めんどくさい 秀忠
秀忠の死から百五十年後。
江戸の学者たちの間で「徳川秀忠はいかなる政治哲学を持っていたか」という大論争が勃発した。
一派:「秀忠は老子の無為自然の思想を体現した稀代の政治家である。あえて何もしないことで天下を治めるという、東洋哲学の極致を実践した」
別の一派:「いや、秀忠は儒教の徳治主義の体現者だ。権力に執着せず、徳によって人を動かした姿はまさに聖人君子の政治そのもの」
さらに別の一派:「そもそも秀忠の真意は謙虚さにある。自らの才を誇示せず、常に家臣を立てた姿こそ将軍の鑑」
さらにさらに別の一派:「秀忠の統治論は、同時代の西洋における君主論と驚くほど符合する。これは近代的政治思想の東洋的先駆けと見るべきだ」
そしてもう一派:「秀忠の制度改革の特徴は一貫している。礼法の体系化も、謁見の合理化も、文書行政の整備も、すべて『複雑なものを単純にする』という方向性だ。これは高度な行政哲学の表れである」
最後の一派だけが、実は最も事実に近かった。ただし理由が「めんどくさかったから」であることは、誰も知らなかった。
誰も突っ込まなかった。突っ込む隙がなかった。全員が全員の話を聞いていなかったからである。
論争は過熱し、分厚い学術書が次々と出版された。「秀忠の深謀」「秀忠の無為」「秀忠の徳」「秀忠の沈黙」「秀忠の一言」。そして翌年には「秀忠が猫を撫でた意味」という学術書まで刊行された。八百ページある。著者は十年かけて書いた。
その頃、江戸城の古い蔵の整理をしていた下働きの者が、ほこりをかぶった木箱の中から一枚の紙を見つけた。
秀忠直筆と思われるその紙には、こう書いてあった。
「めんどくさい 秀忠」
何の覚え書きかは不明だった。日付もなかった。
その紙は特に話題にもならず、雑多な古文書の束に紛れて再び蔵の奥にしまわれた。
翌日、別の下働きが同じ紙を見つけて、同じように束に戻した。三日後、また別の者が見つけた。誰も話題にしなかった。話題にする方法が、わからなかったからである。
学者たちの論争は、さらに過熱した。
秀忠の死から二百年後。
江戸城の古い蔵を整理していた下働きの者が、木箱の中から十四冊の冊子を見つけた。
表紙に「観察記録」と書いてある。
学者が呼ばれた。
学者は読み始めた。読み進めるにつれ、興奮が高まっていった。
「これは……!」
同僚の学者を呼んだ。
「これを見てください。本多正信が、二十年にわたって秀忠の言動を記録した一次資料です」
「……驚くべき史料ですね。では、正信は秀忠をどう評価していたのですか」
「最後のページに、こう書いてあります」
「なんと」
「『わかりかねる』です」
長い沈黙があった。
「……それだけですか」
「はい。十四冊を通じて、これが最終結論です」
「……すると正信は、二十年間分析して、最終的に答えを出さなかった」
「そうです」
「これはつまり……秀忠の深さが、当代随一の謀臣にも計り知れないほどのものだったということでは」
学者は手帳を抱きかかえた。
「『わかりかねる』こそが、最も正直な答えであり、最も深い答えだったと言えます」
翌年、論文が出た。「本多正信の『わかりかねる』、謀臣が辿り着いた、秀忠評価の究極的地平」というタイトルだった。
二百ページある。
蔵の中には、「めんどくさい 秀忠」と書かれた一枚の紙が、まだ眠っていた。
◇後世の歴史家注◇
「めんどくさい 秀忠」の紙については、発見のたびに蔵に戻されたため、現在も所在不明である。正信の手帳十四冊については、「二十年分の観察の末に『わかりかねる』に辿り着いた」ことが「最も誠実な知的誠実さの表れ」として高く評価されている。この注釈を書いた歴史家も「わかりかねる」という言葉を三回使った。自覚はない。




