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ダダッコ秀忠 ~天下一のぐうたら将軍~  作者: おしゃまな耳かき
第四章「政務なんてやりたくない!」

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正信の報告書

── 「恐ろしいお方です」と書いて、送らなかった件 ──


将軍就任から半年が経った頃、本多正信の手帳は五冊目に入っていた。


一冊目は「事例の記録」、二冊目は「事例の分類」、三冊目は「傾向の分析」、四冊目は「傾向の再検証」だった。五冊目の最初のページに正信が書いたのは、一言だった。


「わかりかねる。しかし何かある。」


土井利勝はこの手帳の存在を知っていた。見たことはなかった。見なくていいと思っていた。理由は説明できなかったが、見ない方が仕事に集中できる気がした。これは半年で土井が身につけた、無意識の護身術だった。


その夜のことだった。


本多正信は、行燈の前で筆を持っていた。


机の上には、途中まで書いた書状があった。宛先は駿府すんぷ大御所おおごしょ、徳川家康。


正信は書いた文字をもう一度、静かに読んだ。


「秀忠様の政務について、御心配には及びません。土井が全て捌いております。秀忠様は本日も猫と縁側においでになりました。しかしながら……」


ここで正信は筆を止めた。


少し考えた。続きを書いた。


「しかしながら、ここ三ヶ月の政の流れを振り返りますと、不思議なことに、秀忠様が何もおっしゃらなかった日ほど、物事がうまく運んでおります。」


正信は、書いた。


「これが偶然なのか、天運なのか、あるいは秀忠様の御意思によるものなのかは、わかりかねます。ただ一点だけ申し上げれば、秀忠様は、うまくいっている時に口を出しません。うまくいっていない時だけ、一言おっしゃいます。その一言が、毎回核心を突いております。」


筆を置いた。


読み返した。


最後に一行、書き足した。


「恐ろしいお方です。」


それから、もう一行。


「……もっとも、本人は全くそのつもりがないようですが。」


正信は書状を畳んだ。


それを懐に入れた。


それから、取り出した。


もう一度読んだ。


少し考えた。


畳んで、机の引き出しに入れた。


この書状は、結局、送られなかった。正信が後から読み返して「これは書かない方がいい」と判断したからである。理由は書いていない。



◇後世の歴史家注◇

この書状草稿の発見により、正信が「秀忠政治の本質を最も早く見抜いた人物」であったことが証明された、とする研究が出た。しかし「わかりかねます」「恐ろしいお方」という表現が、理解しているのか困惑しているのかを判断しかねるとする反論もある。送らなかった理由については「謙虚さ」「証拠隠滅」「判断の保留」「書いた後に自分でも信じられなくなった」の四説が対立しており、決着を見ていない。



翌朝、本多正信は五冊目の手帳の二ページ目を開いた。


書いたのは、一つの観察結果だった。


「仮説:秀忠様が昼寝をされた直後の政務判断は、昼寝をされていない日より成果が良い。」


「標本数:十七件。例外:三件(ただしこの三件も、結果として問題はなかった)。」


「結論:昼寝は重要な何かである。何かは不明。」


正信はしばらくこれを眺めた。


重要な何かである。何かは不明。


これが今の正信の、最も正確な記述だった。


その日の午後、正信は土井利勝を廊下で捕まえた。


「土井殿」


「はい」


「少し見てほしいものがある」


土井は手帳を渡された。一行目で止まった。


「……十七件、数えたんですか」


「二ヶ月分です」


「……標本数が十七件しかないのに、統計として」


「では増やしましょう。続けて記録します」


「そういう問題では……」


正信は手帳を取り返した。


「土井殿。昨日、秀忠様は昼寝をされましたか」


「……されました」


「今日、加賀藩からの書状に対してどう対応しましたか」


「秀忠様に見せたところ、『土井に任せる』とおっしゃったので、私が……」


土井は途中で止まった。


「……先方に非常に喜ばれました」


正信は手帳に何かを書いた。


「十八件目です」


土井は「これは違う」と思った。何が違うのかは、うまく言えなかった。廊下でしばらく考えたが、言葉にならなかったので、歩き続けた。


翌週のことだった。


秀忠が、珍しく昼寝をしない日があった。


午前中、縁側で猫と過ごした後、秀忠は「今日は眠くない」と言い、書物を広げた。書物を見ること三分、閉じた。それから庭を眺めた。庭を眺めること半刻、「竹松、団子を」と言った。団子を食べた。


昼寝をしなかった。


本多正信は、落ち着かなかった。


廊下から秀忠の部屋の方を何度も確認した。昼の四つを過ぎ、五つを過ぎ、夕方が近づいてきても、秀忠が昼寝をしている気配はなかった。


正信はついに土井を呼んだ。


「土井殿」


「はい」


「今日、急ぎの書類はあるか」


「三件ほど」


「……今日は、急ぎでなくてもいい案件だけにしておけ」


土井は三秒、正信を見た。


「は? 急ぎの案件を後回しにするのは……」


「秀忠様が今日、昼寝をされていない」


土井は黙った。三秒ではなく、今度は長かった。


「……それと書類に、何の関係が」


「わかりかねる。ただ、昼寝をされていない日に急ぎの案件を持ち込んだ例が、まだ事例として少ない」


「事例……」


「用心のために」


土井は「これは職務怠慢になるのか、それとも将軍への配慮になるのか」を七秒間考えた。答えが出なかった。


その日の急ぎ書類を、翌日に回した。


翌日、秀忠が昼寝をした。


一刻ほどして目を覚ました秀忠に、土井が昨日の書類を持っていくと、秀忠は一枚を見てすぐに言った。


「……これ、昨日来てたやつですね」


「さようでございます」


「早く返した方がよかったのでは」


「……おっしゃる通りでございます」


「じゃあ早く返してください」


「……はい」


土井は廊下に出て、正信を探した。


「正信殿」


「うむ」


「昨日昼寝をしなかった秀忠様は、今日昼寝をされました。そして昨日保留した書類を『早く返せ』とおっしゃいました」


「……そうか」


「昨日の判断は、間違いでした」


「結果として、一日遅れた」


「はい。先方は一日、待ちました」


正信は少し考えた。


「……その一日の遅れで、先方はどう出た」


土井は眉を寄せた。


「……確認します」


確認すると、先方は一日待つ間に条件を一つ追加してきていた。こちらに有利な条件だった。


「正信殿。先方が条件を一つ追加してきました。こちらに有利な条件です」


正信は手帳を開いた。


「十九件目」


「……違います」


「なぜ違うのか」


「昨日の判断は間違っていて、それでもたまたま先方が条件を追加してきただけです。昼寝と書類の保留とは、無関係です」


「たまたま、か」


「はい」


正信は筆を置いて、土井を見た。


「土井殿。私が二ヶ月間観察してきた十九件の記録に、『たまたま』が何件あると思いますか」


「……それは」


「十九件全部、『たまたま』と言えばたまたまだ。しかし十九件連続してたまたまが起きるのは、果たして偶然と言えるか」


土井は、答えなかった。


「……わかりかねます」


「そうだ」と正信は言った。「それが、正しい」


土井はその夜、三回眠れなかった。


一回目は「十九件連続の偶然」について。


二回目は「正信殿が正しいのか間違っているのか」について。


三回目は「この二つを悩んでいること自体が正信殿の思うつぼでは」という懸念について。


夜明け前、土井はようやく寝ついた。


翌朝、秀忠の縁側を通りかかると、秀忠は猫を膝に乗せて空を眺めていた。


機嫌が良さそうだった。


「土井さん、顔色が悪いですよ」


「……ありがとうございます」


「眠れませんでしたか」


「少々」


秀忠は猫の頭を撫でながら、特に何も考えていない顔で続けた。


「そういう時は昼寝するといいですよ。昼寝すると頭がすっきりします」


「……はあ」


「知らないけど」


土井は一礼して、その場を離れた。


廊下の角を曲がって、立ち止まった。


知らないけど。


その一言が、頭の中でしばらく残った。消えなかった。


廊下の向こうから正信の足音が近づいてきた。土井はとっさに「急ぎの書類がある」と思い出し、別の方向へ歩き出した。今日は、手帳を見せられたくなかった。


理由は説明できなかった。



◇後世の歴史家注◇

本多正信の五冊の手帳は後世に一部が発見されており、三冊目以降に「昼寝の件数」「成果件数との相関」など詳細な観察記録が残されている。これらを根拠に「正信は秀忠政治の本質を数値で分析した最初の人物」とする研究がある一方、「単なる執念深い観察記録であって統計としての意味はない」とする反論も根強い。「わかりかねる。しかし何かある」という冒頭の一文については、「謙虚な知の姿勢」「分析の限界の自覚」「本人もわかっていなかった」の三説が並立しており、現在も決着を見ていない。



その夜。


お江が秀忠の部屋に来た。珍しく、何も用件がなさそうだった。


秀忠は布団の中から「どうした」と聞いた。


「別に」


「そう」


しばらく沈黙。


「……ねえ」とお江が言った。


「うん」


「あなた、将軍のこと、嫌いだって言うけど」


「嫌いだよ」


「本当に?」


秀忠、少し考える。


「……嫌いだよ。めんどくさいし」


お江は少しの間、夫の顔を見ていた。


「そうね」


それだけ言って、立ち上がった。


秀忠が布団から顔を出す。


「何か言いたいことがあるなら言えばいいじゃん」


「別に」


「絶対あるでしょ」


お江、障子に手をかけながら、振り返らずに言う。


「……土井が今日、私に言いに来たの。最近、仕事がやりやすくなったって」


「そう」


「それだけよ」


障子が閉まった。


秀忠はしばらく天井を見ていた。


「……そう」


もう一度、誰もいない部屋で、小さく言った。


猫が秀忠の腹の上に乗ってきた。秀忠は特に何も言わずに、その背中を撫でた。

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