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ダダッコ秀忠 ~天下一のぐうたら将軍~  作者: おしゃまな耳かき
第七章「将軍を辞めたい!」

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お江との夕暮れ

引退から一月後。


秀忠は縁側に座っていた。猫はどこかに行っていた。庭を見ていた。特に何かを考えているわけではなかったが、考えていないわけでもなかった。


お江が来た。


「楽になった?」


「全然」


お江は小さく笑った。


「そうでしょうね」


「なんで笑うの」


「だってあなたが楽になると思ってたなら、私が止めてた」


「……どういうこと」


「将軍を辞めたかったんじゃないでしょう、本当は。家康様に、報告したかったんじゃないの。ちゃんと終わらせたって」


長い沈黙だった。


縁側の向こうで、夕日が落ちていく。赤い光が庭の石を照らしていた。


「……褒めてもらえなかったな」


「そうね」


「最後まで、天才かただの怠け者かって顔してた」


「あの方らしいわね」


しばらく間があった。


秀忠が、ふと笑った。声ではなく、少し顔がほぐれるような笑い方だった。


「……笑えないけど、笑えるな」


お江は黙っていた。


「なんで笑えるんだろうな、こういうの」


「……さあ」


また沈黙。夕日が、もう少し落ちた。


「……褒めてもらえなかったけど」


「そうね」


「怒られた記憶もないんだよな、よく考えたら。ただ……」


「ただ?」


「……ずっと、見てたんだと思う」


お江は何も言わなかった。


「天才か怠け者かって顔で、ずっと。それって……」


秀忠は少し考えた。


「……まあ、それでよかったのかもな。褒めてもらったら、たぶん調子に乗ってた」


「そうね」


「……まあ、いいか」


お江は何も言わなかった。ただ、夫の隣で、同じ夕日を見ていた。


廊下の角で、ひさが息を殺して立っていた。


聞くつもりはなかった。ただ呼ばれて来たら、この二人がいた。


ひさはそっと引き返した。


庭の方へ遠回りして、台所の方へ歩いた。松蔵老爺まつぞうろうやが夕餉の支度をしていた。


「ひさ殿、どうされましたか。顔色が」


「……いえ。少し、聞いてしまいまして」


「何を」


ひさは少し考えた。


「……うまく言えません」


「そうですか」


松蔵は手を動かしながら言った。「殿と奥方様のことは、たいていうまく言えないものです」


「そうなんですか」


「二十年、台所にいますが、うまく言えたことは一度もありません」


ひさはしばらく台所に立っていた。


「松蔵さん、夕餉に何を作りますか」


「殿が好きなものを」


「何が好きですか」


「さあ。でも、こういう夜は、温かいものがいいでしょう」


「……はい」


「うまく言えないことの後は、温かい飯が一番です」


ひさはそれ以上は聞かなかった。


この夕暮れの会話を、生涯誰にも話さなかった。お江がそうしたように。


その夜、本多正信は廊下を歩いていた。


秀忠の部屋の前を通ると、灯りがついていた。


正信は少し立ち止まった。


障子の内側で、秀忠が猫を呼ぶ声がした。


「……こっちこっち」


猫が鳴いた。


「そっちじゃない」


また鳴いた。


正信はそのまま廊下を歩き続けた。


手帳は出さなかった。


出す必要がない、と思った。今日の縁側で何があったかは知らない。知らなくていい、とも思わなかった。ただ、今夜の秀忠の「こっちこっち」と猫の鳴き声だけが、今日という日の正確な記録だった。


それ以上でも、それ以下でもなかった。



◇後世の歴史家注◇

引退後の秀忠とお江については、「晩年を穏やかに過ごした」とする記録が複数残っている。「褒めてもらえなかったな」という発言については記録が存在しない。ひさの覚書には「夕刻、殿と奥方様、縁側に並んでおられた」という一行のみが残っており、内容については書かれていない。書かなかった理由も書かれていない。後世の研究者がひさに「なぜ書かなかったのか」と問おうとしたが、ひさはすでに死んでいたので聞けなかった。

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