第4話:廊下で盗んでおりました
四十日の三日目、練習室にはわたくししかいなかった。
仮の対の届け出には、練習の割り当てがついてくる。西の棟の奥の部屋を、朝の二鐘から昼まで。紙にはそう書いてあるし、その紙は事務室の壁にも張り出されている。張り出されたところで、来ない人は来ない。
クレメンス様は初日も二日目も来なかった。理由は地下へ下りれば分かる。楽院の楽器は全部で三十二台あって、調律科の学生は六人しかいない。今週は寮の食堂の一台が湿気でやられたそうで、その一台に二日かかっていた。
わたくしは低音側の椅子に座って、一人で浚った。八小節から先は合わせようがないので、合わせなくてもいい部分だけを繰り返した。伴奏の受け渡し、押さえの深さ、間の取り方。人と合わせるための練習を、一人でやっている。半年前と同じことをしている。
低音側の練習には、決まった順序がある。まず片手ずつ、拍を三つに割って置く位置を確かめる。次に両手で、高音側が入ってくる小節の頭だけを鳴らして、そこで一度手を止める。
止めた長さを数える。二拍ぶん止められるようになったら、相手がどんな入り方をしても待てるようになる。七歳のときにそう習って、以来この順でしかやったことがない。
止めるところまではできる。止めたあとに何も来ないので、そこから先の順序がない。
二鐘半を過ぎたころ、扉の外で音がした。
布が擦れる音である。人が座り直したときの音だと分かったのは、同じ音を昨日も一昨日も聞いていたからだ。わたくしは弾く手を止めずに、そのまま最後まで通した。通し終えてから扉を開けた。
廊下の壁に、下級生が一人、膝を抱えて座っていた。
制服の袖が短い。給費生の子が着る、寸法直しの利かない支給品である。目を閉じたまま、まだ音を追っている顔をしていた。
「あの」
「……すみません、盗んでました」
目を開けて、その子は即座にそう言った。言い訳も、立ち上がりもしない。悪いことをしていた自覚はあるのに、悪いと思っている顔ではなかった。
「盗む、というのは」
「音です。三日ぶん」
「三日」
「はい。この部屋、いま楽院でいちばん面白いので」
フリーダ・ベルクと名乗ったその子は、二年生で、給費生で、実技科の末席にいるという。末席というのは自己申告ではなく掲示の順のことで、掲示の順は試験の点で決まる。
「わたくしの練習の、どこが面白いのですか」
「同じところを何回もやり直すからです。やり直すたびに、置く場所が半分ずつ動きます。動いた先で合ってるのに、また戻します」
わたくしは廊下に立ったまま、少し黙った。この三日、自分がそんなことをしている自覚はなかった。
「いま、半音下がりました」
フリーダはそう言って、部屋のほうを指した。誰も弾いていない部屋である。
「下がった、というのは」
「さっきまで、ちょうどでした。窓を開けたからだと思います。左から四番目です」
部屋へ戻って、左から四番目の鍵を押した。押して、隣を押した。二つ並べると分かる。分かるが、わたくしの耳では「少し低い」までしか言えない。半音か、四分の一か、その手前かは言えない。
フリーダは扉のところまでついてきて、両手を後ろに組んだまま、しばらく黙って聴いていた。それから、こちらが押していない鍵をもう一つ指して、こっちも近いうちに下がりますと言った。
近いうち、というのがどれくらいかを訊くと、雨が二回くらいですと答えた。楽院の調律の間隔とほぼ同じである。この子は暦ではなく音のほうで、次に狂う順番を覚えているらしい。
わたくしは鍵から指を離して、この子のほうへ向き直った。
「あなた、どこでそれを習いましたか」
「習ってません」
「では、譜面は」
「読めません」
嘘をついている様子はまったくなかった。給費生は十三で入って、記譜法は十一までに家で習うものだから、間に合わなかったのだという。それだけを、天気の話のように言う。
「音は全部入ってるんですけど。紙のほうが分からなくて」
この子は自分の言っていることの意味を、たぶん分かっていない。分かっていないので、これから何度でも同じことを言うだろうと思った。
昼の鐘のあと、事務室から呼び出しが来た。
使いに来た事務員は、応接へ、とだけ言って先に立った。応接は事務室の隣で、学生が呼ばれるのは年に二度、進級の面談のときだけである。廊下を歩きながら、この三日で自分が何をしたかを数えた。実技公開で教師の講評をさえぎった。仮の対を届け出た。掲示の順が最下位の給費生を練習室に入れた。どれで呼ばれてもおかしくない。
応接に通されて、そこにいたのが誰であるかは、扉を開けた瞬間に分かった。アルベルトの目の形をした方が、椅子から立ち上がってこちらへ会釈をなさったからである。
「ユーリカさん。追悼の演奏、ありがとう存じました」
マグダレーナ・エーレンフェルト夫人は、声を張らない方だった。半年前の葬儀のときも同じで、弔問の列のいちばん前で、来た人一人ずつに同じ丁寧さで礼を言っておられた。あの日、わたくしは列の後ろのほうにいた。婚約者は身内ではないので、そういう順になる。
「最後まで弾いてくださったと伺いました。あの子の曲を、あの子のために」
「……はい」
「わたくしは伺えませんでしたの。あの日は、あの子の部屋を片づけておりましたので」
夫人は膝の上で手を重ねたまま、部屋の窓のほうを見た。応接の窓からは中庭の楓が見える。楓は半年前より背が高くなっている。
「クレメンスと組まれるそうですね」
「四十日の、仮の対でございます」
「よろしゅうございました。あの子は十年、鍵盤に触れずにおりましたから」
嬉しそうだった。作った顔ではない。心から嬉しそうな声で、その方は続けた。
「どうぞ、あの子と弾いてくださいまし。ユーリカさんはアルベルトの弾き方をご存じですもの。あの子はあなたから習えばよろしいのですわ」
わたくしは返事をしなかった。返事の仕方が分からなかった。
夫人はそれを慎ましさと受け取ったようだった。膝の上の手を解いて、持ってきた小さな包みを開き、中から楓の紙の封を一通、卓の上に置かれた。置いてから、封の向きをこちらへ直された。そういう順序が身体に入っている方である。
帰り際、夫人は扉のところで一度だけ足を止めた。
「あの子の部屋は、まだそのままにしてございますの。譜面も、書きかけのものも」
それだけ言って、応接を出ていかれた。廊下で待っていた侍女が包みを受け取り、二人ぶんの足音が遠ざかった。
礼状だった。楓の紙に、丁寧な字で、追悼の演奏への礼が七行。文字の傾きが最初から最後まで揃っていて、書き直した跡がない。こういう手紙を一日に何通も書いてこられた方の字である。
最後の一行だけ、他の行より少し小さかった。
——あの子の音を絶やさないでくださいまし。
その一行を三度読んで、わたくしは紙を封に戻した。
嬉しそうな声だったと思う。悪意はどこにもなかったと思う。それなのに、応接を出たあとしばらく、指が二本ぶん冷たかった。
フリーダは今日から時々出てきます。悪気がゼロで、聞かれたことに正直に答えるだけの子ですが、この楽院でいちばん正確な耳を持っています。本人はそれを「紙が読めない」の言い訳だと思っています。
次回、練習室は今日も空です。ユーリカは地下へ下りて、弾かないと決めた人の手を見ます。




