家光への引継ぎ──前夜の場面
── 四十秒で終わった引継ぎの、前夜に何があったか ──
引継ぎの前夜。家光が父の部屋に挨拶に来た。
秀忠は縁側で猫を撫でていた。
家光は入り口で一礼して、そのまま少し立っていた。入ってよいのかどうか、迷っているような立ち方だった。
「入っていいよ」
「……はい」
家光は入って、父の隣に座った。二人とも、しばらく黙っていた。
縁側の外で、夜の虫が鳴いていた。
「父上」
「うん」
「……怖いです」
「そうだろうね」
「父上は……将軍になる時、怖くなかったんですか」
秀忠は猫を撫でながら、少し考えた。
「怖いとかじゃなくて……めんどくさかった」
「……はあ」
「でも、まあ。なんかうまくいった」
「なぜうまくいったんですか」
秀忠は猫の背中を一撫でしてから、本当に何でもないことのように答えた。
「みんなが優秀だったから」
家光は黙った。
「土井と正信の言うことは聞いといて。あとはまあ……好きにすれば」
「好きに、ですか」
「うん。僕もそうしてた」
家光はしばらく、その言葉を飲み込んでいた。好きにしていた、という父の二十年の治世が頭をよぎった。政務は土井が動かし、法度は誰かが整え、戦は終わった。そして自分はここにいる。
「……父上は、将軍として、何が一番大変でしたか」
秀忠は少し考えた。
「書類が多いこと」
「……それだけですか」
「あと、人が来る。来すぎる」
「……」
「朝ごはんを静かに食べたかった」
家光は何も言えなかった。
言えなかったが、なぜか、この三つの答えが腑に落ちた。腑に落ちた、というより、これが本当のことだと思った。
帰り際、家光が「他に何かございますか」と聞いた。
秀忠はしばらく考えた。
「……猫は、たまに撫でるといい」
「……はい」
「あと、飯はちゃんと食え」
「……はい」
ふと、秀忠が廊下の向こうに目をやった。障子の外に、人の気配がした。
「……竹松」
廊下の気配が、ぴたりと止まった。
「……は、はい」
「お茶、もう一杯」
「はっ、はい!」
ばたばたと走っていく音がした。
家光が小声で言った。「……あの方は?」
「さあ。ずっといる人」
家光は何も言わなかった。
お茶が来た。三人分だった。竹松は「二人分でよかった」と思いながら、自分の分を置いた理由を後から考えたが、わからなかった。ただ、手が三つ分持ってきていた。
「ありがとう、竹松」と秀忠が言った。
「……は、はい」
竹松は部屋を出た。廊下でしばらく立っていた。
名前を呼ばれたからではなかった。「ずっといる人」と言われたからだった。それが褒め言葉なのかどうかは、その夜眠れなかった間中、答えが出なかった。
でも竹松は、生涯にわたって「ずっといる人」であり続けた。それ以外の方法を、知らなかったからである。
翌日の引継ぎの場面。
老中たちが整列し、書類が山積みになった広間で、秀忠と家光が向かい合った。
秀忠が口を開いた。
「じゃあ、よろしく」
沈黙。
「以上です」
記録係の筆が止まった。
老中筆頭が恐る恐る進言した。「あの、政務の引継ぎ事項が……」
「土井に聞いてください」
「法度の運用については……」
「土井に聞いてください」
「大名との関係については……」
「土井に聞いてください」
「では将軍として最も大切なことを一言……」
秀忠は少し考えた。
「……猫を撫でると落ち着きます」
四十秒だった。
記録係は何を書けばよいかわからず、「政権移譲、滞りなく完了」とだけ書いた。
廊下で待っていた本多正信は、広間から出てきた土井と顔を合わせた。
「土井殿、いかがでしたか」
「……四十秒でした」
「内容は」
「『よろしく、以上』と『猫を撫でると落ち着きます』でした」
正信は少しの間、何も言わなかった。
「……手帳を出しますか」と土井が言った。
「……いや」
「なぜ」
「今回は、書かない方がいい気がする」
土井は「なぜ」と聞きかけて、止めた。正信が「書かない方がいい」と言う時は、たいてい書かない方がいい時だった。経験上。
「……記録係が『政権移譲、滞りなく完了』と書いたそうです」
「そうか」
「正信殿は、何と書きますか」
「書かない」
「……それが正確ですか」
「一番正確だ」
土井はしばらく考えた。
「……猫を撫でると落ち着く、というのは」
「本当に猫の話をしていたと思う」
「……そうですか」
「ただ……」
「ただ?」
正信は廊下の先を見た。
「前の夜に、あの二人が何を話したのかは、わからない。わからないが、家光の顔が、今朝と昨夜では少し違う気がした」
「……どう違いましたか」
「うまく言えない」
土井も廊下の先を見た。
「……それは、正信殿がわからないのですか。それとも言葉にならないのですか」
正信は少しの間、考えた。
「……後者だ」
「では」
「言葉にできないことが、前の夜にあった」
「……それだけですか」
「それだけだ。それ以上は、わからない」
「……わかりかねる、ですか」
正信は少し間を置いた。
「今日は、違う」
「違う?」
「わかりかねるのではなく。わかる必要がない、と思っている」
土井はこの言葉を、三日後まで考え続けた。三日考えて、「これは正信殿が二十年かけて辿り着いた言葉だ」という結論を出した。結論を出した後で、「それがわかる私は何年かかったのか」と思い、また考えるのをやめた。
家光は後に春日局にこう言っている。
「前の夜に、すべて教えていただいた気がする。何を教わったのかは、うまく言えないのだが」
春日局は「静かにお過ごしでございましたか」と書いた。
静かにお過ごし、とは書いた。猫を撫でていた、とは書かなかった。
◇後世の歴史家注◇
「猫を撫でると落ち着きます」という発言については、「秀忠が政務の要諦として『心の余裕』を説いた」とする説と、「比喩的表現として慈悲の政治を示唆した」とする説がある。「本当に猫の話をしていた」とする第三の説は、提唱した研究者が査読で「根拠が弱い」と指摘され、現在は撤回されている。なお四十秒という引継ぎの短さについては、「秀忠が後継者に余計な先入観を与えず、自らの経験から得た本質のみを伝えた」とする評が定説である。記録係が「政権移譲、滞りなく完了」と書いたことについては、誰も何も言っていない。書いた記録係も、何も言わなかった。




