駿府での対面
――作者より一言――
人間というのは、笑えない場面でもその人らしさは消えない、という法則がある。むしろ笑えない場面にこそ、その人の「本当の形」が、一番はっきりと出るものだ。
本幕間の秀忠は、最初から最後まで秀忠である。ぐうたらで、情けなくて、本質から一ミリもずれていない。
なおこの章を読んで泣いた読者がいたとしたら、それは秀忠のせいではなく、あなたがこの男の「情けない形」の中に何かを見てしまったからである。筆者の責任ではない。たぶん。
なお本章には、書いては燃やし、それでも一行だけ残した男が一人いる。その一行が、本章で最も正確な記録だった。
EP1 駿府での対面
大坂夏の陣が終わり、豊臣が滅んだ。
天下は完全に徳川のものになった。
それがどれほどのことか、秀忠にはよくわからなかった。わからなかったが、政務は続いた。土井が書類を持ってきた。岡崎が何かの計画書を作った。竹松が記録した。正信が手帳を開いた。
いつもと、変わらなかった。
変わったことが一つあるとすれば、家康が駿府で臥せっている、という知らせが届いたことだった。
秀忠が駿府へ向かう朝のことを、ひさは後年、お江にだけ話した。
「あの朝の殿は、行きたくなさそうなお顔でございました」
「そうね」
「でも……」
「でも?」
「支度が、一番早く終わっておられました」
お江は何も言わなかった。
ひさも、それ以上は続けなかった。
続けなかったが、あの朝の廊下の秀忠の背中は、ひさの中に長く残った。行きたくなさそうな顔で、しかし誰より早く支度を終えて、廊下に立っていた背中。何かが終わる前に、急いでいるような背中だった。
秀忠が駿府に着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
出迎えた家臣の顔を見た瞬間、秀忠は何も聞かなかった。顔色でわかった。思っていたより、急いで来るべきだったということが。
部屋に入ると、家康は思ったより小さく見えた。
布団の中の父親が、こんなに小さかったか。秀忠はしばらく入り口に立ったまま、そのことが飲み込めなかった。関ヶ原の後に怒鳴ってきた父は、あんなに大きかったのに。大坂の陣の前に睨んできた父は、あんなに恐ろしかったのに。
布団の中の人間は、ただ小さかった。
「……来たか」
「……お父さん、顔色悪いよ」
「当たり前だ、死にかけておる」
「そんなこと言わないでよ」
家康は何も言わなかった。ただ、少し目を細めた。笑ったのか、それとも眩しかったのか、秀忠には判断がつかなかった。
秀忠は部屋に入り、布団の横に座った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
窓の外で、風が松の枝を鳴らした。
家康は天井を見ていた。天井の節目を、何かを数えるように見ていた。
「……秀忠」
「うん」
「お前は……天下が取れると思うか」
秀忠は少し考えた。
「取れるとか取れないとか、よくわかんない。ただ……みんなが勝手にうまくやってくれてるから、まあいいんじゃないですか」
家康は黙った。天井を見たまま、何も言わなかった。
「お父さんはさ、ずっと天下のこと考えてたの?」
「そうだ。ずっとだ。お前が生まれる前から」
「……疲れなかった?」
窓の外で風が鳴った。
長い沈黙だった。家康は答えなかった。答えないまま、ただ窓の外を見ていた。秀忠も何も言わなかった。言えなかったのではなく、この沈黙を埋めてはいけない気がしたからだった。
やがて家康が、独り言のように言った。
「……お前が羨ましかった」
「え?」
「怖いものがないような顔をしておる。ずっとそうだった。儂には……最後までわからなかった。天運なのか、ただの怠け者か」
秀忠は少し考えてから、答えた。
「僕も知らない」
家康が笑った。
生涯で一番力の抜けた笑い方だった。勝利の時でも、息子の奇行を見た時でも、一度もしたことのない笑い方だった。天下人がこんな笑い方をするとは、秀忠は知らなかった。
「……そうか。知らんか」
「うん。知らない」
それきり二人は黙って、しばらく並んで座っていた。
外の風の音だけが、部屋の中まで届いてきた。
秀忠が帰り際、立ち上がりながら言った。
「……また来るよ」
「来なくていい」
「え」
「……政務をしろ」
「土井がいるから大丈夫」
家康は何も言わなかった。目を閉じた。閉じたまま、もう一度だけ言った。
「……この馬鹿者めが」
その声はもう怒っていなかった。呆れてもいなかった。ただ、そう言いたかっただけのような声だった。
秀忠は何も返さなかった。返さないまま、静かに障子を閉めた。
廊下に出て、少し歩いてから、足を止めた。
止まって、何をするわけでもなく、しばらくそこに立っていた。
家臣が声をかけようとしたが、言葉が出なかった。立っている秀忠の背中に、声をかけていい気配がなかったからだった。気配がない、というより、声をかけることが、何か大切なものを壊してしまう気がした。
秀忠は一人で、しばらく廊下に立っていた。
廊下の端、見送りのために来ていたひさは、そこから秀忠の背中を見ていた。背中は何も語らなかった。ただ、その背中がいつもより少しだけ丸まっているように見えた。
見えただけかもしれない、とひさは思った。
後年、ひさがお江にそのことを話すと、お江は「そうね」とだけ言った。
「奥方様は、そのとき殿がどんなお気持ちだったと思われますか」
お江は少しの間、庭を見てから答えた。
「さあ。でも……帰りたくなかったんじゃないかしら、あの廊下から」
「……駿府に、残りたかった、ということですか」
「そうじゃなくて」
お江は、それ以上は言わなかった。
ひさも、それ以上は聞かなかった。




