第2話:片翼は出られません
連弾科の受付は、朝の鐘と同時に開いて、次の鐘で閉まる。
わたくしはその一つ前の鐘の時分から廊下に立っていた。寮を出たのは外がまだ紺色のうちで、途中の中庭で係の者が枯れ葉を掃いているのを追い越してきた。早く来たところで受付が早く開くわけではない。それでも来たのは、掲示板の紙が今朝のうちに張り替えられると知っていたからだ。
事務室の前の掲示板には、学年末の御前演奏の選抜に出る対の一覧が張り出される。紙はまだ半分しか埋まっていない。埋まっていない下半分に、これから今日一日で名前が入っていく。上半分は去年の続きで、去年のうちに届け出を済ませた対の行がそのまま繰り上がってくる仕組みになっている。
上から七番目に、去年の紙のままの行があった。
——低音側 ユーリカ・レンフェルト/高音側 アルベルト・エーレンフェルト。
その行の右端に、朱で小さく「対欠」と入っていた。字は事務員の手で、丁寧に書いてある。丁寧に書いてあるのが、いちばんこたえた。
「レンフェルト嬢」
振り向くと、ヘルヴィヒ・ラウ教授が立っていた。連弾科の主任で、この楽院で四十年、対の届け出を受けてきた方である。背は高くないのに、廊下で会うと必ずこちらが道を譲る形になる。
「昨日の演奏は聴いた」
礼を申し上げると、褒めてはおらん、と返ってきた。
「あれは対の曲だ。一人で人前に出す曲ではない」
教授は掲示板の前まで来て、朱の字を指で示した。示した指の関節が、真ん中の二本だけ太い。長く弾いていた人の手だと聞いたことがあるが、この方が鍵盤の前に座ったのを見た学生はいない。連弾科の主任は届け出を受け、規則を読み、対の相性を見るのが仕事で、弾くのは学生の仕事だからだと皆が言う。
「対は生涯変えぬ。四十年、そう教えてきた。届け出た相手が退学しても、病んでも、変えぬ。手を替え品を替え、抜けようとした学生を、わしは四十年ぶん見てきた」
「では、片方が亡くなった場合の定めは、どこに書かれておりますか」
「……無い」
「無いということは、禁じられてもいない、ということでございましょうか」
教授は答えなかった。
答えないというより、答える前に一度、息を止めた方だった。四十年ぶん見てきたと言った人が、こんな短い問いで息を止める。その意味を、わたくしはこのとき考えなかった。
「屁理屈だ」
教授はそう言って、掲示板から手を離した。
「規則に無い事柄は、運用で決める。運用では、対を欠いた者は選抜に出さぬ。理由は簡単だ。出せば、その者は必ず一人で二人ぶんを弾こうとする。四十年で三人おった。三人とも壊れた」
壊れる、というのがどういうことかを訊くと、教授は指ではない、耳だ、と答えた。それきり付け足しはしなかった。
教授は事務室へ入った。扉が閉まる前に、中の事務員が「レンフェルト嬢の欄はどういたしますか」と訊く声が聞こえて、「そのまま」と返る声が聞こえた。
届け出の手続きは知っている。二人で事務室へ行き、届け出簿に両名が並んで署名し、事務員が判を押して控えを切る。控えは対で一枚しか出ない。二人で一枚を持つのだから、どちらかが預かることになって、うちはアルベルトが預かっていた。あの控えがいまどこにあるのか、わたくしは知らない。
耳が壊れる、というのは分かる気がした。一人で二人ぶんを弾こうとすると、鳴っていない側の音を頭のほうで補いはじめる。半年のあいだ、わたくしは何度もそれをやった。やっているうちは気持ちがいい。やめたあとに、講堂が静かすぎる。
「無駄だよ」
いつのまにか、ヨナタン・クヴェレ様が横に立っていた。今日は受付の一番乗りだったらしく、手には自分の届け出の控えを持っている。
「規則を読む人と規則を作った人が同じ場合、抜け道は最初から塞がれている」
「仮の対、という運用があると伺いました」
「あるよ。二年前にも一度使われた。相方が長患いをした対が、四十日を期限に別の相手と組んだ」
やはり、ある。
二年前のその対のことは、下級生だったころに遠くから見ていた。長患いをしたのは高音側で、四十日のあいだ別の相手と組んだ低音側は、期限が明けると元の対へ戻った。戻った日に事務室の前で二人が握手をしていたのを、わたくしは廊下の端から見ていて、いいものを見たと思った。あのとき自分がこの制度を使う側になるとは考えていない。
わたくしが息を吸ったのが分かったのだろう、ヨナタン様は控えを折りながら続けた。
「条件が二つある。一つ、期限内に公開の場で技能を認められること。二つ、相手が実技科に籍を置いていること」
二つめのところで、彼はわざわざ言葉を切った。切ってから、わたくしの顔を見た。気の毒がる顔をきちんと作れる人である。実技科でいま対を組んでいない学生は四人しかいない。四人とも組まないだろうという見立てまで、ヨナタン様は順序立てて話した。組めば自分の対を解くことになるし、そもそも低音側は代わりがきくと思われている、と。
「思われている、というだけでございます」
「思われている、で名簿は決まる」
廊下の向こうで鐘が鳴った。受付が開いた音だった。
「一つ訊いていいかい」
ヨナタン様は、控えを持った手を下ろした。
「あの日、アルベルトはなぜ峠道にいたんだ。あの時分に、あの道を使う用事は楽院には無い」
「……存じません」
「知らない? 婚約者だろう」
「存じません。あの朝、彼は稽古に来ると申しておりました。来なかったので、わたくしは練習室で二時間待っておりました」
言ってから、自分の声が思ったより平らだったことに気づいた。半年のあいだ、誰にもこれを訊かれなかった。訊かれないから、わたくしも考えないようにしていた。彼がどこへ、何をしに行こうとしていたのかを、わたくしは今日まで一度も調べていない。
「悪いことを訊いた」
「いいえ」
「じゃあ、悪いことをもう一つ言う」
ヨナタン様は事務室の扉を開けながら、こちらを見ずに言った。
「三日後の実技公開に、僕は出る。君も来るといい。調律科の男を連れて来て、あれが弾けると証明するなら、僕は反対しないと言っておく」
調律科、と口の中で繰り返したのが聞こえたらしい。昨日講堂で右側を弾いた男だろう、楽院じゅうが見ていたよ、とヨナタン様は言い、扉を閉めた。
わたくしは掲示板の前に残った。上から七番目の行の、朱の「対欠」を、指でなぞらずに見ていた。なぞると認めることになる気がした。
三日後。四十日。実技科の籍。条件は三つとも、こちらに無い。
無いものを数えるのは、低音側の得意なことではない。低音側の仕事は、足りない拍を数えて、そこへ手を置くことだ。数えて、置く。それだけを七歳から続けてきた。
鐘が鳴り終わるまでに、届け出の列は廊下の角まで伸びた。並んでいるのは全部が二人組で、二人で一枚の控えを受け取るために、どちらが署名を先に書くかで小さく揉めている対もある。列の脇を通るとき、話し声がわずかに落ちるのが分かった。落ちてから、また元へ戻る。半年、どこへ行ってもこれである。
わたくしは列を離れて地下へ下りた。階段の途中で足を止めたのは、下りたところで何と言うかを決めていなかったからだ。頼みに行くのだと自分では思っていたが、頼む中身がまだ形になっていない。三日後に来てくださいと言うのか、四十日だけ組んでくださいと言うのか。どちらも昨日「弾かない」と言われた相手に持っていく言葉ではない。
決めないまま、残りの段を下りた。今日も金具を細く叩く音がしていた。
「対は生涯変えない」という規則、意地悪で作られたものではありません。二人で一つの楽器を使う以上、相手を替えると音の作り方を一から積み直すことになる——という、まったく実務的な理由から始まっています。実務的な規則ほど、例外の人には冷たく当たります。
次回、ユーリカは三日後の公開の場に立ちます。ただし、弾きません。




