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ダダッコ秀忠 ~天下一のぐうたら将軍~  作者: おしゃまな耳かき
第四章「政務なんてやりたくない!」

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書類が多すぎるから整理したい件

── 面倒なの一念が、稟議制度の原型を生んだ ──


将軍就任から半年が経った頃、江戸城の政務はある意味において安定していた。


土井利勝が動き、本多正信が観察し、竹松が記録し、岡崎主水正が巻物を作り続ける。秀忠は縁側で猫を撫で、たまに「それでいい」と言い、たまに「嫌です」と言い、たまに何も言わない。何も言わない日が最も多かった。


そして不思議なことに、その体制が、機能していた。


竹松はこの事実を正座しながら考え続け、答えが出ないまま筆を取り続けていた。岡崎主水正は「なぜでございますか」と本多正信に問い、「わかりかねます」と返され、廊下で何もない場所につまずき続けていた。


何かが、うまくいっていた。


ただ、書類だけが増え続けていた。


その朝のことだった。


竹松が書類の束を両手で抱えて秀忠の部屋に入ってきたのは、秀忠がちょうど二度目の朝飯を食べ終わり、猫の背中を撫でながら「今日は風がない。縁側日和」と評していた頃だった。


「殿、政務のご決裁をお願いしたく」


「うん」


「こちら、各地からの……」


竹松は束をそっと脇に置いた。


秀忠が振り返った。猫が秀忠の膝から降りた。


書類の束は、一見して分厚かった。分厚い、というよりは、重かった。重い、というよりは、多かった。


「……何枚ありますか」


「三十枚でございます」


秀忠は少し間を置いた。


「三十枚」


「はい」


「全部ですか」


「全部でございます」


秀忠は束を手に取った。一枚目をめくった。二枚目をめくった。三枚目で閉じた。


「……土井さんを呼んでください」


竹松は「なぜでございますか」と言いかけて、言わなかった。


なぜという問いの答えが、おそらく自分には理解できないと思ったからである。経験上、そういう場合は聞かない方が早く解決する。これは竹松が半年で学んだことだった。


土井利勝が来るまでの間、秀忠は書類の束の横に座って猫を撫でていた。


書類は三枚目で閉じたまま、そのままだった。


土井が部屋に入ると、秀忠はすぐに言った。


「土井さん、これ、全部僕が判断しないといけないんですか」


土井は束を確認した。「さようでございます」


「……全部、ですか」


「全部でございます」


秀忠は束をちらと見た。それから土井を見た。


「土井さんが一人で判断できるやつは、どれくらいありますか」


土井利勝は少し考えた。半年で土井は、この問いの形を読むことを覚えていた。これは丸投げの前置きではない。少なくとも、ただの丸投げの前置きではない。何か、考えている。


「……半分以上は、私の権限で処理できるかと」


「じゃあそれはやっといてください。残りだけ持ってきてください」


「しかし、記録の上では将軍の御決裁が必要なものもございまして……」


「全部に目を通すのは無理です」


秀忠は真顔で言った。嘆いているわけでも、拒んでいるわけでも、ごねているわけでもなかった。ただ、事実を言っていた。


「三十枚に全部目を通して、全部判断して、全部に花押を押す、それは、僕には無理です。時間的に」


「……時間的に、とおっしゃいますと」


「朝飯の時間、昼寝の時間、猫の時間を考えると、三十枚は多すぎる」


土井は少し目を伏せた。


それは反論できない、と思ったからだった。


「では」と秀忠が続けた。少し考えながら、のんびりとした口調で。「土井が決めたやつに、僕が後で花押だけ押すのは、ダメですか」


土井は止まった。


「……後で、でございますか」


「全部に目を通すのは無理だから、土井が決めて、土井が責任を取って、僕が確認したということにする。それなら記録の上では将軍の決裁になるし、土井が動けるし、よくないですか」


土井利勝はこの提案を、三秒で飲み込んだ。


さらに三秒で問題点を考えた。


さらに三秒で、これが実は合理的であることに、気づいた。


土井が部屋を出た後、竹松がそっと残って書類の束を整理していた。


「……竹松」


「はい」


「今の、記録しましたか」


「……どこまでを記録すればよろしいでしょうか」


秀忠は猫を撫でながら言った。


「全部」


「『土井が決めて後で花押だけ押す』というくだりも」


「全部」


「……承知しました」


竹松は筆を取った。取りながら、「これは何と書けばいい」と思った。


「殿、書類三十枚を前に、三枚目にて閉じられ、土井殿に半分は任せることとなさいました。残りは後日花押のみ押されるとのことで……」


手が止まった。


「なぜでございますか、と聞いていいですか」


「何が」


「花押だけ、というのは……将軍が内容を確認せずに決裁したことになりますが」


「土井が確認してる」


「しかし将軍の決裁として記録が……」


「土井が確認して、僕が確認して、二重に確認したと思えばいいじゃないですか」


竹松は「それは……」と言いかけて、止まった。


論理としては、間違っていなかった。担当者が確認し、責任者も確認する、二重に確認している。将軍が最後に目を通す必要があるかどうかは、たしかに、制度の問題である。


「……わかりました」と竹松は言った。「ただし、その旨を記録に残してよろしいですか」


「どうぞ」


竹松は書いた。


「将軍御決裁の方式について、担当官が案を作り、責任者が承認し、将軍が後から確認するものとする旨、秀忠様よりご意向をいただく」


書いてから、もう一度読み返した。


これは、制度の話だ、と竹松は思った。


誰かがそう言ったわけではなかった。ただ、この一行が、何か大きなものの、始まりのように見えた。


なぜそう思ったのか、竹松にはうまく言えなかった。


その日の夕方、岡崎主水正は廊下を歩いていた。


対面から土井利勝がやってきた。


「岡崎殿」


「土井殿。本日、何かございましたか」


「書類の件で、秀忠様よりご意向をいただきました」


岡崎は足を止めた。


「書類の件」


「はい。決裁の手順を少し変えることになりまして」


「……どのような手順に」


土井は簡潔に説明した。担当者が案を作り、責任者が承認し、将軍が後から確認する。将軍の判断を要するものは厳選し、それ以外は担当者の責任で処理する。


岡崎は聞きながら、胸の内で何かが動いた。


実は岡崎も、書類の整理について一週間前から考えていた。全二十二項目、決裁の優先度分類、処理経路の整備、今朝、書き終えたばかりだった。


懐の中に、その紙がある。


「……その方式は、秀忠様が」


「はい。本日、秀忠様よりご提案をいただきました」


「……なんと」


「書類が三十枚届いたところ、三枚目でお閉じになりまして」


「……」


「『全部に目を通すのは無理』とおっしゃいました」


岡崎主水正は、懐の二十二項目を思った。


一項目:決裁書類の優先度分類(緊急・通常・参考)

二項目:担当官の責任範囲の明示

三項目:将軍への上申は最終確認のみとする……


「……骨格が」と岡崎は言った。声が、わずかに低かった。


「はい」と土井が言った。「岡崎殿が以前から考えておられたこととも、重なるかと思いまして」


「……聞いておられましたか」


「なんとなく」


岡崎は少し間を置いた。


「……私の案を、ご覧になりますか」


「ぜひ。制度を整えるのに、岡崎殿の案は必ず役立てられます」


「秀忠様はご覧になりますか」


「……たぶん、たぶんですが」


「渡さない方がいいですか」


「……渡せれば、また閉じられると思いますが、内容はきっと活きますので」


岡崎は懐から紙を出した。一週間と今朝分の力作だった。土井に渡した。


「……活きるのですか」


「はい」


「しかし秀忠様は、三枚目でお閉じになる」


「そうです」


「……そして、三枚目で閉じたものの骨格が、私の一週間と合っている」


「おそらく」


岡崎主水正は廊下の向こうを見た。


廊下の先に、縁側がある。縁側の向こうに、庭がある。庭の隅で、秀忠が猫と何かをしていた。猫が逃げた。秀忠が追いかけた。秀忠が転んだ。


「……わかりました」


岡崎は言った。それだけ言った。


廊下を歩き始めて、三歩目でつまずいた。


振り返っても、何もなかった。


岡崎は振り返らずに、歩き続けた。


その夜、本多正信は手帳の五冊目を開いていた。


新しいページに、今日の記録を書いた。


「本日、書類の件につき秀忠様より御意向。『三枚目で閉じた』との報告あり。そこから『担当者決裁・将軍後確認』の方式が生まれた。標本数に追加:二十件目」


書いて、少し考えた。


少し考えてから、もう一行書いた。


「秀忠様が三枚目でお閉じになる理由:面倒くさい。三枚目でお閉じになった結果:制度改革。この因果関係については引き続き観察を続ける」


さらに一行書いた。


「ただし、因果関係があるとは言えない。三枚目で閉じたことと制度改革の間には、土井殿と岡崎殿の仕事が挟まっている。しかし三枚目で閉じなければ、その仕事も始まらなかった。だとすれば、わかりかねる」


正信は手帳を閉じた。


「わかりかねる」と小声で言った。


手帳に書いてから口に出したのは、書いた時より「わかりかねる」の具体性が増した気がしたからだった。理由はうまく言えなかった。


翌日の朝。


土井利勝が書類の束を持って秀忠の部屋に来た。


「殿、本日のご決裁をお願いしたく」


「何枚ですか」


「三枚でございます」


秀忠は猫を撫でながら、ちらと振り返った。


「三十枚が三枚になったんですか」


「はい。残りは私の権限で処理いたしました」


「それはよかった」


秀忠は書類を受け取った。一枚目を読んだ。二枚目を読んだ。三枚目を読んだ。それから花押を押した。三枚とも。


土井は静かに書類を受け取った。


「……秀忠様」


「なんですか」


「昨日の御提案ですが、今後の政務の方式として正式に整備してよろしいでしょうか」


「どうぞ」


「担当官が案を作り、責任者が承認し、将軍が最終確認するという流れを、文書で定めたく」


「どうぞ」


「記録にも残しますが」


「どうぞ」


「よろしいでしょうか」


「さっき三回どうぞって言いましたけど」


「……はい、承知しました」


土井は礼をして廊下に出た。


廊下で少し止まった。


三枚、というのは、昨日の三十枚から、二十七枚が消えた、ということだ。その二十七枚は、今後は土井の権限で処理される。担当官が案を作り、土井が承認する。将軍は最後に確認するだけでいい。


その「確認するだけ」が、機能する。


なぜなら土井が責任を取るからだ。土井が責任を取るから、案を作る担当官も責任を持って動く。責任を持って動く人間が増えると、処理の精度が上がる。精度が上がると、将軍のところへ来る前に多くのことが解決される。将軍のところへ来るのは、本当に重要なことだけになる。


土井は廊下を歩きながら、この構造を頭の中で展開した。


ここまで考えて、止まった。


「これは……秀忠様は、ここまで考えて……」


考えて、また止まった。


「……三枚目で閉じただけ、か」


そうだ。三枚目で閉じて、「全部に目を通すのは無理」と言っただけだ。


そこから先は、土井が考えた。岡崎の案が骨格を作った。竹松が記録に落とした。


秀忠は、三枚目で閉じただけだった。


「……三枚目で閉じることが」と土井は廊下で呟いた。「なぜここに繋がるのか」


答えは出なかった。


出なかったが、廊下の先で仕事が待っていた。


土井は歩き続けた。


その夜。


お江が縁側で茶を飲んでいた。侍女のひさが控えている。


そこへ本多正信が来た。


「奥方様、本日の政務の件で……」


「書類が三枚になった件でしょう」


正信が少し止まった。「……すでにご存知で」


「土井が昼に来ました」


「そうでございましたか」


お江は茶を一口飲んだ。


「土井は、感心していました」


「左様でございますか」


「あなたはどうなんですか」


正信は少し考えた。


「……わかりかねます」


「いつもそれね」


「いつも、そうなのでございます」


お江は庭を見た。秀忠は縁側の向こうで既に布団に入っていた。将軍が夕刻から布団に入るのは珍しいことではなかった。


「三枚目で閉じた、というのが」とお江が言った。


「はい」


「あの人らしい」


「御意向というより、その……」


「面倒くさかっただけでしょう」


「……はい、おそらく」


「でもそれが、土井の仕事を整えることになった」


「そう思われますか」


お江は少し間を置いた。


「思わない」


「……は」


「あの人が面倒くさかっただけで、土井が考えた。土井が考えて、岡崎が案を作った。それだけよ。あの人は三枚目で閉じただけ」


「ではその……」


「でも」


正信は耳を傾けた。


「三枚目で閉じなかったら、そのどれも始まらなかった」


正信は黙った。


ひさは控えながら、この会話の意味を整理しようとしていた。


三枚目で閉じた→土井が考えた→岡崎が案を作った→制度が整う。奥方様は「あの人が面倒くさかっただけ」とおっしゃった。でも「三枚目で閉じなかったら始まらなかった」ともおっしゃった。ということは……


「奥方様」とひさが言った。「その『でも』というのは……」


「ひさ」


「は、はい」


「お茶、もう一杯」


「……はい」


ひさはお茶を取りに行った。


行きながら、「今の『お茶もう一杯』は『これ以上聞くな』という意味か、それとも本当にお茶が飲みたかっただけか」を考えた。


前回と同じ問いだった。


答えは前回と同じく、出なかった。


数日後、土井利勝は新しい書類の束を整理していた。


三十枚の束が、七枚になっていた。


七枚のうち、将軍の花押が必要なものは三枚だった。四枚は担当官が処理し、記録として上がってきたものだった。


土井はその記録を確認した。担当官が責任を持って処理した四枚は、いずれも整然としていた。問題がなかった。むしろ、以前より精度が上がっていた。


なぜか。


担当官が「これは最終的に将軍のところへ行く」という意識なく、「これは自分が責任を取る」という意識で処理するようになったからだ。責任の所在が明確になると、人は丁寧に動く。


土井はその四枚を棚に収めながら、ふとあの朝のことを思い出した。


秀忠が書類の束を受け取り、一枚目をめくり、二枚目をめくり、三枚目で閉じた瞬間を。


あの時の秀忠の顔は、困っていた。読みたくない、とはっきり書いてあった。


それだけだった。


それだけが、ここに繋がっていた。


土井は棚の前で少し立ち止まり、それからまた仕事に戻った。


この感慨を誰かに言う必要はなかった。言ったところで、うまく説明できなかった。


ただ仕事が、以前より、動きやすくなっていた。


それだけが、今のところ確かなことだった。



◇後世の歴史家注◇

「担当官が案を作り、責任者が承認し、将軍が後から確認する」という幕府政務の方式は、江戸初期の文書行政の基礎として高く評価されている。この方式の整備が秀忠の在職初期に集中していることは記録から明らかであるが、具体的な発案の経緯については「秀忠の政務に対する深い洞察」とする説と「純粋に書類が嫌だっただけ」とする説が拮抗しており、決着を見ていない。土井利勝の覚書には「殿が書類を三枚目でお閉じになり」とあるが、次の行は「以下省略」とだけ記されている。以下に何が書かれていたか、誰も知らない。なお当該書類の束は後年蔵から発見されたが、三枚目に折り目がついていたことは記録されておらず、研究者が気づいたのは二百年後のことだった。

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