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ダダッコ秀忠 ~天下一のぐうたら将軍~  作者: おしゃまな耳かき
第七章「将軍を辞めたい!」

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家光への引継ぎ──前夜の場面

── 四十秒で終わった引継ぎの、前夜に何があったか ──


引継ぎの前夜。家光が父の部屋に挨拶に来た。


秀忠は縁側で猫を撫でていた。


家光は入り口で一礼して、そのまま少し立っていた。入ってよいのかどうか、迷っているような立ち方だった。


「入っていいよ」


「……はい」


家光は入って、父の隣に座った。二人とも、しばらく黙っていた。


縁側の外で、夜の虫が鳴いていた。


「父上」


「うん」


「……怖いです」


「そうだろうね」


「父上は……将軍になる時、怖くなかったんですか」


秀忠は猫を撫でながら、少し考えた。


「怖いとかじゃなくて……めんどくさかった」


「……はあ」


「でも、まあ。なんかうまくいった」


「なぜうまくいったんですか」


秀忠は猫の背中を一撫でしてから、本当に何でもないことのように答えた。


「みんなが優秀だったから」


家光は黙った。


「土井と正信の言うことは聞いといて。あとはまあ……好きにすれば」


「好きに、ですか」


「うん。僕もそうしてた」


家光はしばらく、その言葉を飲み込んでいた。好きにしていた、という父の二十年の治世が頭をよぎった。政務は土井が動かし、法度は誰かが整え、戦は終わった。そして自分はここにいる。


「……父上は、将軍として、何が一番大変でしたか」


秀忠は少し考えた。


「書類が多いこと」


「……それだけですか」


「あと、人が来る。来すぎる」


「……」


「朝ごはんを静かに食べたかった」


家光は何も言えなかった。


言えなかったが、なぜか、この三つの答えが腑に落ちた。腑に落ちた、というより、これが本当のことだと思った。


帰り際、家光が「他に何かございますか」と聞いた。


秀忠はしばらく考えた。


「……猫は、たまに撫でるといい」


「……はい」


「あと、飯はちゃんと食え」


「……はい」


ふと、秀忠が廊下の向こうに目をやった。障子の外に、人の気配がした。


「……竹松」


廊下の気配が、ぴたりと止まった。


「……は、はい」


「お茶、もう一杯」


「はっ、はい!」


ばたばたと走っていく音がした。


家光が小声で言った。「……あの方は?」


「さあ。ずっといる人」


家光は何も言わなかった。


お茶が来た。三人分だった。竹松は「二人分でよかった」と思いながら、自分の分を置いた理由を後から考えたが、わからなかった。ただ、手が三つ分持ってきていた。


「ありがとう、竹松」と秀忠が言った。


「……は、はい」


竹松は部屋を出た。廊下でしばらく立っていた。


名前を呼ばれたからではなかった。「ずっといる人」と言われたからだった。それが褒め言葉なのかどうかは、その夜眠れなかった間中、答えが出なかった。


でも竹松は、生涯にわたって「ずっといる人」であり続けた。それ以外の方法を、知らなかったからである。


翌日の引継ぎの場面。


老中たちが整列し、書類が山積みになった広間で、秀忠と家光が向かい合った。


秀忠が口を開いた。


「じゃあ、よろしく」


沈黙。


「以上です」


記録係の筆が止まった。


老中筆頭が恐る恐る進言した。「あの、政務の引継ぎ事項が……」


「土井に聞いてください」


「法度の運用については……」


「土井に聞いてください」


「大名との関係については……」


「土井に聞いてください」


「では将軍として最も大切なことを一言……」


秀忠は少し考えた。


「……猫を撫でると落ち着きます」


四十秒だった。


記録係は何を書けばよいかわからず、「政権移譲、滞りなく完了」とだけ書いた。


廊下で待っていた本多正信は、広間から出てきた土井と顔を合わせた。


「土井殿、いかがでしたか」


「……四十秒でした」


「内容は」


「『よろしく、以上』と『猫を撫でると落ち着きます』でした」


正信は少しの間、何も言わなかった。


「……手帳を出しますか」と土井が言った。


「……いや」


「なぜ」


「今回は、書かない方がいい気がする」


土井は「なぜ」と聞きかけて、止めた。正信が「書かない方がいい」と言う時は、たいてい書かない方がいい時だった。経験上。


「……記録係が『政権移譲、滞りなく完了』と書いたそうです」


「そうか」


「正信殿は、何と書きますか」


「書かない」


「……それが正確ですか」


「一番正確だ」


土井はしばらく考えた。


「……猫を撫でると落ち着く、というのは」


「本当に猫の話をしていたと思う」


「……そうですか」


「ただ……」


「ただ?」


正信は廊下の先を見た。


「前の夜に、あの二人が何を話したのかは、わからない。わからないが、家光の顔が、今朝と昨夜では少し違う気がした」


「……どう違いましたか」


「うまく言えない」


土井も廊下の先を見た。


「……それは、正信殿がわからないのですか。それとも言葉にならないのですか」


正信は少しの間、考えた。


「……後者だ」


「では」


「言葉にできないことが、前の夜にあった」


「……それだけですか」


「それだけだ。それ以上は、わからない」


「……わかりかねる、ですか」


正信は少し間を置いた。


「今日は、違う」


「違う?」


「わかりかねるのではなく。わかる必要がない、と思っている」


土井はこの言葉を、三日後まで考え続けた。三日考えて、「これは正信殿が二十年かけて辿り着いた言葉だ」という結論を出した。結論を出した後で、「それがわかる私は何年かかったのか」と思い、また考えるのをやめた。


家光は後に春日局かすがのつぼねにこう言っている。


「前の夜に、すべて教えていただいた気がする。何を教わったのかは、うまく言えないのだが」


春日局は「静かにお過ごしでございましたか」と書いた。


静かにお過ごし、とは書いた。猫を撫でていた、とは書かなかった。



◇後世の歴史家注◇

「猫を撫でると落ち着きます」という発言については、「秀忠が政務の要諦として『心の余裕』を説いた」とする説と、「比喩的表現として慈悲の政治を示唆した」とする説がある。「本当に猫の話をしていた」とする第三の説は、提唱した研究者が査読で「根拠が弱い」と指摘され、現在は撤回されている。なお四十秒という引継ぎの短さについては、「秀忠が後継者に余計な先入観を与えず、自らの経験から得た本質のみを伝えた」とする評が定説である。記録係が「政権移譲、滞りなく完了」と書いたことについては、誰も何も言っていない。書いた記録係も、何も言わなかった。

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