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ダダッコ秀忠 ~天下一のぐうたら将軍~  作者: おしゃまな耳かき
第五章「大坂の陣も行きたくない!」

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陣中の食事がまずいのを何とかしてほしい件

── 将軍の食への執着が、兵站管理を改善した ──


大坂冬の陣、陣に入って三日目の朝だった。


秀忠は飯を一口食べて、箸を止めた。


止めた。


もう一口、慎重に食べた。


また止めた。


「……土井さん」


「はい」


「これ、腐りかけてませんか」


土井利勝は少し黙った。


「……戦場でございますので」


「まずいとかそういう話じゃなくて」と秀忠は言った。箸を置いた。「これ、においが変です」


「……輸送に日数がかかっておりますので」


「何日かかってるんですか」


「五日ほど」


「五日」


「はあ」


秀忠はしばらく椀を見た。それから土井を見た。


「……五日かけて運んでくると、最後の方はもう食べられないやつが混じってくるんじゃないですか」


土井は答えなかった。


答えられなかった。その通りだったからである。


「あのですね」


秀忠は椀を脇に押しやった。軽く、しかし明確に押しやった。


「腐りやすいものと腐りにくいものって、あるじゃないですか」


「……ございます」


「それ、分けられますよね」


「……分類自体は、可能かと」


「じゃあ腐りやすいのを先に食べて、腐りにくいのを後にする、それ、できないんですか」


土井利勝は少し間を置いた。


「……理屈としては、まあ」


「あと」と秀忠は続けた。「全部最初に持ってくるから日数がかかって腐るんですよね。途中で補充できないんですか。近いところから少しずつ送ってくれれば、五日待たなくてもいいんじゃないですか」


土井利勝は、この二つの言葉を聞きながら、頭の中で静かに展開していた。


腐りやすい食材と腐りにくい食材の分類と優先消費順序。一括輸送から段階的補給への切り替え。輸送の分散化。補給拠点の活用……


これは。


「……秀忠様、それは兵站の話でございます」


「そういう難しい話じゃなくて」と秀忠は言った。「単においしいご飯が食べたいんですが」


「……おっしゃる通りが、実は兵站の改善に直結しておりまして」


「……そうですか」


秀忠はもう一度、脇に押しやった椀を眺めた。


「まあ、おいしければいいです」


「……はい」


「早めにお願いします」


「……はい」


土井は立ち上がった。立ち上がりながら、頭の中の展開を整理していた。腐りやすいものから先に。段階的に補給。輸送を分散。これは、試してみれば、効果が出る。


「土井さん」


「はい」


「本当に早めにお願いします」


「……承知しました」


この話が軍目付ぐんめつけの耳に入ったのは、その日の午後だった。


土井から経緯を聞いた軍目付は、三度聞き返した。


「……将軍様が、食材の分類を」


「飯がまずいとおっしゃいました」


「なぜそこから補給体制の話に」


「おいしいご飯が食べたかったようです」


軍目付は少しの間、土井の顔を見た。


「……それだけで、ございますか」


「それだけです」


「……しかしその提案は、理に適っており」


「はい」


「腐りやすいものを先に消費し、段階的に補給するというのは、輸送の無駄を大幅に削減できます。食料廃棄が減り、補給の安定性が上がり、兵の体力低下も抑えられる」


「おそらく」


「これを、将軍様が」


「おいしいご飯が食べたかったので」


軍目付は「それだけか」ともう一度言いかけて、止めた。理由は説明できなかった。ただ、これ以上聞くと自分が困ることになる気がした。


「……試験的に導入してみます」と軍目付は言った。


「お願いします」


「結果を報告いたします」


「ぜひ」


軍目付は下がっていった。廊下の途中で立ち止まり、振り返った。


「土井殿。秀忠様に、御礼を申し上げた方がよいでしょうか」


土井は少し考えた。


「……何とおっしゃって御礼を申し上げますか」


軍目付は黙った。


「飯がまずかったのが発端ですので、飯がおいしくなりました、という形で報告すれば、喜んでいただけるかと」


「……なるほど」


「その方が、秀忠様にはわかりやすいと思います」


軍目付は一礼して、今度こそ下がっていった。


本多正信がこの話を聞いたのは夕刻だった。


土井から報告を受けながら、正信はいつものように手帳を出した。


「食材の分類と段階的補給の発端が……」


「飯がまずいというお訴えでございます」


「……飯が、まずい」


「はい」


正信は手帳に書いた。


「観察。秀忠様、陣中三日目に食料の品質を問題として指摘。腐りやすいものの優先消費と段階的補給を提案。発端:まずい飯。結果:兵站管理の改善。」


書いて、少し眺めた。


「鎧の件と、構造が同じだ」


「……と申しますと」


「直接の動機は、不満だ。重い、まずい、いずれも、本人にとっては純粋な不満だ。しかしその不満が、改善を引き出す」


「……偶然でしょうか」


「わからん」と正信は言った。「鎧が一件。飯が一件。これで二件だ。二件では、法則とは言えない」


「では」


「観察を続ける」


土井は一礼した。下がりながら、「おそらく三件目が来る」と思った。なぜそう思うのかは、うまく言えなかった。経験上、という言葉だけが頭に浮かんだ。


翌日の朝、軍目付が秀忠のもとへ来た。


「秀忠様、本日よりお食事の改善を試みます。まず腐りやすい食材を優先してお出しします」


「……そうですか」


「段階的な補給も検討しております。近い拠点からの輸送を分散させることで、鮮度を保ちやすくなるかと」


「……それは、よかった」


「将軍様のご指摘のおかげでございます」


秀忠は少し首を傾げた。


「僕、指摘しましたっけ」


軍目付は止まった。


「……飯がまずい、とおっしゃいました」


「まずかったので言っただけですが」


「その件が、補給体制の見直しにつながりました」


「……そうですか」


秀忠はそれ以上は特に言わなかった。


「今日の飯は、おいしいですか」


「……まだ変更前の食材が残っておりますので、今日明日はあまり変わらないかもしれませんが……」


「じゃあ早く変わってください」


「……はい」


軍目付は下がった。廊下で、岡崎主水正とすれ違った。


「軍目付殿、いかがでしたか」


「……御礼を申し上げましたが、今日の飯がおいしいかどうかをお聞きになりました」


岡崎は少し間を置いた。


「それだけ、でございますか」


「それだけでございます」


岡崎はゆっくりと廊下の先を見た。


「……なぜか」


「はい」


「なぜ、それだけなのか」


「……わかりかねます」


岡崎主水正は自分の日記を思い出した。すでに十二件の「なぜか」が記録されていた。これは十三件目になるだろう、と思った。


廊下を歩きながら、どう書くべきか考えた。


「飯がまずいという訴えが、兵站管理の改善につながった。なぜか。わかりかねる。しかし飯はおそらく、おいしくなる。なぜか。それはわかる。」


「なぜか」と「わかる」が同じ出来事に混在するのは、これが初めてだった。


岡崎はその夜、少しだけ早く眠れた。理由は、やはりわからなかった。


数日後、食事が変わった。


大きな変化ではなかった。腐りかけたものが混じらなくなった。鮮度がほんの少し上がった。それだけだった。


しかし陣中で「少し変わった」と気づいた兵士は、思いのほか多かった。


秀忠は二口食べてから、箸を止めなかった。


「……ちょっとましになった」


側で控えていた竹松が、手帳を出した。


「殿、記録してよろしいですか」


「どうぞ」


「……何と書けばよろしいですか」


「ちょっとましになった、でいい」


竹松は書いた。


「慶長十九年冬。秀忠様、陣中にて食事について『ちょっとましになった』との御言葉。」


書いてから、少し考えた。この一行は何の記録なのか。食事改善の記録か。将軍の感想か。兵站改革の結果か。


どれでもあり、どれでもない気がした。


「竹松」


「はい」


「それだけでいい」


「……はい」


竹松は手帳を閉じた。


「ちょっとましになった」という一言が、後年の歴史家に発見されることになるとは、この時の誰も知らなかった。



◇後世の歴史家注◇

大坂の陣における徳川方の兵站管理に関して、「冬の陣を契機に補給体制が改善された」とする研究がある。具体的な改善の発端については記録が少ないが、「将軍の陣中見回りに際して食料管理の問題が指摘された」とする史料が土井家文書に残っている。「おいしければいいです」という言葉が含まれていることについて、研究者の間では「文書の文脈上の問題」として未解決のままになっている。なお竹松の手帳に記された「ちょっとましになった」については、「将軍が兵の食環境の改善を直接確認した記録」として引用されることがあるが、発言の前後を読むと「秀忠様が食事を二口召し上がった後に箸を止めず、以下の御言葉」とあるだけであり、文脈の解釈には慎重を要するとする注記が別の史料に残っている。誰がその注記を書いたかは、不明である。

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