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ダダッコ秀忠 ~天下一のぐうたら将軍~  作者: おしゃまな耳かき
第四章「政務なんてやりたくない!」

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法度を作りたくない!

初めての大名謁見から、十日ほどが経った。


その朝、岡崎主水正は夜明け前に起きていた。


起きていた、というより、まだ寝ていなかった。机の前に座ったまま、五本目の蝋燭が半分になっていた。


手元には、厚みのある巻物が一本。


岡崎は巻物の端を少し開いて、最後の一条を確認した。二十七条目、「前条に違反した者については、将軍家の裁可をもってその処分を定める」。論理の流れは正しい。抜け穴はない。一条から二十七条まで、すべてがつながっている。


岡崎は巻物をそっと閉じた。


二週間だった。


四日は徹夜だった。


その日の午前、岡崎は土井利勝のもとへ向かった。


廊下で土井とすれ違い、岡崎は巻物を差し出した。


「土井殿。法度はっとについての草案を作りました」


土井は立ち止まって、巻物を受け取った。


「拝見します……」


「全二十七か条でございます」


「二十七……」


「各条に典拠と施行事例の想定を付してございます。一条ずつご覧いただければ、骨格の意図が……」


「岡崎殿」と土井が静かに言った。


「はい」


「これは……何日かかりましたか」


「二週間でございます」


「……」


「徹夜が四日ございました」


土井は巻物の厚みをもう一度確かめた。手に持ったまま、少しの間、何も言わなかった。


岡崎には、この沈黙の意味がわからなかった。良い沈黙なのか、悪い沈黙なのか。


土井が口を開いた。


「……内容は、よく練られています」


岡崎の目が輝いた。


「では秀忠様に……」


「ただ」


「……はい」


「秀忠様には」


岡崎は姿勢を正した。


「長いものを渡すと」


岡崎、黙る。


「……どうなりますか」


「おわかりになりませんか」


しばらく間があった。廊下の外で鳥が鳴いた。


「……土井に渡せ、となります」


「そうです」


岡崎は自分の手の中の巻物を見た。


二週間と四日の徹夜を見た。


「……」


「秀忠様から方針をいただいてから、この草案を元に私が整理します。骨格はおそらく岡崎殿の案がそのまま活きますので」


「そうですか」


「ええ」


「私の草案が、活きる」


「はい」


「しかし秀忠様は、私の草案を、ご覧にならない」


「……おそらく」


岡崎主水正は二週間の巻物を土井に渡し、一礼して廊下を歩いた。


角を曲がり、誰もいなくなったところで、壁にそっと額をつけた。


そうしてしばらく、壁と向き合っていた。


翌朝。


老中たちが連れ立って、秀忠の執務の間へ向かった。


その日の秀忠は珍しく昼寝の前で、縁側から戻ったばかりだった。湯飲みを両手で持ちながら、机の前で特に何も考えていない顔をしていた。


「秀忠様」


老中筆頭ろうじゅうひっとうが平伏した。後ろに控える老中たちもそれに続いた。


「……なんですか」


「幕府の基本法度について、将軍としての御意思をうかがいたく参上いたしました」


「法度」


「大名方を治めるための法でございます。何か条かに分けて……」


「土井さんに任せていいですか」


老中たちは顔を見合わせた。


「それは……将軍としての御意思を、この場で……」


「じゃあ一個だけ言う」


老中たちは姿勢を正した。


将軍の「一個だけ」は重い。これが法度の根幹になる。何十年と幕府を動かす一言が、今ここで告げられようとしている。諸大名の運命がかかっている。老中たちは固唾を飲んだ。


秀忠は湯飲みを机に置き、少し考えた。


「あんまりうるさいのは嫌。以上」


老中たちの姿勢が、戻った。


「……うるさい、とは」


「大名同士でしょっちゅう喧嘩されると僕のところに話が来るじゃないですか。それが嫌。喧嘩しないようにしてください。ルールで」


老中たちは、また顔を見合わせた。


その場の少し後方に控えていた本多正信が、静かに口を開いた。


「……秀忠様。一つお聞きしてよろしいですか」


「なんですか」


「大名同士が喧嘩をしないようにする、とおっしゃいました。では、大名が将軍家に対して弓を引いた場合は」


秀忠は少し考えた。


「それは話が来る前に終わらせてください」


正信、黙る。


「揉め事を僕のところに持ってくる前に、揉め事が起きないようにしてください。ルールで。……それが嫌なら、揉め事を早く終わらせてください。どっちかで」


老中たちが、また顔を見合わせた。


本多正信だけが、手元の紙に何かを書き留めていた。


老中たちが退出した後、秀忠は湯飲みを持ち上げ、一口飲んだ。


「……土井さん」


土井利勝が一歩前に出た。


「はい」


「今の、ちゃんとやっといてくれますか」


「承知いたしました」


「全部任せますから、あとは適当に」


「……適当に、ではなく」


「適当にうまいことやっといてください」


「……かしこまりました」


「あと昼飯は何ですか」


「本日は鯛の煮付けと……」


「じゃあそれにします」


「はい」


「以上です」


秀忠は立ち上がり、縁側の方へ歩き始めた。猫が縁側の柱のそばで丸くなっているのが見えたらしく、歩くのが少し早くなった。


土井は退出する老中たちを送り出しながら、手の中の覚書を眺めた。


「喧嘩しないようにルールで 以上」


これが将軍の御意思だった。


それから、法度の草案を書いた岡崎の二十七か条を思い出した。


一条:大名間の私的争いを禁ず。

二条:城の無断修築を禁ず。

三条:婚姻は将軍家の許可を要す。


「喧嘩しないようにルールで」の一言から、この全部が出てくる。


土井は覚書を折りたたんだ。


それだけだった。それだけのはずだった。なのに土井はしばらく、折りたたんだ覚書を机の前で持ったまま、動けなかった。


本多正信は廊下で一人、紙を広げていた。


先ほど書き留めた言葉を読んでいた。


「揉め事が起きないようにルールで。それが嫌なら早く終わらせる。どっちかで」


正信は静かに、この言葉を解析した。


前半は抑止。後半は処理。この二つは、法の本質の、二つの柱だ。法学というものがあるならば、事前の予防と事後の処理、その二段を押さえることが根幹になる。


この人は、それを「どっちかで」と言った。


正信は紙を丁寧に折って、懐にしまった。


「……恐ろしいお方だ」


廊下には誰もいなかった。


正信は一人、静かにそう言った。それから手帳を取り出し、一行書いた。


「本日の発言、動機は不明。しかし核心は正確だった。二十件目」


その夜。


土井利勝が岡崎のもとへ来た。


岡崎は部屋に一人で、机に向かっていた。机の上には白紙が一枚あり、何も書かれていなかった。


「岡崎殿。本日、秀忠様から法度の御意向をいただきました」


岡崎は正座を正した。


「……骨格は、どのようなものでございましたか」


「『喧嘩しないようにルールで。以上』でございます」


岡崎は動かなかった。


「……それで全部でございますか」


「おおむね。あとは正信様が補足をお引き出しになりました」


「……補足の内容は」


「『揉め事を持ってくる前に起きないようにする。それが嫌なら早く終わらせる。どっちかで』でございます」


岡崎は、二週間の巻物の全二十七か条を、頭の中で一条ずつ確かめた。


一条:大名間の私的争いを禁ず。

二条:城の無断修築を禁ず。

三条:婚姻は将軍家の許可を要す。

四条:大名間の私的連絡を将軍家に届け出ること。

……


「……骨格が、合っております」


「はい。岡崎殿の草案を元に整理いたします」


「喧嘩しないようにルールで、から二十七か条が出てくる、と」


「はい」


岡崎主水正は正座のまま、しばらく天井を見た。


「……わかりました」


それだけ言った。土井が帰った後も、岡崎はしばらく天井を見ていた。


二週間と四日の徹夜が、「喧嘩しないようにルールで」の一言に収まっていた。


収まっていた、ということは、合っていた、ということだった。


それが、一番困った。


岡崎は机の上の白紙に目を落とした。


ずっと何を書こうか決めかねていた一枚だった。


少しの間、白紙を見ていた。


やがて、筆を取った。


一条目から、書き始めた。


他に方法を知らなかったからである。



◇後世の歴史家注◇

武家諸法度の原型となった秀忠の発言については「予防的統治の哲学」「法の本質を直観した天性の法治主義者」とする解釈が定説化している。「どっちかで」については現在も解釈が分かれており、「意思決定の二項対立を簡潔に示した」とする説と「本当にどちらでもよかった」とする説が拮抗している。また発言の場に同席した岡崎主水正が当夜に全二十七か条の写しを作り直したことは覚書から確認されているが、その動機については「使命感」「習性」の両説があり、岡崎本人は記録を残していない。なお「喧嘩しないようにルールで 以上」と書かれた紙切れが後年の蔵の整理で発見されており、現在は重要文化財に指定されている。裏面は白紙だった。

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