作法の授業は絶対に短くしてほしい
── 楽するための工夫が、制度改革になった件 ──
道玄斎が京へ帰ってから五日後、家康は居室で一人、腕を組んで天井を見ていた。
儒学の勉強は三日で終わった。いや、終わったのではなく、相手が逃げた。「恐ろしいほどの素養」という言葉を置いていったが、家康には「相手に勝ちすぎて逃げられた」という解釈の方がしっくりきた。いずれにせよ、秀忠が人生で二度と孔子の話をされたくないと思っていることは確かだった。
しかし。
「礼法だけは……」
家康は呟いた。
論語は捨てていい。剣術は捨てていい。しかし武家の礼法だけは、天下人の息子として必要だ。謁見の場で平伏もできない、扇の持ち方も知らない、元服の作法も覚えていない、そういう事態だけは避けなければならない。
家康は家臣を呼んだ。
「礼法指南役を探せ」
一週間後、秀忠の居室に見慣れない人物が現れた。
五十代。背筋が棒のように真っ直ぐで、着物の皺が一本もない。両腕に七本の巻物を抱えている。それぞれ太さが違い、長さも違い、重さも違うのだろうが、そのどれも器用に片腕に収めて、涼しい顔をしていた。
江戸で有数の礼法指南役、荻野宗丸である。三十年の経歴を持つ。大名家の子弟から御家人の息子まで、数えきれないほどの人間に礼法を叩き込んできた男だった。
荻野は丁寧に一礼して、巻物を床の上に並べた。七本。それから正座して、秀忠を見た。
秀忠は縁側の方を向いて座っていた。庭の鯉を見ていた。
「若様」
竹松が小声で促した。秀忠がのろのろと荻野の方へ向き直った。荻野の前に並べられた七本の巻物を見た。それから荻野の顔を見た。
それからもう一度、巻物を見た。
「……全部やるんですか」
第一声がそれだった。
荻野は微動だにしなかった。三十年の経歴は伊達ではない。初対面の第一声が「全部やるんですか」であった子弟を、荻野はこれまでに五人は経験していた。
「左様でございます。若様に覚えていただきたいのは、婚礼・元服・初陣・謁見・葬礼・祭礼・参内、武家の礼法に欠かせぬ七種でございます。一つたりとも省くことはできません」
「全部で何刻かかりますか」
荻野は静かに考えた。
「一種につき、基礎から応用までご習得いただくには、半日は……」
秀忠の目が、わずかに動いた。口の中で何かを計算しているらしい動きだった。竹松は横から見ていて、不安になった。なぜでございますか、という問いが既に喉まで来ていた。
「七日かかるじゃないですか」
荻野は静かにうなずいた。「さようでございます」
「七日……」
秀忠はしばらく黙った。庭の方を一度だけ見た。鯉が水面に口を出した。秀忠は鯉から視線を戻して、荻野を見た。
「無理ですね」
荻野は動じなかった。動じた顔を見せたことは三十年で一度もない。
「若様、武家のご子息として、礼法は……」
「無理ですよ。あの」
秀忠が少し前に乗り出した。
「こういうのって、全部バラバラにやる必要があるんですか」
荻野宗丸は、その問いを耳にした瞬間、「はい、さようでございます」と答えようとした。
三十年間、そう答えてきた。礼法は体系であり、各種それぞれに意味があり、順序があり、それぞれを個別に積み重ねることで身に染み込む、それが礼法教育の常識だった。
しかし、ちょうど口を開きかけたところで、秀忠が続けた。
「七種類ってありますけど、たぶん全部に共通する動作って、あるんじゃないですか。最初に平伏するとか、座り方とか、扇の持ち方とか。共通する部分だけ最初にまとめて教えてもらって、あとは違うところだけにしてもらえたら」
秀忠は指を折った。
「全部で一日半で終わりますよね」
荻野宗丸は、答えなかった。
答えられなかったのではない。答えようとして、止まった。
頭の中で、勝手に組み替えが始まっていた。
平伏の角度、七種共通。座り方の基本、七種共通。扇の開き方と持ち方、七種共通。呼吸の整え方、七種共通。相手との距離の取り方、七種共通。
共通部分を先に抽出して、その上で各礼法の固有の所作だけを教えれば……
荻野は計算した。
共通基礎が一日。七種の固有動作を午前午後に振り分ければ半日。
一日半。
「……試してみましょうか」
と荻野が言いかけたとき、秀忠は既に袖の中から団子を取り出していた。
一日半で、授業は終わった。
荻野宗丸は三十年間で一度も、礼法の七種をこれほど速く教えたことがなかった。しかし早く終わったからといって手を抜いたわけではない。むしろ逆だった。共通部分を先に体に染み込ませてから固有動作を加えると、各礼法の「なぜそうするか」の意味が、教える前から伝わっていた。
秀忠は授業中、ほとんど余計なことを言わなかった。言われたことを、黙ってやった。平伏の角度も、扇の持ち方も、一度見せると二度目には間違えなかった。
「素直にやれるんじゃないですか」と荻野は思いかけて、やめた。素直にやっているのではなく、「早く終わらせるために最短で覚えようとしている」のだという確信があったからだ。動機は不純だが、結果は確かだった。
授業が終わったとき、秀忠は縁側で大きく伸びをした。
「一日半で終わりましたね」
「左様でございました」
「よかった。最初から七日って言ってたら逃げてたんで」
荻野は一礼した。この言葉もまた、三十年のうちに何度か聞いてきた台詞だった。しかし今回は、笑い話として聞き流せなかった。
荻野宗丸が江戸城を辞して宿に戻ったのは、夕暮れ時だった。
荷を解いて、巻物を机の上に並べた。七本。一つひとつを開いて、眺めた。
三十年間、この七本をそのまま教えてきた。なぜそうしてきたか。それが礼法の教え方だったからだ。先代から受け継ぎ、疑わず、積み重ねてきた。
「共通部分を先に抽出せよ」
あの少年は、何の苦もなく言った。楽をしたかっただけで言った。七日を一日半に縮めたいという、ただそれだけの理由で言った。
荻野は筆を取った。
夜通しかかった。しかし翌朝、机の上には新しい覚書が一冊できていた。「礼法共通基礎科」と「種別応用科」に分けた、新しい指導の体系だった。
半年後、荻野はその体系を諸大名の子弟への礼法教育に導入した。習得期間が半分になった。どの大名家からも「わかりやすくなった」と評判になった。
覚書の最初のページには、こう書かれていた。
「ある若君のご質問がきっかけで、旧来の体系を組み替えることとした。」
それ以上のことは、どこにも書かれていなかった。
その夜、秀忠は縁側で団子を食べながら、竹松に言った。
「楽したかっただけなんですけど」
竹松は一礼した。「……かしこまりました」
かしこまって、どうするのか。竹松は自分でもわからなかった。しかし他に言える言葉が、見当たらなかった。
翌朝、本多正信は廊下で荻野宗丸とすれ違った。
荻野の顔には、何か一晩で何かが変わった人間の表情があった。正信はそれを見て、足を止めた。
「荻野殿」
「はい」
「授業は……いかがでしたか」
荻野はしばらく正信を見てから、静かに言った。
「三十年の教え方を、一日で変えることになりました」
正信は何も言わなかった。荻野は一礼して、去っていった。
廊下に一人残った正信は、懐から手帳を取り出した。
「第三の事例:礼法の授業を七日から一日半に短縮。動機は「楽したい」。結果:礼法指南の体系改革。」
書き終えて、正信は少し考えてから、一行付け加えた。
「本人は気づいていない。おそらくこれからも気づかない。」
手帳を閉じた。
廊下の奥から、「竹松、団子」という声が聞こえた。
正信はその方向を見なかった。
岡崎主水正忠則は、その日の夕方、一人で素振りをしていた。
百回終えて、汗を拭いて、正座した。
礼法の授業が一日半で終わったという話は、午後には城中に広まっていた。荻野殿がご指導なさったのだから当然だ、という者もいれば、若様がたいそう飲み込みが早かったようで、という者もいた。
岡崎は、どちらの評価も半分しか信じなかった。
あの若様は、それで七日を一日半にするために「共通部分だけにしてほしい」と言ったのだという。
岡崎は、正座したまま、しばらく宙を見た。
「武士の子として、礼法を一つたりとも省かず……」
声に出してみた。
しかし、一日半で七種全て覚えたという事実は変わらなかった。省いたのではなく、組み替えた。怠けたのではなく、構造を見た。
岡崎は素振りをもう百回した。汗をかき直して、また正座した。
「……なぜでございますか」
誰もいない部屋に向かって、小声で言った。
答えは、やはり返ってこなかった。
◇後世の歴史家注◇
道玄斎は儒学指導の経験を元に晩年「問学論」を著し、「学問の本質は答えを持つことではなく、問いを立てることにある」と説いた。秀忠の名前は一切登場しない。荻野宗丸の「礼法新指導体系」は江戸初期の武家礼法教育の標準となり、今日も「合理的な武家礼法の原型」として礼法研究者の間で評価が高い。秀忠との授業が発端であることは記録されていない。両名の覚書には、それぞれ「ある若君のご質問がきっかけで」「一人の若者の問いが」とある。その若君と若者が同一人物であることに、後世の研究者が気づくまで二百年かかった。なおその研究者は「当然ながら意図的な教育改革であった」と論じており、池の鯉に石を投げていた話については触れていない。「若君が団子を取り出しながら提案した」という口頭の記録が一件あるが、該当論文では注に「信憑性に欠く」として本文から除かれた。




