初めての大名謁見
――作者より一言――
権限の委譲というのは、現代の経営学では最も重要なマネジメント技法の一つとされているが、本章の主人公は経営学など一ミリも知らない。ただ「めんどくさい」から委譲しただけである。しかし結果は教科書よりも教科書的だった。
なお本章には、そのことを最もよく知っていた女性が一人登場する。彼女は何も言わなかった。言わなかったことが、最も正確な評価だった。
そして本章には、そのことを最も熱心に数値で証明しようとした男も一人いる。その男の手帳は五冊目に入り、昼寝の件数を数え始めた。
EP1 初めての大名謁見
将軍就任から三ヶ月が経った頃のこと。
お江は侍女に、ある問いを受けた。
「奥方様、殿はいつも政務を土井様や正信様に丸投げしておられますが……ご心配ではないのですか」
お江は少し間を置いてから答えた。
「心配?」
「はあ、その……将軍としての御威光が」
お江は縁側の向こうを見た。秀忠が縁側で猫を撫でながら、特に何も考えていない顔で空を眺めていた。
「あの人が全部やろうとしたら、もっと心配ね」
侍女には意味がわからなかった。
意味がわかるのは、この時点ではお江だけだった。
大名謁見の日というものは、準備から始まる。
大広間の座配を確認する者、廊下を拭く者、香を焚く者、将軍の装束を整える者、江戸城の中があわただしく動き始めるのは夜明け前からで、それぞれがそれぞれの持ち場で、この日のためだけの仕事をこなしていた。
秀忠はそのころ、まだ布団の中にいた。
「殿、そろそろ」と竹松が障子の外から呼んだのが、四度目だった。
「……あとどれくらいですか」
「装束の着付けに半刻、大広間への移動に一刻ほど……」
「わかった。今日は何人来るんですか」
廊下の向こうで、竹松が少し間を置いた。
「……六十三名でございます」
布団の中から、うめき声がした。
「六十三人が全員、何か言うんですか」
「口上がございます」
「口上というのは、一人どれくらいかかるものですか」
「……大名によりまして、短い方で半刻、長い方では……」
「六十三人来て、全員が半刻以上しゃべるんですか」
「はい」
秀忠は布団の中で何かを計算しているようだった。
やがて布団がもわりと動いた。
「……わかった。でも昼飯は絶対に食べます」
「はい。必ず」
「昼寝も」
「……昼寝は、少し難しいかもしれませんが」
「昼寝がなければ午後がもたない」
「……善処いたします」
「善処じゃなくてちゃんとしてください」
「……はい」
竹松は返事をしながら、手帳に「第四章の冒頭:動機不明、交渉結果は明白」と書きかけて、手帳を持っていないことに気づいた。それは本多正信の習慣だった。
大広間は静かだった。
静かというより、張り詰めていた。全国から集まった大名たちが列を整えて平伏し、新将軍の入場を待っている。その数、六十三。それぞれが威儀を正し、それぞれが自藩の命運をある意味でこの日の謁見にかけていた。
新将軍・徳川秀忠が上座に着いた。
遠目には、堂々としていた。装束は整っている。姿勢もまあ、悪くはない。
ただ土井利勝は上座の少し斜め後方に控えながら、横顔を見て、わかっていた。
顔が眠そうだ。
わかっていた、というより、そうなることは朝から予想していた。秀忠は装束を着る間に三度あくびをしていた。大広間への廊下を歩く途中、二度目を閉じかけていた。着席した瞬間から、目がとろんとしている。
「それでは」
老中の一人が声を上げた。今日の謁見が始まる。
最初の大名が進み出た。
陸奥の雄、仙台藩主。これ以上ない大物から始まりである。その者が平伏し、よく通る声で口上を述べ始めた。
徳川の御威光は天地に満ち、新将軍の御就任はまことに……
一分が過ぎた。
代々の誼みに感謝申し上げつつ、当家としましては今後も変わらぬ忠節を……
二分が過ぎた。
先君・家康公の御遺志を継ぎ、万民のために……
土井は、横目で上座を確認した。
秀忠の頭が、ゆっくりと前に傾いていた。
土井は静かに手を伸ばし、袖をそっと引いた。
秀忠がはっと顔を上げた。
口上は続いている。秀忠は前を向いた。表情が引き締まった。遠目からは、「ああ、深く聞き入っておられる」と見えた。
三分が過ぎた。
……なにとぞ、末永いお引き立てを賜りますよう……
また、頭が傾いてきた。
土井は袖を引いた。秀忠が目を開けた。
また口上が続く。
また、傾く。
また、引く。
七回目に袖を引いた時、秀忠がはっと目を覚ましながら、ぼそりと言った。
「……土井さん」
「はい」
「この方、何を言いたいんですか」
土井はほぼ無音で答えた。「ご挨拶でございます」
「ご挨拶って、何分かかるものですか」
「大名によります」
「一番長い人は」
「……過去には、一刻ほど」
秀忠の目が、初めてはっきりと覚めた。覚めた目で、土井を見た。
「一刻」
「はあ」
「……僕、今日あと何人いますか」
土井利勝は答えなかった。答えるべき数字が、答えたくない数字だったからである。
秀忠は前を向いた。
口上の声は続いている。秀忠はそれを聞きながら、顎を少しだけ引いた。遠目からは「真剣に耳を傾けておられる」に見えた。
「……この人、あとどれくらい話しますか」とぼそりと言った。
「もう少しかと」
「もう少しというのは、どれくらいですか」
「……三十の数を数えるうちには」
「じゃあ数えます」
「は?」
「目を開けてるから、というより数えた方がわかりやすいので」
「……」
「いちにさん、しごろく……」
小声で数えているのは土井にしか聞こえなかった。そして土井だけが、これを何と記録するべきかわからなかった。
最初の大名が退き、次の大名が進み出た。
秀忠は姿勢を正した。それは気合を入れた、というより、仕切り直した、という雰囲気だった。
次の大名が口上を述べ始めた。
また一分が過ぎた。
また頭が傾いた。
土井は袖を引いた。
これが繰り返された。
日が中天を過ぎ、大名たちは次々と謁見を終えて退出していった。土井の腕は、何度袖を引いただろうか、数えていなかったが、昼を過ぎたころには肘が少し疲れていた。
そして竹松が昼食の膳を用意したことを伝えに来た時、秀忠が初めて、はっきりと姿勢を立て直した。
「飯にします」
これが今日初めての、明確で力強い意思表示だった。
昼食の後、秀忠は縁側に出て猫と過ごした。
「昼寝していいですか」
「……三十分だけなら」と竹松が答えた。
「わかった」
三十分後に竹松が起こしに来ると、秀忠はすんなり目を覚ました。
「あとどれくらいいますか」
「残り、二十名ほどでございます」
「そう」と言い、秀忠は立ち上がった。
廊下を歩き、大広間へ向かった。
竹松はその後ろ姿を見ながら、何かが気になったが、何が気になったのかが言語化できなかった。
ただ、そのまま歩いていった。それだけだった。
夕方、謁見が終わった。
土井利勝は廊下の柱に手をついて、少しだけ休んだ。
今日一日、秀忠の袖を引いた回数を、ぼんやりと思い返した。
一度、二度、三度、数えたわけではなかったが、二十五は下らなかっただろう。腕が疲れるほどには、引いていた。
部屋から大名たちが廊下に出てくる声が聞こえてきた。
「……まことに、新将軍はすばらしいお方じゃ」
ある大名が感激した様子で言っていた。
「あれほど真剣に耳を傾けてくださった将軍はおられなかった。一語一語を深く受け止めておられるのが、こちらにも伝わってくる」
別の大名が頷く声。
「左様左様。言葉少なく、それでいて重みがある。老練な将軍でもなかなかああはいかぬ」
「近くで拝見したが、一度も目が合うたことがなかった。目線を上に向けられることなく、ただひたすら深く俯いておられた。……あれは将軍の格というものじゃ」
土井は廊下の柱に手をついたまま、聞こえてくる声を聞いていた。
心の中で、何かが崩れる音がした。
それから、崩れた後がきれいに片付いていく音がした。
この二つが続けて聞こえた時が、一番困る。困るのだが、どう困るのかを土井はうまく説明できなかった。記録にも、書けなかった。
廊下から大名たちが去った後、本多正信が柱の向こうから現れた。
いつからいたのか、相変わらずわからなかった。
「土井殿」
「……正信殿。今日の件は、いかがお聞きになりましたか」
「大方のことは」
「秀忠様は……本日、謁見の間、二十五回以上眠られておりました」
「わかっておる」
「それが大名方には……」
「『傾聴の将軍』と映った」
「はい」
しばらく沈黙があった。
「正信殿は」と土井が言った。「今日の件を、どうお記しになりますか」
正信は少し考えた。
「記さぬ」
「記さない、とは」
「書いても伝わらぬ。何を書いても、何かが抜ける」
土井は正信を見た。正信は廊下の先を見ていた。
「正確に書けばこうなる……『秀忠様は謁見中に二十五回眠られ、その都度土井が起こした。大名方は感激した。土井の腕が疲れた』。これを読んだ者は何を思うか」
「……」
「あるいは大名方の言葉を正確に書けばこうなる……『傾聴の将軍』。これを読んだ者は別のことを思う。どちらも正確である。どちらも正確でない」
土井は何も言わなかった。
正信が続けた。
「一つ、気になることがある」
「何でしょう」
「秀忠様は、今日の謁見を、どうご覧になったと思うか」
「それは……面倒くさかった、のではないかと」
「そうだろう。六十三名の口上を、眠りながらでも最後まで席にいた」
「……はい」
「逃げなかった」
土井はその言葉で止まった。
確かに、逃げなかった。昼食の後に「もう終わりにします」とも言わなかった。「残りは明日にします」とも言わなかった。「呼んでも来ない」という手段を取ることもできたはずだった。それが秀忠だった。
しかし。
秀忠は昼寝の後に立ち上がり、廊下を歩き、大広間へ戻った。
「……秀忠様は、ご自分がどう見えているか、ご存知だと思われますか」
「わかりかねる」
「眠っていたことを」
「わかりかねる」
「大名方がどう受け取ったかを」
「わかりかねる」
「……いつも、それですね」
「いつも、そうなのだ」
その夜。
土井利勝は一人で、今日の書類を整理していた。
謁見の記録、大名名、口上の内容の要旨、将軍の対応。
将軍の対応、の欄は、どの大名のところも同じになった。
謁見、つつがなく完了
それだけだった。
それ以上は書けなかった。書かなかった。書いたところで、何かがずれる気がした。
書類を束にしながら、ふと気づいた。
謁見は終わった。六十三名が全員、将軍に拝礼した。誰一人、問題を起こさなかった。むしろ全員が感激して帰っていった。
秀忠は何もしていない。ただ席に座って、眠っていた。
それなのに、なぜか、うまくいっている。
土井はしばらく、束にした書類を見ていた。
何がうまくいっているのかを、言葉にしようとした。できなかった。
ただ書類は、整然と並んでいた。
土井はそれを棚に収め、筆を置いた。
これ以上考えても、今夜答えは出ない、と思った。たぶん明日も出ない。出ないまま、仕事だけが進んでいく。
廊下に出た。夜の城は静かだった。
遠くから、猫の声がした。
秀忠の部屋の方角だった。
◇後世の歴史家注◇
この謁見について「秀忠は相手の言葉を深く受け止めた上で最小限の反応を示す、いわゆる『傾聴の政治』を実践した」とする研究が主流である。「眠っていた」とする一次資料が複数存在するが、「疲労と集中は紙一重」とする折衷説も根強い。なお「二十五回」という数字は、土井利勝の覚書の余白に、何の説明もなく書かれた数字として発見されている。研究者の間では「謁見の大名の数」「政策提言の件数」「何らかの統計」など諸説あるが、決着していない。正確な意味を知っていた者は、記録を残さなかった。




