声が、遠くの方で地鳴りのように響いている。
魔王討伐の最終決戦を終えた直後。
聖女であり、勇者の婚約者でもあるセシリアは、冷たい石畳の上に力なく膝をついていた。
全身の骨がきしむように痛む。
それでも、ついに世界に平和が訪れたのだと、安堵の笑みを浮かべようとした。
その瞬間。
背中から胸へ、熱くて冷たい鉄の塊が貫通した。
「えっ」
口から、赤黒い血が止めどなく溢れ出す。
視線を落とすと、胸から生えていたのは、見慣れた白銀の刃だった。
それは、婚約者である勇者ナハトが持つ聖剣。
「どうしてっ」
震える声で、背後に立つ男に問いかける。
今まで共に死線を潜り抜けてきた、最も信頼していたはずの男に。
「お前は聖女のくせに、浄化も治癒もまともに使えない。結界しか張れない無能はお払い箱だ。これからの平和な世界に、欠陥品の聖女など邪魔なだけだからな」
「結界しか、張れない……」
「安心しろっ。魔王を倒した英雄としての名誉は、俺が全て背負ってやる。お前はただの役立たずだったという真実と共に歴史に葬ってやるよ」
鈍い衝撃音と共に、ナハトが聖剣を乱暴に引き抜く。
同時にセシリアの体は無造作に蹴り飛ばされ、石の床に激しく叩きつけられた。
激痛が全身を駆け巡り、目の前が真っ暗になる。
だが、セシリアの心の中に湧き上がったのは、悲しみや絶望よりも、底知れない深い呆れだった。
(この男は、本当に何も分かっていないのね)
薄れゆく意識の中で、セシリアは心の中で深くため息をつく。
ナハトは、セシリアの結界を単なる物理的な防御壁だと勘違いしている。
だが、彼女の能力の真髄は、結界内部の法則を自由自在に書き換える神域の力『絶対領域』であった。
敵の即死魔法を完全に無効化する絶対法則。
味方の体力が自動で瞬時に回復し続ける法則。
ナハトの拙い剣撃の威力を、強制的に百倍に引き上げる法則。
それらを密かに領域内に付与し、圧倒的な力で無謀な魔王討伐を裏から成立させていたのは、他でもないセシリアなのだ。
彼女の領域支配によるサポートがなければ、ナハトなど魔王の部屋に足を踏み入れた瞬間に、塵となって消滅していただろう。
(ああ、もう、いやだわ)
誰かのための便利な道具になるのはごめんだ。
身の程を知らない愚かな男の世話を焼くのも、もう終わりにしてしまおう。
痛覚が麻痺し、冷たくなっていく体を抱えながら。
セシリアの視界は、完全な闇に包まれた。
ぽたり。
冷たい水滴が頬に落ちて、セシリアはゆっくりと重い瞼を開けた。
最初に感じたのは、ひどく埃っぽい空気と、鼻を突く強烈なカビの臭いだ。
硬い地面に手をついて体を起こすと、そこは見渡す限りの瓦礫の山だった。
「ここはっ」
天井は大きく崩れ落ち、その隙間から淀んだ灰色の空が覗いている。
美しかったステンドグラスは粉々に砕け散り、かつての威容は見る影もない。
だが、その歪な間取りにははっきりとした見覚えがあった。
つい先ほどまで、命がけで魔王と戦っていた場所。
紛れもなく、魔王城の玉座の間だった。
「おや、ようやくお目覚めだね。おはよう、セシリア」
頭上から場違いなほど軽快な声が降ってきた。
見上げると、そこには淡く発光するソフトボール大の球体が浮遊している。
「あなたは、真理っ」
「ご名答っ。君の忠実なるサポート精霊にして、この星の叡智を司る真理だよ」
くるくると楽しげに宙を舞う光の玉。
かつてセシリアが森で朽ちかけていたところを救って以来、何かと付き従ってくる不思議な精霊だった。
「助けてくれたのね。ありがとう。でも、ここは酷い有様ね。戦いが終わってから、数日は経っているのかしら」
「数日っ。ああ、君の感覚ではそうなるのか」
真理は、からかうようにわざとらしく明滅を繰り返した。
「残念ながら、ここは三十年後の魔王城だ。君は長い、長ーい眠りについていたんだよ」
「さんじゅう、ねんっ」
予想外すぎる言葉に、セシリアは絶句して目を丸くする。
慌ててナハトに刺された胸の傷を確認するが、そこは跡形もなく綺麗に塞がっていた。
しかし、周囲の風化しきった荒廃ぶりを見れば、それが冗談でないことは明らかだ。
「驚くのはまだ早いよ。君にとって、もっとショッキングな事実を教えてあげよう」
真理はセシリアの目の前まで降りてくると、淡々と残酷な真実を口にした。
「現在の人間界において、君は『勇者をたぶらかし、国を滅ぼそうとした希代の大悪女』として歴史に名を刻まれている。街に出れば、間違いなく石を投げられて殺されるよ」
「はっ」
裏切られて殺された挙句、歴史を書き換えられ、悪女として名を残している。
あまりの理不尽な事実に、セシリアは口を半開きにして呆然と立ち尽くした。
三十年の時を経て目覚めた彼女を待っていたのは、かつての仲間が作り上げた残酷な現実だった。
◇
ヒュオォォォ、と。
冷たく湿った風が、荒れ果てた玉座の間を吹き抜けていく。
セシリアはガックリと膝から崩れ落ち、冷たい石の床に両手をついた。
歴史の改竄。
かつての婚約者による残酷な仕打ちに、頭の奥がジンジンと痛む。
「私が、国を滅ぼそうとした悪女っ」
「そうだよ。だから街に行けば、火あぶりにされるか、串刺しにされるかの二択だね。君の手配書は、三十年経った今でもあちこちに貼られているくらいさ」
真理は空中でぷかぷかと浮遊しながら、ケロリとした声で言い放つ。
他人事とはいえあまりにも軽い口調に、セシリアは深いため息を吐いた。
「それにしても、あの勇者ナハトは本当に愚かだったねえ」
真理が呆れたように明滅しながら、言葉を続ける。
「君という優秀なブレインであり、あらゆる危機を無効化してくれていた最強の加護を失ったことに気づかず、英雄として王座にふんぞり返ったんだ。当然、彼の本当の無能さがすぐに露呈したのさ」
真理の話によると、現在の人間界は悲惨な状況らしい。
セシリアの結界による浄化サポートが消えたことで、国土は徐々に瘴気に蝕まれていった。
作物は枯れ果て、魔物が頻出するようになり、国力は衰退の一途を辿っているという。
民衆の不満は爆発寸前であった。
「で、肝心のナハトはどうなったのっ」
「ストレスと不摂生がたたって、今や見る影もない見事なハゲデブさ。剣を振らせればゴブリンにも遅れをとり、政治をやらせれば側近の甘言に騙される。毎日、反乱の鎮圧と枯渇する財政のやり繰りで、文字通り泡を吹いて倒れそうになっているらしいよ」
真理の報告を聞いて、セシリアの胸の奥から込み上げてきたのは、怒りよりも途方もない疲労感だった。
自分を無能と見下し、裏切った男の惨めな末路。
(あんな男のために、私は命を削っていたのね)
誰かのために己をすり減らすのは、もう絶対にやめよう。
セシリアはギュッと拳を握りしめ、過去への未練を完全に断ち切った。
「動かない方が賢明だね。ここは魔族の気配すらない、ただの巨大なゴミ捨て場さ。人間だって、わざわざこんな呪われた廃墟に近づこうとは思わないだろうしね」
「そうね。人間の街に戻る理由もないわ。戻ったところで、誰も私を歓迎しないもの。あんな没落していく国、もうどうでもいいわ」
セシリアはゆっくりと立ち上がり、改めて周囲を見渡す。
崩れかけた巨大な石壁。
ひんやりと湿った床には、正体不明のぬめりが這っている。
鼻を突くのは強烈な黒カビの臭いと、何かが腐敗したような不快な悪臭だ。
かつては魔王の居城として恐れられた場所も、今やただの不気味な廃墟に過ぎない。
だが、誰にも脅かされない静かな場所であることは確かだ。
どうせなら、この廃墟で誰にも邪魔されず、一人で気ままに生きていこう。
「まずは、この酷い臭いと汚れをどうにかしないと。こんな環境じゃ、一晩で病気になってしまうわ」
「おや、掃除でも始めるのかいっ。手伝ってあげたいところだけど、僕は実体がないからねえ」
真理が面白そうに光を瞬かせながら、くるくると宙を舞う。
セシリアは両手を胸の前に掲げ、静かに目を閉じた。
『結界しか張れない無能はお払い箱だ』
ナハトの嘲笑が耳の奥に蘇る。
セシリアは首を激しく横に振り、最悪な記憶を頭から叩き出した。
深呼吸をして、体内の魔力をゆっくりと練り上げる。
三十年の眠りを経ても、彼女の中に宿る膨大な魔力は健在だった。
「【絶対領域】」
静かな、だが凛とした声の詠唱と共に、セシリアの体から淡い黄金色の光が波紋のように広がる。
目に見えない強固な結界が、広大な魔王城全体をすっぽりと包み込んだ。
「さて、ルールの書き換えよ。第一項、この領域内にいかなる汚れも、カビも、瘴気も存在してはならない。第二項、損壊した建造物は、最も美しい状態へと自動修復される」
セシリアが法則を設定した瞬間。
シュウウウウ、と。
湿った音を立てて、分厚くこびりついていた黒カビが一瞬にして消滅する。
足元を覆っていた不気味なぬめりはサラサラの塵となり、吹き抜ける風と共に散っていく。
腐敗した臭いが嘘のように消え去り、まるで朝の森の奥深くのような、清浄でひんやりとした空気が空間を満たしていった。
ひび割れていた石柱や床の欠損部分も、時間を巻き戻したかのように自動で修復されていく。
「わあ、これはすごいねっ。信じられないほどの力だっ」
真理が歓声を上げて飛び回る。
見違えるほど綺麗になった石造りの大広間に、セシリアは満足げに頷いた。
美しい大理石の床が、本来の輝きを取り戻している。
戦闘では無能と蔑まれた結界魔法が、皮肉にも今、最高の快適さをもたらしている。
誰かに命令されたわけでもなく、ただ自分の生活のために使った力。
心の中の暗い靄までスッと晴れたような気がして、セシリアは久しぶりにクスリと笑った。
その時だ。
ガタッ。
綺麗になった大広間の隅から、微かな物音が響いた。
セシリアはのけぞるようにして、弾かれたように振り返る。
「誰か、いるのっ」
誰もいないはずの廃墟。
セシリアは警戒しながら目を凝らす。
巨大な瓦礫の陰から、小さな気配が複数、こちらを怯えたように窺っていた。
◇
瓦礫の裏側に身を潜めていたのは、ボロボロの衣服を纏った三人の子供たちだった。
頭には小さなねじれた角が生え、腰のあたりからは細い尻尾が力なく垂れ下がっている。
間違いなく、魔族の子供たちだ。
「ひっ……ご、ごめんなさいっ。なにも、してない、ですっ」
セシリアが一歩近づくと、一番年上の少年が、幼い弟と妹を庇うように前に出た。
その体は骨が浮き出るほどに痩せ細り、あちこちに痛々しい切り傷や打撲の痕が残っている。
「叩かないで……石を、投げないでっ」
少年はギュッと目を強くつむり、ガタガタと全身を震わせた。
後ろに隠れた小さな二人は、恐怖のあまり声すら出せないようだった。
「おや、魔族の生き残りだね。人間たちに迫害されて、居場所がなくてこんな廃墟に逃げ込んできたんだろうさ」
真理が空中でパタパタと光を明滅させながら、同情するような声を出す。
その言葉を聞いて、セシリアの胸の奥がギュッと締め付けられた。
(ああ、この子たちも、私と同じなんだわ)
用済みとなれば捨てられ、誰も助けてはくれない。
逃げ場を失い、冷たい石の床で怯えるしかない彼らの姿が、かつて道具として酷使され、暗い場所で泣き寝入りしていた自分自身と痛いほどに重なったのだ。
セシリアはゆっくりとその場にしゃがみ込み、彼らと同じ目の高さになった。
そして、努めて優しく、穏やかな声音で語りかける。
「大丈夫よ。叩いたりしないし、石なんて投げないわ」
「え……?」
「痛かったでしょう。もう、我慢しなくていいのよ」
セシリアはそっと手を伸ばし、少年の泥だらけの頬に触れた。
ビクッと肩を跳ねさせた彼らに向けて、静かに領域のルールを追加する。
「絶対領域、ルール追加。第三項。この領域内では、魔族の持つ負の魔力は正の反転魔力として働き、すべての傷は治癒する」
セシリアが法則を書き換えた瞬間、空間全体が淡い黄金色の光に包まれた。
春の陽だまりのような温もりが、彼らの冷え切った体をじんわりと温めていく。
痛々しかった傷跡はみるみるうちに塞がり、青白かった肌に健康的な血色が戻っていく。
「あ……痛く、ない。血が……止まってる……?」
「ほんとうだっ。ポカポカして、すごく気持ちいいっ」
子供たちは自分の体を見下ろし、信じられないというようにぱちぱちと瞬きを繰り返した。
警戒心で強張っていた彼らの表情が、ふわりと柔らかく解けていく。
「お、おかしいぞっ。治癒魔法は、おれたち魔族にとっては毒のはずだろうっ」
少年が、驚きのあまり声を上げる。
「ええ、そうね。でも、これはただの治癒魔法じゃないの。この空間の法則そのものを書き換えたから、あなたたちの負の力を使って自動で体を治しているのよ」
子供の魔族は、セシリアの言っていることを理解できないようだった。
「ま、理解しろってほうが無理だ。なにせセシリアのやった治癒は、神業。空間の法則をいじって魔族を回復させるなんて、一億人に一人だってできない、超越した結界術なんだからね」
えっへん、と真理が偉そうに胸を張るように明滅する。
「よくわかんねーけど……怪我治してくれて、あんがと」
「いえいえ」
きゅるるぅぅぅぅぅぅっ。
不意に、静まり返った大広間に、盛大な腹の虫の音が響き渡った。
少年の顔が、一瞬にして茹でダコのように真っ赤に染まる。
「あ、う……そのっ」
「ふふっ、お腹が空いたのね。待ってて、すぐにご飯にするから」
セシリアはクスリと微笑むと、空間魔法のポーチから野営用の携帯食料を取り出した。
カチカチに硬くなった干し肉と、味のしない黒パン。
本来なら水で無理やり流し込むような粗末な代物だ。
だが、絶対領域の支配者である今のセシリアには、空間を彩る自由な力がある。
彼女は干し肉と黒パンを鍋に入れ、澄んだ水を生み出す。
「ルール追加、第四項。この鍋の中の食材は、最高級の柔らかさと極上の旨味へと変化する」
コトコトと煮込むこと数分。
鍋の蓋を開けると、ふわりと白い湯気が立ち昇り、暴力的なまでに芳醇な肉の香りが大広間いっぱいに広がった。
干し肉はルール書き換えによって極上の柔らかさを取り戻し、スープには肉の旨みと野菜の甘みが溶け込んでいる。
グツグツと音を立てる黄金色のスープは、見るからに食欲をそそる温かさを放っていた。
「さあ、冷めないうちに召し上がれ」
セシリアが木皿にたっぷりと注いで手渡すと、子供たちはゴクリと喉を鳴らした。
熱々のスープを一口飲んだ瞬間、彼らの瞳にパァンッと星のような輝きが宿る。
「おいひいぃぃぃっ」
「お肉が、お肉が口のなかでとろけちゃうよぉっ」
子供たちは夢中でスープを啜り、フハフハと熱い肉を頬張った。
あまりの美味しさに感動したのか、腰の尻尾をパタパタと千切れんばかりに振っている。
カチャカチャとスプーンが皿に当たる小気味よい音が、静かな城内に響き渡る。
その微笑ましい光景を見つめながら、セシリアはふと口を開いた。
「ねえ。あなたたち、行くあてはあるの?」
「……ううん。人間は怖いし、魔族の村も、もう焼かれちゃってっ」
少年がスプーンを止め、悲しそうに尻尾を丸めた。
セシリアは彼らの頭を順番に、優しく撫でる。
「私にも、帰る場所なんてないわ。だから、ここを私たちの新しい居場所にしましょう」
「お姉ちゃんも、ここにいてくれるの……?」
「ええ。この結界の中なら、誰にも邪魔されないわ。世界で一番温かくて安全な宿にしてみせるから、一緒にいましょう」
セシリアの言葉に、子供たちはポロポロと大粒の涙をこぼした。
不安と恐怖に満ちていた彼らの心に、初めて安心という名の灯がともった瞬間だった。
やがて、お腹いっぱいになった子供たちは、綺麗になった床に毛布を敷いて、丸まるようにして眠りについた。
スースーという穏やかな寝息が聞こえてくる。
「やれやれ、すっかり懐かれちゃったね。でも、君らしいや」
真理が呆れたように、しかしどこか嬉しそうに飛び回る。
セシリアもまた、満ち足りた思いで子供たちの寝顔を見つめていた。
だが、その平穏は、ふいに漂ってきた異質な気配によって破られた。
「何、この匂い」
セシリアはスッと立ち上がり、城の奥深くへと続く暗い回廊を見つめた。
鼻を突いたのは、むせ返るような鉄とサビの匂い。
そして、肌を刺すような、ぞっとするほど冷たい死の気配だった。
「真理、子供たちをお願い」
「えっ、ちょっとセシリアっ。どこへ行く気だいっ」
真理の制止を背に受けながら、セシリアは躊躇うことなく暗い回廊へと足を踏み入れた。
その気配の先で、彼女の運命を大きく変える存在が待っていることなど、この時のセシリアは知る由もなかった。
◇
暗く冷たい回廊を抜けた先には、かつて魔王の私室として使われていたであろう豪奢な扉があった。
死の気配は、その重厚な扉の向こうから漂ってきている。
セシリアは静かに扉を押し開けた。
むせ返るような血の匂いが鼻を突く。
部屋の中央、ひび割れた絨毯の上に、黒い塊が横たわっていた。
「これは、狼」
近づいてみると、それは一匹の小さな黒狼だった。
艶やかな黒い毛並みは血と泥にまみれ、体中に深い裂傷を負っている。
微弱な呼吸を繰り返しているが、魔力は完全に枯渇しており、命の灯火が消えかける寸前だった。
「セシリアっ、気をつけなよっ。こいつ、ただの魔物じゃない。とんでもない闇の魔力を秘めてる」
遅れて追いついてきた真理が、警告を発する。
だが、セシリアは躊躇うことなく黒狼の傍らに膝をついた。
「どんな力を秘めていようと、死にかけている小さな命よ。見捨てる理由にはならないわ」
セシリアは黒狼の傷だらけの体をそっと抱き寄せる。
すでにこの空間には、魔族の負の力が正の治癒に反転するという絶対領域のルールが敷かれている。
黒狼の体から溢れ出る濃密な闇の魔力が、結界の法則によって黄金色の光へと反転していく。
温かな光が、瀕死の黒狼を優しく包み込んだ。
致命的だった傷がみるみるうちに塞がり、荒かった呼吸が穏やかなものへと変わっていく。
やがて、黒狼は静かに瞼を開いた。
血のように赤い、宝石のような瞳。
その瞳が、自分を助けたセシリアをじっと見つめ上げる。
「おはよう。もう、痛いところはない」
セシリアが優しく微笑みかけると、黒狼は警戒するそぶりも見せず、ふらつく足で立ち上がった。
そして、セシリアの膝にすり寄るように顔を埋め、甘えるように喉を鳴らす。
短い尻尾をパタパタと振り、真っ赤な瞳をキラキラと輝かせている。
その愛らしい仕草に、セシリアの頬が自然と緩んだ。
「あらあら。あなたも、行き場がないのね」
セシリアは黒狼の頭を優しく撫でる。
手の中の小さな温もりが、ひどく愛おしく感じられた。
「拾ったからには、ちゃんと責任をとらないとね。これからよろしくね、黒いワンちゃん」
黒狼は返事をするように、短く一度だけ鳴いた。
その瞳には、セシリアに対する深い忠誠と、絶対的な信頼の光が宿っているように見えた。
「やれやれ。子供の次は、得体の知れない魔獣かい。君の保護欲には恐れ入るよ」
真理が呆れたように宙を舞う。
それから、ふと思い出したように明滅を繰り返した。
「そういえば、セシリア。君を捨ててハゲデブになった勇者ナハトのことなんだけどね」
「ナハトが、どうかしたの」
「この三十年間、君の結界がないせいで魔物の襲撃に怯え、ずっと眠れない夜を過ごしているらしいよ。今じゃすっかりノイローゼ気味で、国ごと泥舟に乗って沈みかけてるってさ」
真理の言葉に、セシリアは目を丸くした。
かつて自分が命を懸けて守ろうとした国が、己の愚かさゆえに自滅への道を突き進んでいる。
「ふうん、そう」
「あれっ。もっとざまあみろって喜ぶかと思ったのに。薄い反応だねえ」
「だって、もう三十年前の他人事だもの。あの人がどうなろうと、今の私には全く関係のない話よ。仮に泣きついてきても、この結界には絶対に入れないしね」
セシリアは、膝の上の黒狼を撫でながら静かに微笑んだ。
裏切られた怒りも、過去への未練も、すでに彼女の心からは綺麗に消え去っている。
「それよりも、これからのことを考えないと。この広いお城を、どうやって居心地の良いホテルに改装しようかしら」
元魔王城という巨大な廃墟で、魔族の子供たちと、不思議な黒狼との共同生活。
何でも自由に書き換えられる絶対領域を駆使した、最強の宿作り。
国ごと没落していく愚かな勇者をよそに。
失格聖女の、新しくてのんびりとした最高のスローライフが、今ここから始まろうとしていた。
【作者からお願いがあります】
少しでも、
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「連載版読んでみたいかも!」
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