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ダダッコ秀忠 ~天下一のぐうたら将軍~  作者: おしゃまな耳かき
第四章「政務なんてやりたくない!」

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参勤交代のきっかけ

── 「寂しくないんですかね」の一念が、幕府二百年の安定装置になった件 ──


その日の昼下がり、縁側は穏やかだった。


秀忠は縁側に腰かけ、猫を膝に乗せて日向ぼっこをしていた。猫は目を細めて喉を鳴らし、秀忠も目を細めて空を眺めていた。二者の間には、今日の政務をどうするかとか、天下の行く末がどうなるかとか、そういった深刻なことを考えている気配は、どちらにも微塵もなかった。


竹松が廊下から「殿、土井様がお越しでございます」と告げた。


「今?」


「はい」


「今、猫の機嫌がいいんですけど」


「……申し訳ございません」


「通してください」


竹松が小さく頭を下げ、土井利勝を案内してきた。土井は縁側を見た。将軍が猫と縁側にいる。深刻な顔をしているのは土井一人だった。


「秀忠様」


「なんですか」


「少々ご相談申し上げたいことが」


「どうぞ」


秀忠は猫を撫でながら答えた。視線は空のままだった。土井はその横に控えた。


「西国の大名たちのことでございます」


「西国」


「はい。関ヶ原より後、外様とざまの大名たちが各領地で力をつけております。このまま時が経てば、将軍家に対して弓を引く者が出ないとも限らず……」


秀忠は少し黙った。


土井は固唾を飲んだ。こういう時の秀忠の沈黙は、二種類ある。何も考えていない沈黙と、妙なことを考えている沈黙だ。どちらかは、沈黙の最中には判断できない。


「……大名って、ずっと地方にいるんですか」


「はあ、まあそうですね。基本は自らの領地に……」


「それって、寂しくないんですかね」


土井、一瞬止まった。


「は?」


秀忠は猫の耳の後ろを掻きながら、続けた。


「僕が大名だったら、ずっと地方にいたら江戸のことが気になって仕方ない気がする。江戸で何が起きてるか、誰と誰が仲いいか、将軍が何を考えてるか……全部わからないじゃないですか」


「……はあ」


「知らない場所に力を持った人がいるって、僕も不安ですよ。大名側も同じじゃないですかね。僕たちが大名のことを不安に思うなら、向こうも江戸のことが不安なんじゃないですか」


土井利勝は、その瞬間、気づいた。


秀忠は「大名が怖い」という話をしているのではなかった。「大名も江戸が怖いはずだ」という話をしていた。視点が逆だった。支配する側からではなく、される側の立場から、同じ不安を見ていた。


猫が秀忠の膝の上でひと伸びした。秀忠はそれを受け止めながら、特に何も考えていない顔で続けた。


「じゃあたまには江戸に来てもらえばいいんじゃないですか。来てもらえれば、こっちも顔がわかるし、向こうも安心するし」


「な、なるほど……しかしそれでは費用が……」


「来るたびにお金使うから、変なことする余裕もなくなるんじゃないですか。知らないけど」


言い終えて秀忠、また猫を撫で始めた。


土井は立ったまま、しばらく動けなかった。


「寂しくないんですかね」という一言が、頭の中でぐるぐると回っていた。


支配と被支配の構造を、この人は「寂しさ」で説明した。正しいかどうかは別として、いや、正しいかどうかなど、もはや問う必要もないかもしれない。制度設計の出発点として。統治の根拠として。


これは、おそらく正しい。


「秀忠様」


「なんですか」


「……承知しました」


「そう。じゃあよろしく」


秀忠は空を眺め続けた。猫も眺め続けた。土井だけが、何かを抱えたまま縁側から立ち去った。


「知らないけど」の一言から生まれた制度が、後の参勤交代の原型となった。大名の財力を消耗させ、江戸との間に人質関係を築くという、幕府二百年の安定装置である。


◇後世の歴史家注◇

「来てもらえれば顔がわかる」という発言について「秀忠は支配者と被支配者の相互不信を解消する統治哲学を持っていた」とする研究が有力である。「知らないけど」については、「謙虚さの表れ」とする説と「真に知らなかっただけ」とする説が拮抗しており、決着を見ていない。「寂しくないんですかね」という言葉については、長らく記録に残らなかった。土井利勝の覚書の余白に「殿が大名の寂しさについて何かおっしゃっていた」とだけあり、具体的な言葉は省略されている。研究者は「省略」の二文字を前に、現在も困惑中である。



参勤交代の話が固まった翌日。


岡崎主水正は廊下を歩いていた。


実は岡崎も、この三日間、「大名の統制策」について案を練っていた。


大名の江戸詰め義務化。家族の江戸常住。道中費用の自弁。定期的な参府と帰国の交互制。各藩の財政規模の把握、全部で十二項目、すべて理由と根拠を付けて整理した。今日、土井に渡すつもりだった。


廊下の角で土井に会うと、土井が先に言った。


「岡崎殿」


「土井殿、実は……」


「参勤の件、昨日秀忠様からご発案がございまして、制度設計を始めております」


岡崎の手が、懐の中で止まった。


「……昨日、でございますか」


「はい。大名に江戸へ定期的に来ていただく、というお考えで」


「……費用の件は」


「来るたびに費用がかかるから変なことをする余裕がなくなる、とのことでした」


「……家族の件は」


「それはまだですが、自然と出てくるかと」


岡崎は懐の十二項目を、静かにしまった。


「……承知しました」


一礼し、廊下を引き返した。


三歩目で、石につまずいた。


振り返っても、石らしいものは何もなかった。


岡崎は何も言わず、歩き続けた。


二週間前の法度草案の二十七か条も、今回の十二項目も、懐の中で完結している。秀忠の一言が、毎回その骨格を先に言い当てる。自分が三日かけて詰める論理を、縁側で猫を撫でながら「知らないけど」の一言で出してくる。


それが、正しい。


骨格が、合っている。


合っている、ということは、正しい、ということだ。


それが、一番困った。


翌朝、岡崎はまた書き始めた。それ以外の方法を、知らなかったからである。


その翌日の午後。


本多正信がお江のもとを訪ねた。


お江は縁側で茶を飲んでいた。侍女のひさが控えている。


「奥方様に、ご報告申し上げたいことがございます」


「何でしょう」


「昨日の秀忠様の一言から、土井殿が参勤の制度設計に入りまして……」


「存じております」


「奥方様は、あの一言をどう……」


「どう、とは」


「『大名が寂しくないんですかね』という言葉の、その……真意を」


お江はお茶を一口飲んだ。


「さあ」


「奥方様でも、おわかりにならないと」


「あなたはわかったのですか」


正信は少し止まった。


「……わかりかねます」


「じゃあ私にわかるわけないでしょう」


お江は正信を見た。正信はお江を見た。


「……奥方様」


「なんですか」


「一つだけ、お聞きしてよろしいですか」


「どうぞ」


「秀忠様は、大名が本当に『寂しい』と思って、あの一言をおっしゃったのでしょうか。それとも……」


お江は少しの間、庭を見た。秀忠が縁側で猫と格闘していた。猫が勝っていた。


「……あの人が考えていることと、考えていないことの区別は、私にもつきません」


「では」


「ただ」


正信は耳を傾けた。


「結果だけ見れば、毎回正しい。それだけ」


「それは……」


「それだけよ」と、お江は繰り返した。「それ以上でも、それ以下でもない」


正信はしばらく沈黙した。


ひさは控えながら、この会話の意味を必死に読み取ろうとしていた。奥方様が「それだけ」とおっしゃった。つまり、意図はわからない。でも結果は正しい。ということは……


「……奥方様、その『それだけ』というのは、つまり……」


「ひさ」とお江が言った。


「は、はい」


「お茶、もう一杯」


「……はい」


ひさはお茶を取りに行った。行きながら「今の『お茶もう一杯』は『これ以上聞くな』という意味か、それとも本当にお茶が飲みたかっただけか」を考え、答えが出なかった。


帰ってくると、正信は既にいなかった。


お江は庭の方を見ていた。猫がようやく秀忠の膝から逃げ出したところだった。秀忠が「あ」と小さく言った。


ひさはそっとお茶を置いた。


それだけが、本章における最も正直な記録である。



◇後世の歴史家注◇

本多正信がお江を訪ねた件は、正信の私的な行動記録に「奥方様に参勤の件を申し上げた」とあるのみで、会話の内容は記録されていない。ひさの覚書には「奥方様がお茶をお替えになった」とあり、これ以上の記述はない。研究者は長年この記録の少なさを嘆いているが、「記録が少ないこと自体が何かを示唆する」とする説も根強い。何を示唆するかについては、決着を見ていない。

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