第3話:あなたは自分の音を聴いていない
実技公開は、月に一度、第二講堂で開かれる。
教師が前列に六人並び、その後ろに学生が好きに座る。順に出て弾き、講評を受けて下がる。それだけの催しなのに人が集まるのは、講評が本気だからだ。誰がどこで落ちたかが、その場で言葉になる。
わたくしは最後列の壁際に立っていた。名簿から外れた者は出られない。出られない者が来るのは不作法だとも言われなかったので、来た。
三日のあいだ、地下へは二度下りた。二度とも同じ返事だった。弾かない、と言われ、頼みの中身を言い終える前に工具の音が戻る。三度目の今朝は、階段の下から声だけかけて、返事を待たずに上がってきた。第二講堂の場所と時刻を言っただけである。
ヨナタン様の順番は四番目だった。
弾き始めてすぐ、教師の一人が背もたれから背中を離した。上手いということである。跳躍が正確で、速い場所ほど揃う。三年前から一度も対を替えていない人の音だった。
わたくしは目を閉じて聴いた。低音側の癖で、人の演奏を聴くときは息を数える。ヨナタン様は跳ぶ前に息を吸わない。吸わずに跳ぶので拍が動かない。ここへ自分の手を置くとしたら、と考えかけて、置く場所が無いことに気づいた。この方の演奏には、隙間が要らない。
弾き終えて、拍手が起きた。ヨナタン様は礼をして、それから客席のほうへ向き直った。
「壁際の方。せっかく来られたのだから、講評をいただきたい」
顔が一斉にこちらを向いた。悪意ではない。この方はこういう場で、自分の正しさを一度きちんと確かめておきたいのだ。片翼が何を言えるのかを、皆の前で。
教師の何人かが止めようとした。ラウ教授だけが止めなかった。腕を組んだまま、こちらを見ている。
わたくしは壁から離れて、通路を三歩だけ進んだ。
一つだけよろしいでしょうか、と申し上げると、どうぞ、と返ってきた。
「そちらの楽器、右の三番目が半音ぶら下がっております」
講堂が静かになった。それから、笑いが起きた。前列の教師の一人が「調律は昨日済ませている」と言い、事務の者が記録を読み上げた。確かに昨日の午後に済んでいる。
「済んでおります。ですが、昨日は雨でございました」
わたくしはそれ以上の説明をしなかった。説明できるほど分かっていなかったからだ。分かっていたのは、ヨナタン様の右手が三番目の鍵に触れるたび、他の音より半分だけ遅れて出ていたことだけである。奏者が上手いほど、狂いは奏者の側で直されてしまう。直されたぶんが、遅れになって出る。
「証明できるかい」
ヨナタン様の声から、気の毒がる調子が消えていた。
「僕は今日、一音も外していない。外していないものを外れていると言うなら、それは講評ではなく難癖だ」
その通りだった。わたくしは低音側で、耳は誰にも証明できない。半年、そのことでは誰にも勝てなかった。
「合ってる」
声は、後ろの扉のところからした。
クレメンス様が立っていた。作業着のままで、袖には金属粉が付いている。地下から上がってきたばかりの人が、そのまま講堂の後ろで聴いていたことになる。誰も気づかなかったのは、この方が壁のようにものを言わずに立つからだ。
「右の三番目。昨日の湿気で緩んだ。ぶら下がりは半音までいかない。四分の一だ」
「……触ってもいないだろう」
「触らなくても分かる」
教師が二人、台の上へ寄った。一人が鍵を押し、もう一人が耳を寄せる。押し方を変えて三度、間を置いてもう一度。それから調律科の備品箱が運び込まれ、音叉が鳴らされた。
音叉を鳴らして鍵と重ねる手順は誰でも知っているが、実技科の教師がその手順を人前でやるのは珍しい。手つきで分かる。この方たちは、狂いを測る側の仕事を長くしていない。
四分の一。教師が読み上げた数字は、わたくしの言った半音ではなく、クレメンス様の言った四分の一のほうだった。半音と言ったわたくしは外れていて、外れたまま、言ったこと自体は当たっていたことになる。この差が、この日の講堂でいちばん大きな意味を持った。
わたくしは講堂の前へ出た。出るつもりはなかったのに、足のほうが先に出ていた。
クヴェレ様、と呼ぶと、この方はようやくこちらを向いた。
「あなたは、ご自分の音を聴いていらっしゃいません」
言ってから、これはひどい言い方だと思った。思ったが、取り消さなかった。
「狂った鍵に、あなたはご自分で合わせて弾いておられました。三番目に触れるたび、指を四分の一ぶん深く落として直しておられた。無意識になさっているので、ご本人には見えません。上手いから直せてしまうのです」
「……それの、どこがいけない」
「いけなくはございません。ただ、あなたは今日、楽器の狂いを直しながら弾いて、直したことに気づいておられない。それは、ご自分の音を聴いていないということでございます」
ヨナタン様は何も言わなかった。前列の教師のうち三人が、手元の紙に何か書き込んでいた。書き込む音まで聞こえるくらい、講堂は静かだった。
「ラウ教授」
わたくしは向き直った。
「仮の対の届け出を、お願いに参りました」
「相手は」
「そちらに立っております」
「調律科だ。実技科の籍が無い」
「仮の対に、籍の定めがございますか」
教授は答えなかった。二日前と同じ間だった。それから事務の者に目をやり、事務の者が規則の綴りを繰って、小さく首を振った。
「……無い。仮の対に籍の定めは無い。無いから、四十日で切れる」
「四十日、いただきます」
教授はしばらくわたくしを見ていた。それから、ひどく短く言った。
「本登録には要る。籍も、中間選抜の順位も」
その条件は、そのときのわたくしにはまだ遠かった。四十日のほうが近かった。
クレメンス様は、まだ後ろの扉のところに立っていた。わたくしはそこまで戻った。
「わたくしと組んでくださいませ」
「弾かないと言った」
「存じております。ですが、連弾は、二人でしか弾けませんので」
この方は、いやとは言わなかった。いいとも言わなかった。袖の金属粉を指で払って、それから講堂の天井のあたりを見た。
「追悼演奏の前の晩、右側だけ調律なさいましたね」
手が止まった。
「あれは、弾くおつもりがあったということでございます。触らなくても分かるとおっしゃる方が、わざわざ触られたのですから」
「……減っていたからだ。誰も直さないから直した」
「はい」
それだけだ、とこの方は言い足した。わたくしは二度目も、はい、とだけ答えた。二度目のほうが効いたらしく、袖を払う手が止まった。
四十日。届け出簿にわたくしとこの方の名が並んだのは、その日の夕方である。事務員が判を押し、控えを一枚だけ切って、どちらがお持ちですかと訊いた。クレメンス様が黙っていたので、わたくしが受け取った。二人で一枚を持つ制度なのだから、預かるほうが預けるほうより重いということはないはずなのに、紙は思ったより重かった。
その足で練習室へ行った。西の棟のいちばん奥の部屋は、半年前からわたくしが使い続けている。誰も順番を争わないからだ。
二人で並んで座った。座ってすぐ分かったのは、この方の肩がわたくしの記憶より高い位置にあることだった。アルベルトのときは、右肩がわたくしの目の高さの少し下にあって、跳ぶ前にそこが一度沈んだ。沈んだら半拍待つ。七歳から十年、それだけを合図にしてきた。
最初の八小節を合わせた。
八小節で止まった。合わなかったのではない。この方の肩は沈まず、息も吸わず、それでも音は出た。わたくしは待った。待ったぶんだけ、左手が遅れて置かれた。二人とも、相手が来る場所に手を置いていなかった。
上手い奏者ほど楽器の狂いを自分で直してしまう、というのは実際にある話で、直せる人ほど「狂っていた」ことに気づけません。ユーリカの耳は、そこだけを聴き分けます。武器としては地味ですが、地味な武器のほうが長く使えます。
次回、四十日の一日目。二人はまだ、八小節から先へ進めません。




