お江との夕暮れ
引退から一月後。
秀忠は縁側に座っていた。猫はどこかに行っていた。庭を見ていた。特に何かを考えているわけではなかったが、考えていないわけでもなかった。
お江が来た。
「楽になった?」
「全然」
お江は小さく笑った。
「そうでしょうね」
「なんで笑うの」
「だってあなたが楽になると思ってたなら、私が止めてた」
「……どういうこと」
「将軍を辞めたかったんじゃないでしょう、本当は。家康様に、報告したかったんじゃないの。ちゃんと終わらせたって」
長い沈黙だった。
縁側の向こうで、夕日が落ちていく。赤い光が庭の石を照らしていた。
「……褒めてもらえなかったな」
「そうね」
「最後まで、天才かただの怠け者かって顔してた」
「あの方らしいわね」
しばらく間があった。
秀忠が、ふと笑った。声ではなく、少し顔がほぐれるような笑い方だった。
「……笑えないけど、笑えるな」
お江は黙っていた。
「なんで笑えるんだろうな、こういうの」
「……さあ」
また沈黙。夕日が、もう少し落ちた。
「……褒めてもらえなかったけど」
「そうね」
「怒られた記憶もないんだよな、よく考えたら。ただ……」
「ただ?」
「……ずっと、見てたんだと思う」
お江は何も言わなかった。
「天才か怠け者かって顔で、ずっと。それって……」
秀忠は少し考えた。
「……まあ、それでよかったのかもな。褒めてもらったら、たぶん調子に乗ってた」
「そうね」
「……まあ、いいか」
お江は何も言わなかった。ただ、夫の隣で、同じ夕日を見ていた。
廊下の角で、ひさが息を殺して立っていた。
聞くつもりはなかった。ただ呼ばれて来たら、この二人がいた。
ひさはそっと引き返した。
庭の方へ遠回りして、台所の方へ歩いた。松蔵老爺が夕餉の支度をしていた。
「ひさ殿、どうされましたか。顔色が」
「……いえ。少し、聞いてしまいまして」
「何を」
ひさは少し考えた。
「……うまく言えません」
「そうですか」
松蔵は手を動かしながら言った。「殿と奥方様のことは、たいていうまく言えないものです」
「そうなんですか」
「二十年、台所にいますが、うまく言えたことは一度もありません」
ひさはしばらく台所に立っていた。
「松蔵さん、夕餉に何を作りますか」
「殿が好きなものを」
「何が好きですか」
「さあ。でも、こういう夜は、温かいものがいいでしょう」
「……はい」
「うまく言えないことの後は、温かい飯が一番です」
ひさはそれ以上は聞かなかった。
この夕暮れの会話を、生涯誰にも話さなかった。お江がそうしたように。
その夜、本多正信は廊下を歩いていた。
秀忠の部屋の前を通ると、灯りがついていた。
正信は少し立ち止まった。
障子の内側で、秀忠が猫を呼ぶ声がした。
「……こっちこっち」
猫が鳴いた。
「そっちじゃない」
また鳴いた。
正信はそのまま廊下を歩き続けた。
手帳は出さなかった。
出す必要がない、と思った。今日の縁側で何があったかは知らない。知らなくていい、とも思わなかった。ただ、今夜の秀忠の「こっちこっち」と猫の鳴き声だけが、今日という日の正確な記録だった。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
◇後世の歴史家注◇
引退後の秀忠とお江については、「晩年を穏やかに過ごした」とする記録が複数残っている。「褒めてもらえなかったな」という発言については記録が存在しない。ひさの覚書には「夕刻、殿と奥方様、縁側に並んでおられた」という一行のみが残っており、内容については書かれていない。書かなかった理由も書かれていない。後世の研究者がひさに「なぜ書かなかったのか」と問おうとしたが、ひさはすでに死んでいたので聞けなかった。




