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ダダッコ秀忠 ~天下一のぐうたら将軍~  作者: おしゃまな耳かき
第五章「大坂の陣も行きたくない!」

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出陣前夜・夫婦の場面

── 「向いてる人が将軍だったら、もっと怖かったと思う」 ──


大坂への出陣の前夜だった。


陣の準備は、表では続いていた。遠くで木槌の音がした。足音が行き来した。誰かが何かを確認する声が、廊下の向こうから届いた。


秀忠の部屋は、静かだった。


猫は今夜いなかった。どこかへ行ってしまっていた。猫のいない部屋は、いつもより少し広く感じた。秀忠は布団の上に座って、庭を眺めていた。眺めながら、特に何も考えていなかった。


障子が開いた。


お江だった。


「……何か用ですか」


「別に」


お江はそれだけ言って、縁側に座った。秀忠の隣、少し間を空けて。


二人ともしばらく、庭を見ていた。


外の音が、少し遠く聞こえた。


先に口を開いたのは秀忠だった。


「……ねえ」


「なに」


「僕って、将軍に向いてると思う?」


お江は即答した。


「向いてないわね」


「だよね」と秀忠は言った。間を置かずに。「だよね、と思ってた。じゃあなんで……」


「向いてる人が将軍だったら、もっと怖かったと思う」


秀忠は口を閉じた。


しばらく考えた。考えても、よくわからなかった。


「……それ、褒めてるの」


「さあ」


お江は庭を見たまま、それ以上は言わなかった。


秀忠も、それ以上は聞かなかった。聞いても答えが出ない種類の言葉だと、なんとなくわかったからだった。


木槌の音が一度、大きく響いた。それから静かになった。


「……めんどくさいな」


秀忠はぽつりと言った。


「そうね」


お江は否定しなかった。


それが秀忠には、励ましよりも少し温かかった。励ましは「めんどくさくない」と言うが、お江は「そうね」と言う。「そうね」は、めんどくさいことを認めている。めんどくさいことを認めてもらえると、少しだけ楽になる、ということを、秀忠は将軍になってから覚えた。


二人とも、しばらく庭を見ていた。


暗い庭だった。


「明日、出るんですよね」と秀忠が言った。


「そうね」


「……行きたくないな」


「そうね」


「鎧も、重かったし」


「軽くしたんでしょう」


「軽くしてもらいました」


「じゃあいいじゃない」


「……まあ」


秀忠は少し間を置いた。


「お江さんは、心配とかしないんですか」


「何を」


「僕が、戦に行くこととか」


お江は少しの間、庭を見ていた。


「……するわよ」


「え、するんですか」


「当たり前でしょう」


秀忠は少し驚いた顔をした。驚いてから、何か言いかけた。何を言おうとしたのか、自分でもわからなかった。


「……そうですか」


「そうよ」


「……じゃあ、心配させてしまって申し訳なかったです」


「別に謝らなくていい」


「でも……」


「めんどくさいなと思いながら行ってきなさい」


秀忠は黙った。


お江はそれ以上は言わなかった。


二人ともしばらく、暗い庭を見ていた。


外の音が、また少し大きくなった。


誰かが走る足音がした。遠くで何かが決まったのかもしれなかった。


お江が立ち上がった。


秀忠が顔を上げた。


「もう行くんですか」


「ええ」


「……何か言いたいことがあるなら言えばいいじゃないですか」


「別に」


「絶対あるでしょ」


お江は障子に手をかけた。振り返らなかった。


「……ひとつだけ」


「なんですか」


「帰ってきなさい」


それだけだった。


障子が閉まった。


秀忠はしばらく、閉まった障子を見ていた。


「……帰ってきなさい、か」


誰もいない部屋でもう一度、小さく言った。


特に何も感じなかった。感じなかったが、その言葉は頭の中にしばらく残った。消えなかった。


秀忠は布団に倒れ込んだ。


天井を見た。


「……めんどくさいな」


今度は誰も「そうね」と言わなかった。


言う人がいない部屋で、秀忠はその言葉をしばらく天井に向けていた。それから目を閉じた。


翌朝、秀忠はいつもより少し早く起きた。理由は自分でもわからなかった。わからなかったが、起きた。


それだけのことだった。


この夜のことを、後に記録した者はいなかった。


お江付きの侍女・ひさは廊下の向こうで控えていたが、部屋の中の言葉は聞こえなかった。障子が閉まっていたからだった。お江が戻ってきた時、ひさは「いかがでございましたか」と問うた。


「別に」とお江は言った。


「……殿は」


「寝るでしょう」


ひさはそれ以上は聞かなかった。


聞かない方がいい、とわかったからではなかった。お江の顔が、聞かれたい顔をしていなかったから、というだけだった。


その夜ひさが自分の覚書に書いたのは、一行だった。


「出陣前夜、奥方様、殿の部屋へ。しばらくして戻られる。表情、ふだんと変わらず。」


ふだんと変わらず、と書いたが、ひさには何かが少し違う気がした。何が違うのかは、書かなかった。書き方がわからなかったからだった。



◇後世の歴史家注◇

大坂出陣前夜の秀忠とお江の記録は、公式文書にはほぼ残っていない。ひさの覚書に「奥方様、殿の部屋へ」とある一行が現在確認できる唯一の記録である。この夜二人の間でどのような話があったかについては、「将軍の意を固めるための賢夫人の励まし」とする説と、「記録に残るような特段の話はなかった」とする説が並立しており、一次資料が存在しないため決着の見通しは立っていない。なお翌朝、秀忠がいつもより早く起床したという記録が竹松の手帳に残っている。「なぜでございますか」という竹松の問いに対し、秀忠は「わからない」と答えたとあり、竹松はこの「わからない」の隣に小さく括弧書きで「珍しい」と記している。これが珍しかった理由については、竹松は書いていない。

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