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ダダッコ秀忠 ~天下一のぐうたら将軍~  作者: おしゃまな耳かき
第七章「将軍を辞めたい!」

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引退を決めた夜

――作者より一言――

引退というのは、たいてい「もう疲れた」か「次に渡したい」のどちらかで決まる。本章の主人公の場合、どちらでもなく「朝ごはんを静かに食べたかった」という理由だった。後世の歴史家はこれを「天下の重みを感じた」と解釈した。なお引退を決める前夜に「将軍がいやなわけ その一 さむい」から始まる七枚の紙が書かれていたことは、どの歴史書にも載っていない。

なお本章には、二十年の記録を「わかりかねる」の一言で閉じた男が一人いる。十四冊分の手帳が、その一言に向かって書かれ続けていたことを、本人だけが知っていた。



EP1 引退を決めた夜


家康が死んで半年が経った。


秀忠の日常は、表向き何も変わっていなかった。


猫を撫でた。昼寝をした。土井が書類を持ってきた。竹松が記録した。岡崎が何かの草案を作った。正信が手帳を開いた。「めんどくさい」と言った。


何も変わっていなかった。


ただ一つだけ。「めんどくさい」という言葉の数が、ほんの少し減っていた。


本多正信だけがそれに気づいていたが、何も言わなかった。言えるような話でもなかった。


ある昼下がり。秀忠が縁側で紙に何かを書いていた。


猫を膝に乗せながら、真剣な顔で。


様子を見に来た竹松が、恐る恐る覗き込んだ。


紙にはこう書いてあった。


「将軍がいやなわけ その一 さむい」


「……」


「なんだ」


「いえ、その……何枚目でございますか」


「六枚目」


竹松は固まった。


しばらくして、秀忠が紙をめくった。七枚目に入った。


土井利勝が書類を持って通りがかり、縁側を見て足を止めた。


「……何をされておいでですか」


「将軍がいやなとこ、書いてた」


「……何枚ほど」


「七枚目。でも書いてたら気づいたんだけど」


「はあ」


「全部、将軍やめても解決しないやつなんだよね」


土井、黙る。


「さむいのが嫌、とか。めんどくさいのが嫌、とか。これ将軍関係ないじゃないですか」


「……おっしゃる通りでございます」


「つまり僕が嫌なのは将軍という仕事じゃなくて、生きてること全般かもしれない」


土井利勝は、この発言をどう記録すべきか三秒考えて、記録しないことにした。


秀忠は七枚の紙を丁寧に折りたたんで、懐にしまった。


その夜。秀忠は一人で、父が使っていた部屋に入った。


がらんとして、少し埃の匂いがした。


「……お父さん」


誰もいない。当たり前だが、誰もいない。


「僕、将軍向いてないと思うんだけど」


返事はない。


「でも、まあ……なんか、うまくいってるっぽいから。いいのかな」


「……辞めようと思う。家光いえみつに渡す。それでいい?」


風が鳴った。


秀忠は少しの間それを聞いていて、やがて立ち上がった。


部屋を出る前に、一度だけ振り返った。何も言わずに、障子を閉めた。


廊下を歩きながら、懐から七枚の紙を取り出した。


少し考えてから、縁側の端に置いた。


風が吹いた。紙が一枚、庭に舞った。


秀忠は見ていたが、拾いに行かなかった。


「……まあいいか」


翌朝、土井利勝が庭で紙を一枚拾った。「将軍がいやなわけ その一 さむい」と書いてあった。


土井は少しの間それを見て、懐にしまった。


誰にも言わなかった。


翌朝、秀忠は土井利勝を呼んで言った。


「将軍辞める。家光に渡す。手続きよろしく」


「は……突然でございますが、昨日、何かございましたか」


「……静かだった」


土井利勝には意味がわからなかった。しかし秀忠の顔が、いつもと少し違って見えた。何が違うのかは、うまく言えなかった。


「将軍辞める。家光に渡す。手続きよろしく」という秀忠の言葉の翌日。


本多正信は土井利勝を廊下の角に呼んだ。人の少ない場所だった。


「土井殿」


「はい」


「秀忠様が引退を決意された理由、伺いましたか」


「……『静かだった』とおっしゃいました」


「静かだった」


「はい。前夜に、家康様がお使いになっていた部屋に入られたそうで」


正信は少し黙った。


「……部屋で何をされたのか、わかるか」


「……おそらく、ただ座っておられたかと」


「ただ座って」


「はい」


また少し黙った。


「……土井殿。二十年以上、秀忠様を見てきた私が、一つだけ確信していることがある」


「なんでしょう」


「秀忠様が動く時は、必ず『しょうがない』か『めんどくさい』かのどちらかだ」


「……はあ」


「関ヶ原も。将軍就任も。大坂の陣も。全部、『しょうがない』か『めんどくさい』の果てに動かれた」


「……そう言われると」


「では引退はどちらか」


土井は考えた。


「……『静かだった』というのは、どちらでもないような」


「そうだ」


「では」


「初めて、どちらでもない理由で動かれた」


土井はこれをどう解釈すべきか考えた。


「……つまり、引退は秀忠様にとって特別な決断だった、ということでしょうか」


「そう解釈できる」


「家康様の部屋で、何か……」


「わかりかねる」


また「わかりかねる」だ、と土井は思った。しかし今回の「わかりかねる」は、最も重い「わかりかねる」に聞こえた。


「……正信殿は」と土井は言った。


「はい」


「秀忠様のことが、わかりましたか。二十年間で」


正信は少しの間、廊下の先を見た。


「土井殿は、わかりましたか」


「……わかりませんでした」


「そうか」


「正信殿は」


正信は答えなかった。


廊下の先で、秀忠が猫を抱えて歩いていくのが見えた。猫が迷惑そうな顔をしていた。秀忠は気づいていなかった。


「……わかりかねる、が」


「はい」


「わかりかねることが、わかってきた」


「……それは」


「わかりかねることが、答えかもしれない、ということだ」


土井利勝は、この言葉を翌日まで考え続けた。翌日考えても答えが出なかったので、翌々日も考えた。三日後、「考えるのをやめる」という結論を出した。


それが正しかったかどうかは、わからなかった。わからないことが、正解だったのかもしれない。


土井はそれ以上考えるのをやめた。


その日の夕方。廊下を歩く土井を、岡崎主水正が呼び止めた。


「土井殿。将軍引退の件、本当でございますか」


「はい」


岡崎は正座でもないのに、背筋がまっすぐになった。


「……秀忠様はまだ四十四でございます。将軍としての御働きはまだ十年、二十年……」


「岡崎殿」


「武家諸法度も参勤交代も、今まさに定着しつつある段階でございます。ここで将軍が交代されては……」


「岡崎殿」


「私はまだ諸大名への徹底策の草案を書きかけております。それを秀忠様に見ていただく前に……」


「岡崎殿」


土井が静かに言った。


「秀忠様はもう、決めておられます」


岡崎は口を閉じた。


「……引き留める方法は、ございませんか」


「……一つあるとすれば」


「なんでございますか」


「お江様に頼む、でございますが」


岡崎は黙った。長い沈黙だった。


「……お江様は」


「止めない、と思います。あの方は秀忠様が決めたことは、止めません」


岡崎はしばらく、廊下の木目を見ていた。


「……そうですか」


「はい」


「……将軍が、引退したい、と決めたら、止める方法は、ない」


「おそらく」


岡崎は一礼して、歩き出した。


三歩進んで止まった。振り返らずに言った。


「……草案は、書き終えてから渡します。家光様に」


「……そうしてください」


岡崎はまた歩き出した。今度は石につまずかなかった。


後日、老中たちが「将軍ご引退の動機をお聞かせいただけますか。後世の記録のために」と尋ねた。


秀忠の答えは短かった。


「朝ごはんを静かに食べたかった」


記録係がこの一言を書き留めた。後世に発見された際の解釈は以下の通りである。


「朝の静寂に天下の重みを感じ、政権移譲を決意された」


現在に至る。



◇後世の歴史家注◇

秀忠が引退を決意した夜について、「長年の重責を静かに手放された、名君らしい清廉な決断」とする評が定説である。なお「将軍がいやなわけ その一 さむい」と書かれた紙が土井家の旧蔵資料に一枚だけ残っているが、「土井が個人的に書き留めた覚書」とする解釈が主流であり、秀忠直筆とする説は「筆跡鑑定が困難」として現在も係争中である。

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