真田に怒鳴り込みに行こうとした件
上田城攻略、三日目。
秀忠軍は動いていなかった。
動けない、というほうが正確かもしれない。上田城は真田昌幸によって堅く守られ、徳川軍の進路を塞いでいた。斥候を出しても城壁の向こうに変化はなく、真田方も大きく打って出る気配がなかった。膠着、という言葉がこれほど正確に当てはまる状況を、岡崎主水正忠則は生まれて初めて経験していた。
陣幕の外では、秋の空が白く曇っていた。
岡崎は文机に向かい、昨夜からずっと書き続けている策を見直していた。真田方の兵力配置の分析、夜間奇襲の可能性、城攻めに転じた場合の損害の試算、三日間で得られた情報を整理し、一晩かけて練り上げた進言書が、すでに十三ページになっていた。
廊下の向こうで、本多正信が静かに手帳を開いている気配がした。
三冊目か、四冊目か。岡崎は数えていなかった。
昼過ぎ、秀忠の幕舎から声が上がった。
「もういい! 僕が直接文句言いに行く!!」
陣幕の外にいた家臣が、全員固まった。
岡崎も筆を止めた。
「……今なんと」
隣の竹松が小声で言った。「若様が、その……城の方へ歩いておられます」
岡崎は立ち上がった。幕舎を出ると、秀忠が真っ直ぐ上田城の方角に向かって歩いていた。足取りは妙に迷いがなかった。榊原康政が先回りして道を塞ぎ、本多忠勝がその隣に並んだ。
「秀忠様、なりません!」
「なんで! 三日ですよ三日!」
秀忠の声が陣地に響いた。
「僕が三日も足止めされてる間に、お父さんはもう終わらせちゃったんでしょ!? あのおじさんのせいで僕だけ損してる!!」
「それはそうなのですが……」
「損してる上に何も言えないなんて、そんな理不尽ありますか!」
家臣たちは、将軍家の後継者が三日間の軍事的膠着を「損してる」という言葉一つで表現したことに、しばし呆然とした。
岡崎もその一人だった。
三日間の分析と進言書、十三ページ。「損してる」。
どちらが戦況を正確に言い当てているか、この場にいる誰も即座には判断できなかった。
榊原康政が秀忠の前に両手を広げて立ちはだかった。本多忠勝がその横でどっしりと足を踏ん張った。二人がかりで止められた秀忠は、歩みを止めたものの、まだ体の向きを変えなかった。
「離して! あのおじさんに一言言わないと気が済まない!」
「なりません! 城から矢が飛んできます!」
「じゃあ手紙! 手紙を書く!」
「それもなりません!!」
「なんで!? 手紙なら矢は飛んでこないじゃないですか!」
榊原が詰まった。本多忠勝が榊原をちらりと見た。
「……内容によっては、外交上の問題が……」
「じゃあ内容を工夫する!」
「どういう内容に」
秀忠は少し考えた。
真剣な顔で、考えた。
「……『三日も待たせてひどい。反省してください。 秀忠』」
沈黙が落ちた。
秋の風が陣地の旗をはためかせた。
「……ダメですか」
「ダメです」
「どこがダメなんですか」
「どこが、と言われますと……」
「こちらが三日待たされたのは事実でしょ。それがひどいのも事実でしょ。反省してほしいのも本音でしょ。事実だけ書いてるんですが」
榊原は口を開いたが、言葉が出てこなかった。本多忠勝も同じ顔をしていた。
この攻防は、小半刻続いた。
秀忠は「反省してください」の文言をいかに丁寧に、いかに伝わるように書くかを提案し続け、家臣たちはその都度「なりません」と返し続けた。「ご遠慮いただきたく候」はどうかという案が出たとき、榊原は「なりません、意味が変わります」と答え、では「大変残念に存じ候」はという案に対し、本多忠勝が「それでは逆に挑発になりかねません」と言い、秀忠が「じゃあちょうどいいじゃないですか」と言い返した。
その間、ずっと陣幕の端に控えていた岡崎主水正が、意を決して進み出た。
「秀忠様、私に考えがございます」
秀忠が振り返った。
「一晩かけて策を練りました。真田方の兵力配置を分析しますと、東側の守りに……」
「岡崎さん今その話じゃなくて」
「は?」
「手紙の内容をどうするかという話をしてるので」
岡崎は口を閉じた。
「……しかし手紙は既になりません、と申し上げたはずでは……」
「だから内容を工夫するって言ったんじゃないですか」
「その工夫も、なりません、と……」
「じゃあ岡崎さんが策を練っといてください。僕は手紙を書く方向で検討します」
「お二つとも、なりません!!」
しかし誰も岡崎の方を向いていなかった。秀忠は「大変残念に存じ候」の文言を改良中で、榊原はそれを止めるのに必死だった。本多忠勝はいつの間にか本多正信の隣に立っており、本多正信は静かに手帳に何かを書いていた。
岡崎は一人、陣幕の布に手をついた。
十三ページの進言書が、文机の上にあった。
その頃、上田城の物見台から、一人の斥候が徳川本陣を見下ろしていた。
斥候は昌幸のいる陣に戻り、報告した。
「本陣の様子が……その……」
真田昌幸は静かに待った。
「申し上げにくいのですが、何か……大声で言い合いをしておりました」
「作戦の相違か」
斥候は少し間を置いた。
「内容が聞き取れなかったのですが、一度だけはっきり聞こえた言葉が」
「なんだ」
「……『反省してください』と」
昌幸は目を閉じた。
しばらく、何も言わなかった。
床几の脇に控えていた家臣が、おそるおそる口を開いた。
「……何か、策がございますか」
昌幸は目を開いた。
「撤退はしない」
静かな声だった。「しかし、深追いもしない」
「それは、何故でございますか」
昌幸は少し考えてから、答えた。
「読めぬ。あの本陣だけは、読めぬ」
家臣は黙った。
読めぬ、とは、熟練の武将が長年の経験から出す言葉である。奇策の匂いがする時、罠の気配がある時、あるいは相手の真意が計り知れない時に使う言葉だった。
徳川本陣から「反省してください」という声が聞こえた。
昌幸は動かなかった。
日が傾いた頃、秀忠はようやく陣幕に引き上げた。
「……飯にしましょう」
それだけ言って、幕舎に入った。
本多正信は手帳に一行書き加えた。
「『反省してください』の文言について、小半刻の議論。結果:真田方、深追いせず。因果関係:不明。しかし今日もまた、損は出なかった」
正信はその一行を読み返した。
しばらく考えてから、下に小さく書き足した。
「なお、岡崎殿の進言書は今日も机上にある」
翌日の朝、竹松が水を運んでいると、陣幕の外に岡崎主水正が座っているのが見えた。
文机はなかった。巻物も持っていなかった。
ただ、上田城の方角を見ていた。
「岡崎様、昨夜はお休みになりましたか」
岡崎はしばらく黙っていた。
「少し」
「進言書は」
「書いた」
「何ページほど」
「十七ページになった」
竹松は水を持ったまま、少し黙った。「拝見しても、よろしいでしょうか」
「いい」岡崎は言った。「どうせ読まれぬ。しかし、書かずにはいられん」
竹松は進言書を受け取り、最初の一ページを開いた。細かい字で、びっしりと書かれていた。兵力の配置図。行軍の想定経路。天候と日照時間の計算。
「……これは、確かに、正しいですね」
「そうだろう」岡崎は言った。
「……であれば」竹松は慎重に言葉を選んだ。「なぜ、使われないのでしょうか」
岡崎は上田城の方を見たまま、少し間を置いた。
「わからぬ」
「わかりません、ですか」
「わからぬ」岡崎は繰り返した。「だから書く。書いてもわからぬ。しかし、書かずにはいられん」
竹松は巻物を丁寧に元に戻した。
陣幕の中から、秀忠の声がした。
「……朝ごはん、まだですか」
岡崎と竹松は、無言で顔を見合わせた。
◇後世の歴史家注◇
上田城での足止めは三日間に及び、秀忠軍は関ヶ原本戦への参加が叶わなかった。しかし真田昌幸が「深追いせず」を選んだ結果、真田軍の西軍への合流も阻まれた。「真田を釘付けにした」という評価は後世の論者によるものであり、その日の徳川本陣が実際に何を議論していたかについての一次資料は残っていない。なお岡崎主水正の進言書は「改訂版」「第二改訂版」「第三改訂版」と増え続けたと竹松の手記に記されているが、「内容に誤りはなかった」と竹松はその全てについて書いており、これが称賛なのか皮肉なのかについては研究者の見解が分かれる。真田昌幸が何故「読めぬ」と言ったかについては複数の研究論文があり、いずれも「老獪な判断」と評しているが、「反省してください」の発言と合わせて論じた論文は現時点では存在しない。




